「正しい事」をするために | 国際支援団体•認定NPO法人 Future Code

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国際医療支援団体であり、医療の届かない場所に医療を届ける活動を基本として教育、貧困、公衆衛生など様々な途上国の問題に対し、日本人として何ができるのかを考え、行動を続けています。支援事業は農業/食糧支援、ソーシャルビジネスによる雇用創出等、多岐にわたります。

いろいろな物事について「正しい事」をすること。

一見この言葉の意味としては単純にも感じるかもしれないが、これは人生の目的にもなれるほど難しいことでもある。

なぜなら、残念ながらもちろん私自身がそうであるように、いつでも人は正しい事がなんであるのかが分かっているわけではないからだ。

世界中の歴史にもあるように、その時代によっても、文化によっても、宗教によっても、組織によってすら「正しい事」というものはある程度の幅を持って変化してしまう。

「正しいと思う事」ができるのであって、今の私もいろいろな活動をしてきてはいるが、これは常に「正しい」のかどうかはわからないし、少なくともそうであれるよう、慎重に、熟考して行動しなければならない。
つまりは、「人間性と人道」というものも、いろいろな時代の過程で成熟し、変化してきたもののはずだ。

人間は、私が思うには、そもそも生物の根底である「生きたい」と思う原則的な感情を共有できるわけで、皆そういう意味では「正しい事」をしよう、助け合おうとするものなのだろう。
そしてできるだけそうあるために必要なこととはなんだろうか。

おそらく私が思うには、倫理観の中で徹底した自分の行動の客観視をするよう努力する事。それと過去の人間の過ちを考える事。
この両輪から自分が思う「正しい事」をするしかないように感じる。

過去の歴史に、深く学ぶべきことはたくさんある。そこで今回は、上記のような事を思うところがあった場所の一つを紹介させていただきたい。




ここはアウシュビッツ強制収容所。私がどうしてもこのヨーロッパに住んでいた時代に訪れておきたかった場所。


入り口には、「働けば自由になる」と書かれたアーチがある。



この場所について、恐らく多くを語る必要はないとは思うが、二次大戦中のホロコーストで、(犠牲者数については所説あるが)約150万人のユダヤ人が犠牲となった場所。





もちろんここは、その惨劇を繰り返さぬための教訓として「世界遺産」とされ、今の時代まで残された。

しかしながら、やはり訪れてみることで、より深くこの場所を考えるようにもなった。




この場所に残されたものは、おびただしい数の生々しい人間の犠牲者の痕跡。そしてこれを生んだ虐殺の「システム化」だ。
ここではこの話は深くは書かないが、まずこれが実際に起こった現実だという事に圧倒されたのは間違いはない。


しかしここで、加えて考えさせられたことがあった。

それはこの強制収容所の所長であった、ルドルフ・ヘスという人物について、アウシュビッツ内で聞いた説明からだ。

また彼は敗戦後に虐殺を指揮した戦犯として処刑されているが、拘留中に回顧録を書き残している。

さらに最近にも彼の娘が、その苦しい胸の内を話した内容が記事として上がっていた。

それらの解説によれば、彼は虐殺を「命じられた仕事」として、それを正しい事かのように行ったが、彼には別の顔もあり、家に帰れば、なにより家族を想う人物でもあったという。

それ故に残された彼の家族は未だ苦しみながら、あの戦争とともに今を生きている。

今の我々からではなかなか想像しにくいようなことかもしれないが、このヘスが血も凍るような極悪人であれば理解しやすいが、実際は彼にも「人間性」という部分が存在しなかったわけではない、というのも皮肉なものだ。
もちろん彼をここで擁護するつもりで話すわけではない。
だが一つだけ言えることは、家族を守るためには命令に従うしかないような、そんな戦時中に彼も生きた人間の一人ではあった。
彼の残した言葉にもあるように、彼らは当時、自分自身に違和感として湧き上がった疑問があったにも関わらず、その疑問をしっかりと見つめる事はしなかった。また、それをさせないシステムでもあった。




ここには「人間性と人道」とは一体なんなのかを問い、その悲劇をしっかりと受け止め、人は学ばなければならない、そのような強いメッセージがある。

人は「正しいと思う事」は出来ても、必ず「正しい事」ができるわけではない。
だからこそ、このような歴史があり、我々は過去から学び、現実に向き合い、未来に生かさなければなければならない。

そして残念ながら、このような虐殺は、遠い昔に起こった惨劇としてだけではなく、今も世界の現実を考えれば、戦争の中に多くの犠牲者は生まれ続けている。

現実、幸いにも情報化された現代では、この様な悲惨な現実は、遠く離れた日本にいたとしても、ただ知ろうとすれば片鱗は知る事ができる。

実際に何ができるわけでなくとも、少なくともまず知る事だけでもいい。
私はそのような現実を自分とは関係ない事として無視する事だけはしたくはないし、考える事を続けていきたい。

このアウシュビッツ=ビルケナウという場所で、私はそれを強く感じた。