間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動)

間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動)

私たち人間は、
言葉で物事を考えている限り、
あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。
当ブログでは、
万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、
言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

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 趣味としての和太鼓がそこそこ人気があるわけの一つに「誰が叩いても大きな音が鳴る」という点があります。
 とにかく打てば音が鳴るから楽しい、いろんなリズムが打てるようになることが楽しい、みんなでポーズなどを揃えて演奏すると誉めてもらえるのが楽しい、いろんな曲を覚えていくのが楽しい。
 初心者が考える和太鼓の楽しさと言えば、大抵はこのようなものでしょう。
 
 しかし、こういった分かりやすい楽しさだけを追いかける性分の持ち主は、新しく覚える曲のレパートリーが尽きてしまうと「自分の成長を感じられる機会」がなくなってマンネリ化してしまうという残念な傾向があります。
 和太鼓の教室を運営している友人などにも、「これまで教えてきた曲すらまともにできていないのに新しい曲ばかりすぐに求めてくる」という愚痴を聴くことが多いです。
 そんな愚痴を聴いているときに思い付いたのが、和太鼓の目標の持ち方を「刺激・調和・変化」の3つの角度から捉えるというアイディアです。
 
 刺激とはそのパフォーマンスの迫力や躍動感や奇抜さといった要素のことで、刺激が少ないパフォーマンスは「つまらない」と見なされがちです。
 調和には、リズムやメロディやテンポなどの物理的な調和に加え、プレイヤー同士の息の合い方やオーディエンスとの共感の深さといった精神的な調和とがあり、この調和が足りないパフォーマンスは「気持ち悪い」と受け止められます。
 最後の変化はパフォーマンスのバリエーションのことで、変化に乏しいと「同じことばかりやっている」と飽きられることがあります。
 
 和太鼓における成長とは、刺激を縦軸、調和を横軸、変化を高さの軸と見なすような立体的なもの。
 見識の浅いプレイヤーの脳内には変化という高さ軸の上に新曲を次々と積み上げることしかなく、たとえ同じ曲をやるにしても「より調和のとれたきもちいいパフォーマンスにしよう」とか「より刺激的で面白いパフォーマンスにしよう」といった縦軸や横軸の視点が疎かなのです。
 さらに言うならば、見識の浅いプレイヤー達が次々と新曲を求めたところで、同じような打ち方や同じような流儀で演奏してしまえば単純に曲の数が増えるだけのことであり、変化の豊かさという唯一の軸さえまったく伸びなかったりします。
 
 また、曲をただ覚えるだけでは飽き足らないという上昇志向の高い和太鼓プレイヤーたちがこだわりがちなのが、迫力や躍動感や奇抜さといった刺激の強さ。
 刺激を強化するためにとられがちな選択肢が、太鼓の巨大さや太鼓の台数の多さや楽器の多彩さや奇抜なファッションや音響照明や凝った舞台装置といった「金で解決できる要素」です。
 金以外の努力の要素について言えば、細かいリズムや速いテンポといった要素や、きつい運動ができ見栄えのする筋肉を築けるストイックといった要素が追求されがちです。
 
 しかし、各地に伝わるお祭り芸能の担い手たちは、こうした現代の和太鼓プレイヤーにありがちな努力の方向を、そこまで大事な要素だとは見なしていません。
 なぜなら、彼らがもっとも重要視しているのは「聴いていて心地いい」という調和の高さであり、上に挙げたような方向ばかり向いているプレイヤーたちの演奏が往々にして雑で乱暴で聴いていて気持ちよくないからです。
 彼らも刺激の強さを求めること自体はありますが、それはその地域でしか育まれなかった個性的な流儀だったり、無駄のないしなやかな動作のキレの良さだったり、筋力まかせの不自然な打ち方では実現できない音の重みや深さだったりします。
 
 そんな民俗芸能の担い手たちが実現している、地元ならではの奇抜な流儀や無駄のないナチュラルな動作がもたらす刺激や、共同体の中で培われてきた物理的かつ精神的な調和の深さを追求しているのが、私が師と仰ぐ歌舞劇団田楽座です。
 彼らは全国のさまざまなお祭り芸能の担い手に指示し、太鼓・笛・三味線・唄・神楽・囃子・獅子舞・民舞・万歳など、変化に富んだ演目を舞台に挙げています。



