自己の存在に気づいている事の神聖さ | 非二元|目覚めを生きる

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私たちが神聖なる存在に直接アクセスできる唯一の道は、「私は存在している」という疑いようのない感覚から、「私とは何なのか?」を探っていくことです。

 
「あなたは存在していますか?」
 
こう問われれば、どの国の人たちも、たとえ信じている神の名前(宗教)が違っていても、全ての人が「はい」と答えるでしょう。
 
なぜなら、人は、「常にある自己」の存在に気づいているからです。
 
「私とは何なのか?」はよくわかっていなくても、誰もが、私が存在していることに気づいています。
 
ですから、20世紀にインドで非二元(ノンデュアリティ)の体験的理解を説いていたラマナ・マハルシは「Who am I?」と問いかけ、ニサルガダッタ・マハラジはウパニシャッド(仏教以前からあった経典)の言葉を引用し「I am That」と語りました。
また、この教えをヨーロッパに広めたジャン・クラインは「I AM」と語り、「私はある」という確かな感覚から、宗教を問わず、誰もが神聖なる存在であることを説きました。
 
詩人のルーミーが「I searched for myself and found only God; I searched God and found only myself」と語ったように。
 
英語では、「I 」と「God 」は、共に大文字で綴られます。
それは存在そのものを指し示す神聖な言葉だからです。
 
しかし、日本では、どういうわけか、「私はいない」という存在を否定する考えが一部に広まりつつあります。
 
この考えを信じれば、20世紀にマハルシやマハラジらによって広く公開され、その後、ジャン・クラインやフランシス・ルシールらによってヨーロッパやアメリカへと広められた、自己の確かな存在感を頼りに非二元性の気づきに至れる体験的理解の道(ダイレクト・パス)が閉ざされてしまいます。
 
なぜ、今日、こんなことを書いたかというと、「私はいない」という誤った認識を非二元の教えだと勘違いし、私にその意味を訊ねてくる人が後を絶たないからです。
(これは私の推測にすぎませんが、このような誤解が日本に広まった原因は、「I am nothing」という英文を読んだ誰かが、nothingの意味が「物(thing)ではない」という意味で語られているのに、それを「存在していない」と誤って解釈したからではないかと考えられます)
 
すべての人が、自分の存在に自ら気づいているわけですから、「私」の存在を疑う必要など、まったくありません。

ただ、見過ごしてはいけないのは、その「私とは、何なのか?」という問いへの答えです。
 
この問いをきっかけに「私とは個別の体でも、脳でも、マインドでもない」ことがわかったとき、国籍、性別、宗教を問わず、なぜ、すべての人たちが、自分のことを「私」と呼んでいるのか?
この共通の名前が神聖なる唯一の存在を表すホーリーネームであることに、誰もが気づけるようになります。
 
お知らせ
「私は存在している」という確かな感覚を掘り下げていくと、私とは衰えゆく体でも、自分が思っていたような制限された存在でもないことがわかるようになります。
興味のある方は、一度、ノンデュアリティのプライベートセッションをお受けください。