私は50歳になるまで、恐れに支配されて生きてきました。
振り返れば、小学生の頃から昨年あたりまで、自分がやってきたことの裏側には常に恐れがあって、恐れていることが起こらないようにするために動き続けてきたといっても過言ではありません。
いろんなことを学び続けてきたのも、すべて恐れていることを回避するためでした。
それほど、強烈に私は恐れに支配されてきました。
恐れに自分の人生をハイジャックされ、突き動かされてきました。
恐れに自分の人生をハイジャックされ、突き動かされてきました。
私は世界一の怖がりだと自負できるほどの怖がりです。
そして、50年、こういう生き方をしてきてわかったのは、「恐れていたことを私が回避しようとしても、人生でちょんとそれを経験できるようになっている」ということでした。
自分が恐れていることに、ちゃんと向き合えるように人生はできているということです。
自分が恐れていることに、ちゃんと向き合えるように人生はできているということです。
こういうと一見、残酷なように聞こえるかもしれませんが、私の場合、自分の恐れていたことをことごとく経験できたことで、恐れていたものがそれほどのものではなく、恐れを感じる必要性がなくなってきた気がしています。
そして、今朝、私はそもそもいつからこんなに世の中のことを怖がるようになったのかについて、少し振り返ってみました。
記憶を辿ってみると、小学校に入学して間もない頃、学校のトーテンポールによじ登って、先生にこっぴどく怒られた時のことを思い出しました。
当時の私にはトーテンポールがなんなのかという概念がありませんでした。
遊具の一つだと思っていたのかもしれません。
遊具の一つだと思っていたのかもしれません。
ただ登ってみたかったので登ってみたわけですが、「これは登るものじゃないんだ」と先生に怒られてしまったわけです。
その時、私はうつむいてしまって、「自分はなんてとんでもないことをしてしまったんだ」と凄く自分を責めた覚えがあります。
この社会には自分の知らないルールや決まりごとがたくさんある。
それがわからないと、こんな風に嫌な思いや、怖い思いをすることになる。
それがわからないと、こんな風に嫌な思いや、怖い思いをすることになる。
だから、よく先生のいうことを聞いて、良い子になろうと思った瞬間だった気がします。
自分の心が望んでいることを押し殺して、周りの様子や反応を伺いながら生きるようになった始りの日だった気がします。
つまり、私は、生まれながらの怖がりではなかったわけです。
小学生になる前の私は、ぼーっとした子だったけれど、怖がってはいなかった。
ただ、ありのままの私でいた。
自分自身のことをどうのこうのと批判して生きてはいなかった。
ただ、ありのままの私でいた。
自分自身のことをどうのこうのと批判して生きてはいなかった。
私は今、その頃の自分に戻りつつある気がします。
トーテンポールに登りたいとはもう思いませんが、確実にその頃の私を思い出しつつあります。
こちらの私は世界一の怖がりですが、どうやらあちらの私は世界一怖いもの知らずの私のようで、私は今、その両方の私の素晴らしさに目覚めつつあります。
■来週末、久々に東京で講演会をやります。覚醒ブームに翻弄されない生き方について話します。