 そんな彼らに学んできたからこそ、私も「刺激・調和・変化」という多角的な和太鼓の見方を覚えることができました。
 見識が浅く新曲ばかり求めるプレイヤーには、そんな立体的なものの見方をレクチャーしてみるのも一つの手かもしれません。
 田楽座から教わった「確かな重心操作を常に活用して打つ和太鼓」を実践していると、よくいただく感想が「全身が躍動している」「本当に楽しそうに演奏している」「何かに取り憑かれたみたい」といったもの。
 これは、田楽座の教えが十分に反映された結果だと感じています。

 田楽座はよく「決まった振りの通りに体の動きを揃えるのではなく、内から自然に湧き上がってきた衝動が結果的に動きになるようにする」という言い方をします。
 確かに私も湧き上がってくる衝動に任せて飛び跳ねたりしてるだけで、別に「こんな振りをしなければ」と頭で考えて動いているわけではありません。
 和太鼓の仲間たちの中にも「心の底から楽しい!」という衝動が、その細い体に収まりきれずに溢れ出たかのような活き活きとした動きをする人が何人もいます。
 
 じゃあ、どうすればそんな楽しさを体で表現できるのか。
 「気持ちを動きにすると言われても難しすぎて意味が分からない」という人もいると思います。
 
 でも私の答えは簡単です。
 人間の心と体は別々のものではなく全て繋がっていますから、動作の中でも感情を開放させやすいものを選択すれば良いのです。
 具体的に言うと、「重力に身を任せて重心を落下させる」「太鼓の皮の跳ね返りに任せて重心をバウンドさせる」「体の各部を、慣性に任せて放り投げる」などの動きのことです。
 
 私達は普通に立っているだけでも重力に逆らって身を起こさなければならないので、日常的に全身の筋肉を少なからず緊張させています。
 ですから、立っているときより座っているとき、座っているときより寝ているときの方が、体の緊張が少ないぶん心もリラックスしています。
 
 先ほど挙げた体を落下させたり放り投げたりといった動作には、体が直立しているにもかかわらず立つために必要な力みを放棄する必要があるので、最初はなかなか思い切れない人が多いです。
 いつも頼ってる命綱を切ってしまうような気がして、恐怖心が先立つのでしょう。
 
 しかし、トランポリンで飛び跳ねて遊んでいるときのことを思い出してみてください。
 ジェットコースターが好きな人は、高いところから一気に滑り落ちる場面やぐるぐる回転している場面を思い出せばいいかもしれません。
 これらの例を思い出してみれば分かるように、重力に身をゆだねて身を放り投げたり落下させたりする行為には、日常ではなかなか味わえない開放感があるのです。
 それこそバンジージャンプなどが良い例でしょう。
 
 感情の開放にまず必要なのは、全身のリラックス。
 ですが、一般に流布している和太鼓の演奏法は、緊張した直立状態での身体動作の延長でしかありません。
 下半身の位置を固定し、胴体の向きを真正面に固定し、顔の向きも正面に固定し、バチの動きをいちいち止めたりして、全身の筋肉を常に緊張させて体にブレーキをかけてしまいます。
 
 ですから田楽座の座員がやっているように気持ちを開放させながら演奏するには、下半身の位置を固定させずバネのように柔らかく使い、胴体と顔の向きも固定させず上方にも動くよう柔軟に開放させ、バチもなるべく止めずに素直に跳ね返してやる必要があります。
 そういったブレーキをかけない基本的な体の使い方の中で、「重力に身を任せて重心を落下させる」「太鼓の皮の跳ね返りに任せて重心をバウンドさせる」「体の各部を、慣性に任せて放り投げる」などの動作を体に染み込ませてあげれば、そのうちにドンドンと体の奥から気持ち良くなっていきます。
 
