この一年ほど、「個人というものは存在していない」ことをわからせてくれる師の話を聞き続けてきた。
分離した個人というものは存在しないのに、個人があるという前提に立ってワンネスを目指させるグルたちの滑稽ぶりを、面白おかしく笑い飛ばす師の話をきいているだけで、私のエゴもかなり解体されてきた。
それでも私は、まだ、自分というものがあると思いこんでいることに、時々、気づく。
特にこうして文章を書く時は、これを書いてるのは誰なんだ?と問うてみると、明らかに私という人物がいて、それが自論を述べていると、まだ思い込んでいる。
長年の思い込みグセは、なかなか抜けない。
黙っていればいいものの、こうして文章を書くたびに、「ほら、やっぱり自分はいるじゃん」と必死に抵抗を試みているようにも思えて、なんて滑稽なことをしているんだとも思える。
でも、実際、これを書いているのは私ではないことに、私は気づいている。
どこからともなく思考がやってきて、その思考が今、私の指を動かしている。
書いているのは私ではなく、どこからともなくやってきた思考。
私はその思考の展開をただ見ている。
起きることが、今、起きていて、私はそれをただ眺めている。
この一年で、ずいぶん、エゴが消えてきたなと思う。
でも、その成長を喜んでいるのは、エゴの私であることにも、気づけている。
まだ、私がいる。
それに気づくために、この文章が書かれていたことに、私は今、気がついた。