英語圏の人たちは、ノンデュアリティ(非二元性)を理解するのに苦労する。
なぜなら、英語という言語そのものが、自他分離の世界観を前提にしたものだからだ。
生まれた国によって話す言語が決まり、その言葉によって物事の捉え方(世界観)が限定されるので、人間は母国語の世界観に縛られる。
日本に生まれたなら、はじめに日本語を通して、物事を意味をとらえるようになるので、英語圏の人たちとは異なる見方で、世界をとらえるようになる。
日本語を話すとき、意味的に「私」を強調する必要がある時以外、私たちは話し言葉の中に、わざわざ「私」を入れたりしない。
「愛している」とは言っても、「私はあなたを愛している(I love you )」と言うことはない。
英語圏の人たちは、私(subject )と相手(object)が別々に存在しているものとして、世界を観ている。
だから、英語圏の人にとって、日本の俳句の世界観(自他の分離のない、非二元性の臨場感)を直接感じるのは難しい。
古池や 蛙飛びこむ 水の音
この句をどう英訳してみたところで、英語圏の人たちは、言葉で語られた風景をただ客観的にとらえ、この風景のどこに芸術性があるのか疑問に思うだけだろう。
この句の臨場感をダイレクトに感じるには、私が世界に溶け込みゼロ化(非二元)した日本語を通してしかなかなか味わえない。
なのに、私たちは、なぜ、英語圏の人たちから、わざわざ非二元(ノンデュアリティ)を学ぼうとするのか?
彼らは、言語的な制約から、主客対立→主客統合に向かわざるを得ないが、私たち日本人には、そもそも主客を統合する必要はなく、はじめから自然と一つだ。
お知らせ
非二元(ノンデュアリティ)は、芭蕉の句のように私たち日本人が日常生活の中で、直接、感じ取れる生との一体感です。
これは、小難しい話を聞いて、頭をこんがらせながら理解するものではありません。
言語が異なる西洋の人たちにとって頭がこんがるだけであり、私たちにとっては、当たり前のことだからです。
でも、自他の分離感が強いな西洋化が進んだことで、私たち日本人でさえ、だんだん芭蕉の句や禅で語られている非二元性の素晴らしさを感じられなくなってきているのかもしれません。
生きるのが、ちょっとしんどいなと感じている方は、一度、ノンデュアリティのプライベート・セッションを受けてみてください。