花嫁衣裳 その2 大正時代~昭和時代 | 風遊花(ふうか)~古布とうさぎとお雛様~

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シルク博物館で開催中の《花嫁衣裳 晴れの日の模様と彩り》 大正時代~昭和編

今回は ちょっと長めの記録になります。

 

 

 

江戸時代 1枚ずつお色直しで着替えていた白赤黒の3枚の着物《三つ揃い》は 明治期になると 三枚の着物を重ねて着て 帯を締める形の《三枚重ね》に変化していきました。

黒い着物を一番上にまとうのは 黒が江戸時代から一番格式の高い色とっされていた事や 明治時代に一般女子の正礼装が規定され 黒紋付の着物が礼節を重んじる場面で着用されるとうになったことからと考えられています。

 

三枚重ねの着物に施される模様は ①黒地には松 赤地に竹 白地に梅という様に 別々の模様を付けたものと ②三枚とも基本となる模様を同じものにし 部分的に異なる模様を加えるものとがありました。

 

今回展示されていた三枚重ねは ②の物。

基本となる吉祥模様は伝統的な《桐に鳳凰》

そこに加えられた吉祥文様は 《松竹梅》の松を 当時流行知っていた《菊》に変えています。

 

こちらの画像には 2枚の着物しか映っていませんが 赤い着物の左後ろに 白い着物が展示されています。

 

 

 

《留袖(三枚重ね) 上着 黒縮緬地 鳳凰に菊桐文様 染繍》大正15年

 

 

《留袖(三枚重ね) 中着 赤縮緬地 鳳凰竹桐文様 染繍》大正15年

この中着の地色の赤や 3枚の着物の模様の配色は 化学染料で染められています。

 

 

 

 

《留袖(三枚重ね) 下着 白縮緬地 鳳凰に梅桐文様 染繍》大正15年

こちらの白い下着の着物は 真っ白でなく 淡い藤色のぼかしの様な色合いで とてもきれいな色でした。

 

 

 

 

明治時代から昭和初期にかけては 黒地の振袖や留袖が一般的な花嫁衣装として普及します。

大幅な物価変動に見舞われた大正時代は 結婚後に着用機会のある留袖が式服として主流になる一方 当日のみ着用する黒の振袖には 華やかさが求められ 下記の振袖のように 胸元まで模様が付けられるようになりました。

 

 

 

《振袖 黒縮緬地 雲に鶴模様 染繍》 大正14年

千代紙で織ったような愛らしい折鶴に 松・竹・梅を配し 雲を重ねて空間を区切る《雲取り》の中に 型紙の鹿の子で亀甲模様が表されえています。

これらの模様を合わせると《松竹梅鶴亀》というおめでたい図柄を集約した模様となりますが 亀は亀甲の形に 鶴は折り紙にと図案化され 新しい時代のデザインとも言える振袖です。

 

 

 

 

丸帯は 帯の中で最も角が高く 江戸時代中期から使われるようになり かつては礼装用の帯として使われるのが主流でした。

長さ4m前後 幅35㎝重さ3㎏と分厚くて重い帯ですが 長さ4.2m~4.5m 幅30cm 重さ1~2の㎏の袋帯より短い帯で 一重太鼓で結ぶことが多い帯です。

  

《丸帯 白地 蜀江(しょっこう)に桐模様 錦織》大正14年

八角形や四角形を繋ぎ合わせ その中に唐花を配したものを《蜀江(しょっこう)》と呼び 中国の蜀を流れる川という意味で この地で生産された絹織物は 奈良時代に仏殿を荘厳()する裂(れつ)などに用いられました。

  ※荘厳・・・智慧や福徳等の善美を持って身や国土を飾る事

蜀江模様は 室町時代になると 茶道具を包む裂の柄として愛好されましたが 後に吉祥模様として丸帯などに用いられるようになりました。

 

 

振袖は 贅沢なものであると同時に 憧れの対象とされ 昭和初期の東京では 振袖の花嫁衣裳を式服として用意する人が多いと 昭和3年9月24日の読売新聞 夕刊の《此の頃の結婚と婚礼支度》で報じられています。

こちらは 昭和初期の振袖と丸帯です。

 

      

 

《振袖 黒縮緬地 桐に鳳凰模様 染繍》昭和時代初期

 

 

 

古代中国の伝説によれば 鳳凰は徳のある天帝(てんてい)(中国における天上の最高神)の治世

に現れる瑞鳥(ずいちょう)(鶴や鳳凰等 めでたいことの起こる前兆とされる鳥)で 桐の木に棲み 竹の実を食すと言われています。

平安時代には 天皇が重要な儀式に召す袍(ほう)()に桐竹鳳凰文が表されました。

  袍 (画像はネットからお借りしました)

 

   

 

 

鳳凰は 想像上の生き物で 鶏 孔雀 獣を合体させた姿が 女性の着物の模様としてあまり好まれなかったのか 江戸時代の花嫁衣裳には桐模様のみが使われましたが 大正時代になると 鳳凰の柄が 好んで使われるようになりました。

 

 

 