 また、そのように解放された演技を観ているだけでも、そんな解放感を追体験することができます。
 感情を思いっきり開放させてすっきりしたい方、田楽座の太鼓や踊りに触れてみるのは如何ですか。
 私が和太鼓の師匠と仰いでいるのは、長野を拠点とする歌舞劇団田楽座。
 全国各地の唄や踊りや太鼓などを地元の方々に直接教わって舞台に上げている彼らの、和太鼓業界における同業他社との明確な違いは、太鼓を打つ際「確かな重心操作」を常に活用していることです。
 
 全国的に広く普及してしまっている和太鼓の流儀は、アキレス腱のばしのストレッチのような低い体勢でどっしり構え、背筋を伸ばした姿勢で両腕をピンと突き上げ、真っ直ぐバチを降り下ろすというもの。
 このとき往々にして重視されがちなのが、低く構えた姿勢やバチをピンと突き上げた姿勢などが他のプレイヤーとも綺麗に揃っていること。
 この様式美を追求するためなのか、太鼓を打つ際に「できるだけ胴体が動かないように」という指導を徹底させる流儀も少なくありません。
 
 また、たて乗りに体を上下させながら軽快に打つようなシーンを取り入れるチームもありますが、それも「楽しそうな雰囲気を演出するのに丁度いいだろう」という追加オプション的な位置付けであり、平常時は重心操作を全く使用せずにガチガチの固定姿勢で打っていることが多いです。
 さらに、一発一発高々とバチを掲げて打ち込むときに、大きく背伸びをして真っ直ぐ腰を落とす重心操作を活用するチームもありますが、これも特別に意識したときだけ使えるとっておきでしかなく、意識せずとも常に活用できるという次元には行き着いてないことがほとんどです。
 
 その点、田楽座は踊りでも太鼓でも何時なんどきでも「確かな重心操作」を常に活用することを心掛けており、無意識レベルでも常に活用できています。
 これは、全国各地の踊りや太鼓の担い手の中に「確かな重心操作」を活用している人が多いから。
 私の15年の和太鼓歴の中で一番衝撃的だったのが、和太鼓を始めてちょうど1年のころに教わった田楽座流の打法。
 天井に刺さっているバチを全体重で引っこ抜くように打つという喩えを聞いて以来、どんな曲もその喩えの通りに打てるようになろうと、身体の使い方を研究し続けてきました。
 その成果を後輩たちにも伝えるために、オリジナルの喩えや練習法なども色々と考案し、自分なりに導きだした成果を「バチコーン打法」と名付けて広めたりしています。
 
 田楽座流の打法に自分なりにアレンジを加えた「バチコーン打法」を使っていると、よく受ける評価が「めちゃめちゃ音がデカイ」「バチを振り上げる動作が柔らかい」「めちゃめちゃ飛んでる」など。
 特に、最後の「めちゃめちゃ飛んでる」に関しては、私だけの特別な個性のような言われ方をすることが多いです。


 一般に和太鼓とは、ずっしりと低く構えた姿勢から整然と打ち降ろすのが普通だととらえられがち。
 そんな打つ動作にジャンプを加えるというのは、派手に見せたいときだけに行う特殊なアレンジだと受け取られてしまうのです。
 
 ですが「バチコーン打法」における「ジャンプ打ち」は、基本の打ち方を身に付けるための通過点。
 喩えるならば、まだ自力では泳げない人が補助的に使用するビート板と同じ位置づけなのです。
 
 バチコーン打法の要点は、重心を上方に浮かす勢いで腕ごとバチを放り投げ、重心を真下に垂直落下させる勢いで和太鼓の打面の上にバチで着地するように打つというもの。
 このときに重要になる「重心を真下に垂直落下させる」という動作が、身体を固定させることに慣れた現代人にはなかなか理解し難いようです。
 そんな人に垂直落下の感覚を感じとってもらうためには、軽くジャンプしてバチごとドサッと太鼓に着地してもらうのが効果的です。
 
 このジャンプ打ちの練習が上手くいけば、次はジャンプしなくてもその場で垂直落下するという練習をしてもらいます。
 それでもできない場合は、直前に爪先立ちになって重心を浮かした直後に、大きく開脚して両足を空中に浮かすことで落下上体を生み出します。
 
