いったいどうして、決して楽ではない道を歩いてしまうのか・・・
たとえば、人間関係
― もっとドライになれば、楽でしょうね
たとえば、恋愛
― 友達同士のほうが、楽ですよね
たとえば、仕事
― こんなに熱くならなくてすむものを選べば、楽なんですよね
エネルギーの消費が少ない = 楽
という定義ならば
それらは、きっと楽なのだと思う。
けれども
エネルギー消費が少ないことと幸せとは
必ずしも一致しない。
それは
エネルギーの消費具合を定規で測るとしたら
幸せ具合は体重計で量る
というくらいに
目盛りが違うからだ。
100メートルと1ミリグラムを比べることには
意味がない。
定規は大切だ。
自分がどこで休憩するかを知る手がかりになる。
全力疾走なら50メートル、のんびり歩くなら8キロ・・とかね。
ペース配分をするのに役に立つ。
なんのためのペース配分?
それは
もしかしたら、幸せをずっしりと感じるためにかもしれない。
― ○○が楽だってわかってるんですけどね・・・
そう言いながら
楽な道を歩かない。
それは
自分なりの幸せの形に向かっているから。
それでも、楽な道を歩けばいいのに・・って感じるのは
今は息切れしてるんですよ。
呼吸法を少し変えるといいんですよ。
― でも、この呼吸法しかできないの!
そんな不器用な魂を大切にしたい。
不器用だけれど
歩いている。
それは、やはり尊いと思う。