明治時代の 祝儀用丸帯は 茶系統の地色のものが主流でしたが 大正時代にかけ 徐々に明るい地色の物に変わって行き 大正時代から昭和時代初期には 白地に様々な吉祥模様を織り刺繍で表した丸帯が婚礼用の帯の定番となりました。

大正4年の御大典を契機に 平安王朝文化を代表する雅楽器を婚礼衣装の模様に用いることが盛んになりました

 

 

《丸帯 白地 雅楽器模様 唐織》昭和時代初期

 

 

 

こちらは 昭和6年の花嫁衣裳

 

 

 

《打掛 白浮紋綾地 破れ子持雲立湧に松喰い(まつくい)模様 刺繍》 昭和6年

鶴が松の小枝を喰む(はむ)松喰い模様の歴史は古く 奈良時代にあった花喰い鳥文様が平安時代に和様化したものです。

雲立湧にも蒸気が立ち上り 雲ができる様子を表した吉祥模様で 平安時代から公家装束に用いられました。

 

 

 

《振袖 紅綸子地 総匹田絞 雪輪梅笹模様 刺繍》昭和6年

お色直し用として 下記の丸帯と共に着用されました。

 

 

 

 

《丸帯 黄縦筋斜子地 薬玉模様 刺繍》昭和6年

 

 

 

《振袖 白綸子地 松竹梅鶴亀模様 染繍》昭和10~11年頃

親子三世代にわたり結婚式で着用された振袖です。

模様は 江戸時代以来の伝統的な松竹梅鶴亀ですが 一つ一つが大胆に表される他 蓑瓶の頭部や足先は刺繍糸の重なりで巧みに陰影をつけ江戸時代とは異なる意匠化が新鮮に感じられます。

昭和10年頃より 白地の振袖が新しい式服として雑誌にも取り上げられています。

 

 

 

 

 

左側《丸帯 綴織地 松模様 刺繍》昭和10~11年

右側緑地 唐松菊模様 綴繍》昭和10~11年

 

 

 

上記の松竹梅鶴亀模様の白い振袖に 綴織松模様の丸帯を合わせて着用した昭和10~11年頃の婚礼写真。

 

 

 

こちらの写真は 昭和27年の両親の婚礼写真ですが 黒い留袖を着ていますね。

 

 

 

 

こちらの振袖と丸帯は とてもインパクトのある衣装です。

 

 

 

《振袖 黒縮緬地 波に古鏡模様染繍》昭和13年

 

鏡の輪郭は 花弁状になっていて 奈良・平安時代に用いられた銅鏡の形を模しています。

この振袖の鏡模様は 正倉院宝物に見られるような上代の染 夾纈(きょうけち)()や錦織で 殻花や鳥などの模様を表した裂を彷彿とさせます。

一方 波の表現は アールヌーボー風になっており 模様の取り合わせ 表現共に斬新なデザインに仕上げられています。

   夾纈・・・2枚の板に同じ文様を彫り その間に布を挟んで染め上げる方法で

         インド 中国 日本で行われた古い防染文様染の一つ

 

 

 

《丸帯 綴織地 鼓に文箱中啓()模様刺繍》昭和13年

   

 

 

 中啓・・・ 扇の一種で 親骨の中ほどから外側へ反らし 畳んでも

           上半分が半開きになるように作られたもの

 

 

 

画像がブレブレですが 帯中央に書かれているのが中啓ですね。

 

 

 

お太鼓部分には きらびやかな鼓

 

 

 

そして 私が生まれた頃の婚礼衣装。

 

 

 

《振袖 白一越縮緬地 青海波に鼓雲菊模様 染繍》昭和33~34年頃

 

 

 

《丸帯 朱地 竹襷に梅蘭菊模様 金襴》昭和33~34年頃

中国では 唐時代から 梅 菊 蘭 竹の4つが徳のある植物として書画や詩の題材とされ 日本でも室町時代から 梅や蘭の水墨画が製作されました。

これら4つの植物が揃ったものを《四君子》と呼び 吉祥の模様として礼装品に用いられました。

 

 

 

振袖と帯と揃いで作った婚礼衣装。

 

 

 

《打掛 紅紋綸子地 霞に鶴模様 刺繍》昭和38年~39年

打掛の下には 紅羽二重の下着が付いた白紋綸子地の振袖を着用し 下記の掛下帯を締めました。

掛下帯も打掛と同じ生地を使い 同じ模様を付けている所が珍しい組み合わせです。

細く線を引いたように描いた霞と 飛翔している鶴の模様の大部分は金糸・銀糸で刺繍し きらびやかで軽やかな雰囲気を漂わせています。

 

 

 

 

《掛下帯() 紅紋綸子地 霞に鶴模様 刺繍》昭和38年~39年

掛下帯・・・打掛の下に占める礼装用の女帯で 袋帯より細めで短めなのが特徴

 

 

 

 

花嫁衣裳の最後は現代の打掛です。

《打掛 朱色地 金雲に鶴模様》

 

 

 

江戸時代からの花嫁衣裳を見てきましたが 女性のファッションは 今も昔も流行に左右されていることが伝わってきますね。

最近の花嫁衣装は 黒いウエディングドレスが流行りだしたと 賛否両論あるようですが これも100年くらい経ったら 当たり前のことになっているかもしれませんね。