 こうした練習の目標は、足腰や胴体を柔軟に使って、いつでもどこでも重心を浮かしたり落としたりできるようになること。
 そんなバチコーン打法ですから、太鼓を打つときにジャンプをするというのは特別なことでもなんでもなく、むしろ入門の動作に戻るというだけのことなんです。
 和太鼓を打つときの私の流儀は、天井に刺さっているバチを全身の体重で引っこ抜くというもの。
 ただ単に、腕を高く上げてバチを真っ直ぐ降ればいいという程度の理解では肩から先しか使わない「手打ち」にしかなりませんから、足腰のバネの勢いがをバチ先まで柔らかく伝える身体操作が必要となります。
 
 太鼓仲間の中にはこの打法を参考にしたいと言って聴いてくる人も多いのですが、これまでの経験上、このやり方を何度か聞いただけでマスターできた太鼓打ちは一人もいません。
 特に和太鼓を長年やってきた人ほどそれまでの流儀が素直に吸収するのを邪魔するので、マスターしてもらうには繰返し訂正する必要があります。
 
 素直に吸収できない人にこびりついている固定観念とは、できるだけ全身を固定させ続けようとする癖です。
 動物は本来自由に動き回っていたがる生き物ですが、幼い頃から「じっとしていろ」「大人しくしていろ」というしつけを受け続け、初心者の頃に「できるだけ低く構えろ」「視線は正面に固定」「胸を張って上体はぶらすな」などと刷り込まれた人は、バチを握ったら「なるべく動かないこと」の方を標準にしてしまっているのです。
 
 なるべく動かないことを基本にしてしまっている「メジャーな和太鼓の打ち方」は、ボクシングで言えば「腰の乗らない手打ちのパンチ」ですし、野球なら「体重移動の曖昧な手投げのピッチング」や「腰の回らない腕だけのスイング」ということになります。
 そちらを基本にしてしまっている人が後から「体重のしっかり乗る打法」を覚えると、その打法は「いつも実践する基本の打法」ではなく「大きく打ちたいときだけ行う特別な打法」としてインプットされるのです。
 
 体重を利用する打法を「特別な打法」として処理する人は平常時に体重を利用しない打法を使っているので、いざ大きく打とうとするときに「スイッチの切り替えの不自然さ」が悪目だちしまいます。
 ですから、大きく打つときに体重を「自然に」乗せるためには、普段の全ての打ち方を体重の乗った打法に切り替える必要があります。
 
 大きく打ちたいときは体重を大きくバウンドさせ、小さく打ちたいときは体重を小さくバウンドさせ、極々小さく打ちたいときは敢えて全身の動きを止める。
 それはつまり、一般の太鼓打ちとは逆で、体重をしっかり乗せる打法を「基本」にし、なるべく体を動かさない打法を「応用」にするということです。
 和太鼓を打つ際、自然でしなやかなバチさばきを実現するためのコツは「腕はないと思って振る」ということ。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/06/08/000300
 「バチ先を打面に当てるために腕で振り回してやろう」ととらえている人は、腕だけでバチの動きをコントロールしてやろうとしてしまうために、脚や腹や腰やヘソなどが腕と全く連動せずに不自然な動きになるからです。
 
 こうした身体の連動の不自然さを解消するために、歌舞劇団田楽座が和太鼓指導の際に駆使しているのが「天井に突き刺さっているバチを全身で引っこ抜くように」という比喩です。
 和太鼓を始めた頃、私は田楽座から一打一打の打ち方をこのように教えてもらったため、それ以来私は愚直にその教えを追求してきました。
 
 この「全身で引っこ抜く」という流儀のメリットは、全身の動きがダイナミックになる、バチの勢いが増して音量が数倍になる、全身を弾ませているので心までも弾む、その生き生きとした様が見ている人にも伝わる、全身の連動がスムーズなので速いリズムも自在にこなせる、などいくつも挙げられます。
 ですから、私自身もこの田楽座から教わった流儀を、数多くの人に伝えてきました。
 
 その際、この「全身で引っこ抜く」という流儀を素直に身に付けられる人と、先入観が邪魔をしてなかなか身に付けられない人とが現れます。
 その差を分けるのが「天井に刺さっているバチを全身で引っこ抜く」という情景を、どこまで本気で演じ切れるか。
 本気で演じずに上辺の形だけを真似しようとする人は、結局先入観に負けて腕だけで振り回してしまうのです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2016/07/18/000203

