「非二元性」と「二元性」はこう違うのかという理解によって、非二元のメッセージは、「二元性」の理解の枠の中に押し込められてしまう。
見えている世界は、映画の映像と同じで、本当の私は映像の中の登場人物ではなく、映像全体を映し出しているスクリーンの方。
このような非二元性に関するメタファーを聞いて、「そういうことなんだ」と理解し、「スクリーンそのものには何も起きていないんだ。ここは安全な場所なんだ」と信じ込もうとしているなら、それは、「映像」を否定し、「スクリーン」に逃げ込もうとしている二元性のマインドの働きそのものだ。
マインドによって理解された非二元は、「非二元」の皮を被った二元性の概念に過ぎない。
マインドの理解による非二元は、見える世界を否定した「虚無感」「憂鬱」を新たに生みだす。
非二元は、理解によって「わかる」ものではない。
非二元は、「理解」や「努力」を要求してはいない。
わかろうとしなくても、努力しなくても、静止することなく現れ出てきている「これ」。
言葉を超えたこのフレッシュさ。
このエネルギーの動きに、名前はつけられない。
あるのはこれだけ。
「これ」を傍観したり、達観できるような誰かはいない。
これは、「非二元」と「二元」、「スクリーン」と「映像」という言葉の二元性を超えて動き続けている。
お知らせ
「非二元に目覚めれば、ラクに生きられるようになる」と聞いて、非二元を頭で理解しようとすると、現れ出てきている生の動きと分離してしまい、無気力になったり、虚無感に陥ったりしてしまいます。
非二元の本を読んでも、重苦しさや生きづらさ、退屈さを感じている方は、非二元(ノンデュアリティ」のプライベートセッションをお受けください。