「送り火」に想いを | オオルイ コード

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世界中の様々な地域の医療問題に取り組む国際医療支援団体Future Codeで代表を務める医師 大類のブログです。日本の文化から、また活動を通して途上国の現場から感じたことや、経験から思うところを綴ります。

今年の盆も16日を迎えた。

実は数年ぶりにこの8月を日本で過ごしているわけだが、どこにいてもこの時期は少し特別な気持ちになる。

私は職業柄、日本で外科医として生きてきた時代も含めて、やはり「死」というものに立ち会う機会は多かった。

特に私が京都で働いていた時代にも、いろいろな出会いと、そして「別れ」があった。
複数年に渡り、最後まで病気と闘い抜いた人もいた。
ひとり静かに、去っていった人もいた。
治療を通しての医師と患者の長い付き合いの中で、今までのその人の人生経験や、家族の愛について教えてくれた、私にとっても大切な人もいた。

京都の山に灯された、この送り火を見るたびに想う。
その去っていった皆が、この日、再び天に帰っていく。
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もちろん、その中には浄土真宗の方もいるはずではあるし、そもそも仏教徒でもない人もいるが、私はそんな想いを抱きながら、この日に去っていった人を思い出す。

そして誰しもが人生の中で、今の自分を創ったと思うキーパーソンはいるものだろう。

私にとっては、祖母がその人だった。
私の名付け親でもある祖母の墓参りに久々に向かった。

昔は祖母と一緒に歩いた道を、私が小さい頃に旅立った祖父の墓参りのために歩いた道を、ひとり歩く。

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長かった祖父の闘病生活の経験から、祖母は私に医者になって欲しいと願い、私もまた偶然か必然か、それにこたえる事になった。

祖母は行動的な人物で、一度決断したことは絶対に退かない事は親戚中でも有名な話だった。

祖母も奇しくも私の専門とした病気になり、兵庫医大で闘病生活を送り、私が京都から兵庫医大に戻る直前に、祖母も旅立っていった。

弱音は吐かない人だった。
しかし死を悟った最後は「この世界にさよならを言わないといけないのが寂しい」と私に話したが、同時に25年前に先に旅立った祖父に「また会えるのが嬉しい」とも言っていた。

死後の世界などなく、死は「無」でしかない、と考えていた人だったが、最後まで祖母を大切にして死んでいった祖父に「これからまた会える」と、そう思えた事が嬉しかったのだろう、ずっと祖父に会いたかったのだろう。そう思う。

医師になってからも、残念ながら私は祖母が生きている間になにもしてあげることはできなかった。
そして今の私は、きっと祖母からすれば、想像していた「医師」ではないだろうと思う。

しかし医者として生きて欲しいと祖母が望まなければ、もしかすると私もまた全く違う人生を生きていたのかもしれない。
信じた事をやり通せと私に教えたのも、また祖母であった。

人は必ずいつかは死んでしまう。
しかし人は必ずつながるものであり、そのつながりの中で人が創られていく。
この世界に残った人間が旅立った人の想いを紡いでいくしかない。

今年も祖母との対話を終えた。
私もまた来年も、なにか喜んでもらえるような報告ができるよう、日々を生きようと思う。