ノンデュアリティ(非二元)の教師が語った言葉は、ノンデュアリティ(非二元)ではない。
「言葉」を使ってそれが語られている限り、語られた内容は全てデュアリティ(二元)だ。
あなたが「このノンデュアリティの教師は凄い」と思っているなら、あなたは、自分と教師とを比較して見ていることになる。
「凄い/凄くない」の二元性の基準で自分と教師とを分割して見ていることになる。
これが「言葉」がつくりだしている「分離」だ。
でも、言葉に問題があるわけではない。
言葉は、コミュニケーションをとるためにあるもので、それは役に立つ。
だから、ノンデュアリティの教師たちも、言葉の先にある非二元を指し示すために「言葉」を使う。
二元性の言葉を使って「非二元」を指し示そうとしている。
しかし、ここで言葉で語られた内容に着目してしまうと、二元性の言葉の先に「非二元」を見失うことになる。
言葉は二元性を物語っていて、ノンデュアリティの教師が指し示しているのは、「それ」ではないからだ。
そして、「ノンデュアリティの教師」という言葉もまた誤解を招きやすい。
「教師」という言葉を使った瞬間、「生徒」である誰かがいることが想定されてしまうからだ。
非二元に、別々に存在しているような「教師」も「生徒」もいない。
それでも人は、「より良いノンデュアリティの教師」を求めて、二元のゲームをやめられないでいる。