Future Codeの活動に関しては、報告している通りなので、それとは別にこの場所の空気感について語りたい。
最初にこのブルキナファソという国に首都ワガドゥグは、車はそれなりに走っているものの、東のタンザニアやケニアと比べれば夜も光も少なく、小さな一地方都市といった印象であった。
そこから車で一時間ほど走ると、サポネ保健行政区に着く。
道中は首都を抜けると、ほとんど何もない道をひたすら走る。

そこでついた村がここだ。
ここにも、何もない。

ただただ日中は本当に暑い。汗が止まらない。しかしその中で我々は村々を回って仕事をするわけだ。
もちろん現地の人々も普通にこの気候の中、農作業など仕事はしているわけだが。
生活も、水道が通っていないので、水浴びで何とかする。外が暑いので、逆に外で水浴びをするのも慣れれば気持ちがいい。
停電も多く、そのお陰で夜はより一層の星の光を浴びることができる。
私は民家に泊めていただいているのだが、寝るときも刺激は尽きない。暗闇の中から、まずはカマキリが飛んできて、首筋に張り付く。もちろん暗闇の中では最初はそれがカマキリだとはわからなかったが。それを振り払い、蚊帳の中に入る。

そしてさらに何かが床を走ってくる音が聞こえる。私の部屋の戸に体当たりし、戸が開く音がしたと思えば、それは私の部屋を走り回る。ネズミだ。遠くで何か動物が鳴いている。
そんな感じで非常に騒がしかったが、30分もすれば気にならなくなり、寝る。
実際、まあいろいろと大変な場所ではあるのだが、しかしながら、なんともこれ以上「のどか」という言葉が合う場所もない。

この地区には、キリスト教徒とムスリムが共存している。また、民族もいくつかに分かれている。
皆それぞれ、はっきりとした宗教は持っているのであるが、これはそれぞれが個人として宗教を守っており、私からみれば皆、宗教の前に友人であって、宗教など関係なくとても仲がいい。
ちょうど今日は今年のイスラムの断食、ラマダンが終わり、祭りの日だった。
広い空き地にムスリムたちが集まり、またそれを周りで眺める数人のキリスト教徒。おそらく彼らは集まっているムスリムの誰かの友達だ。
ムスリムたちもまたこの儀式が終われば、キリスト教徒の友人の家に行き、ともに祝うと言う。

いつも友人たちは誰かの家に集い、話をして楽しんでいる。そこには宗教や民族の壁など欠片も感じない。挨拶だけに友人の家に立ち寄る人もいる。それをまた喜ぶような、笑顔の絶えない大らかな社会だ。
たしかに残念ながら近年にこの国でもテロ事件は首都で発生している。
しかしまた地方にくれば、別の世界があるのだ。
この場所では、人と人の関わりこそが財産であり、楽しみなのだ。
もちろんここには、貧しさもある。食料が買えずに困っている人もいる。
十分な電気もない。水道もない。しかしここでは皆が人を助け合って生きている。
しかしこれは考えてみれば、動物である人間が持つ、純粋な喜びだと思う。人と会ったり、話したり、笑ったり。
それぞれの宗教を尊重しつつも、人間関係を大切にし、それを価値とする。
貧しさはあっても、大変な生活ではある。だから私たちの仕事があるのではあるが、だからといってこの場所では貧しいから、大変だからといって、何もないからといって、決して人間が不幸であるという事ではない、と教えてくれる。
むしろ彼らは人間らしく、生き生きとして毎日を過ごしているようにも思う。
だからこそ私もまた、この現場にいながら彼らから学ぶことは多く、ともに生活してみれば「人間らしさ」について考えさせられる。
そしてここには実に人間くさい、宗教や民族を超えた平和が存在している。
この資本主義の現代社会に、日本という国で生きている我々だからこそ、我々もまた純粋な人間の幸せや、あるべき平和の姿について、現場から学ぶことが多いように思う。
ちなみにこのほのぼのとした地方から、最初は小さな街だと思った首都ワガドゥグに戻った時には、この首都がいかに大都会なのかを思い知った。
首都のメインストリート