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2016/06/19/235953

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2016/06/13/000328
 私は大学で数学を先攻し、現在は高校で数学教師をしていますが、数学への愛はそれほど感じていません。
 小・中・高まで数学が得意でい続けたので「大学の数学はどんなものだろう?」という興味はありましたが、興味があったのは「数学に出てくる理屈が自分には分かるかどうか」であって数学自体が好きなわけではないということに、大学3年生の頃に気が付いたのです。
 
 この数学への愛のなさは、数学教師としてプラスにもマイナスにも作用しています。
 この数学の指導と数学への愛との関係について、文部省の学習指導要領を参考にしながら語ってみたいと思います。
 
「小学校学習指導要領」
算数的活動を通して,数量や図形についての基礎的・基本的な知識及び技能を身に付け,日常の事象について見通しをもち筋道を立てて考え,表現する能力を育てるとともに,算数的活動の楽しさや数理的な処理のよさに気付き,進んで生活や学習に活用しようとする態度を育てる。
 
「中学校学習指導要領」
数学的活動を通して,数量や図形などに関する基礎的な概念や原理・法則についての理解を深め,数学的な表現や処理の仕方を習得し,事象を数理的に考察し表現する能力を高めるとともに,数学的活動の楽しさや数学のよさを実感し,それらを活用して考えたり判断したりしようとする態度を育てる。
 
「高等学校学習指導要領」
数学的活動を通して,数学における基本的な概念や原理・法則の体系的な理解を深め,事象を数学的に考察し表現する能力を高め,創造性の基礎を培うとともに,数学のよさを認識し,それらを積極的に活用して数学的論拠に基づいて判断する態度を育てる。
 趣味の一環として和太鼓の世界に関わっていると「和太鼓は日本の伝統芸能である」という謳い文句をときどき耳にしますが、私はその仰々しいプロモーションを聞く度に恥ずかしい思いでいっぱいになります。
 今回は「和太鼓」を「日本の伝統芸能」と呼ぶことが恥ずかしいと感じる理由と、どう呼べば恥ずかしくないかという代替案について語ってみたいと思います。
 
 まず、インターネットで「日本の伝統芸能」と検索してみると、Wikipediaの「日本伝統芸能」というページが見つかります。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E8%8A%B8%E8%83%BD#.E4.BC.9D.E7
 そこに書いてある説明をまずは紹介してみましょう。
 
「日本伝統芸能」
伝統芸能(でんとうげいのう)とは、日本に古くからあった芸術と技能の汎称。
特定階級または大衆の教養や娯楽、儀式や祭事などを催す際に付随して行動化されたもの、または行事化したものを特定の形式に系統化して伝承または廃絶された、有形無形のものを言う。
詩歌・音楽・舞踊・絵画・工芸・芸道などがある。
 
「伝統芸能の定義」
伝統芸能とは、西洋文化が入ってくる前の芸術と技能を現代芸術と区別した呼称である。
日本固有の文化という意味だが、文化の先進国であった中国から流入したものを日本独自のものに作り変えたものが多い。
したがって成立の仕方は現代芸術とさほど変わりはない。
しかし、明治期の西洋化以降も伝統芸能が既存の形式を保持して存続し、現代芸術と相互に関連性が少ない形で併存しているのは事実である。
 
和歌、俳諧、琉歌、神楽、田楽、雅楽、舞楽、猿楽、白拍子、延年、曲舞、上方舞、大黒舞、恵比寿舞、纏舞、念仏踊り、盆踊り、歌舞伎舞踊、能、狂言、歌舞伎、人形浄瑠璃、雅楽、邦楽、浄瑠璃節、唄、講談(講釈)、落語、浪花節(浪曲)、奇術、萬歳、俄、梯子乗り、女道楽、太神楽、紙切り、曲ゴマ、写し絵、花火、彫金、漆器、陶芸、織物、茶道、香道、武芸、書道、華道などに分類される。
 
 ここで注目したいのは、これらのリストの中に「和太鼓」という単独のくくりが存在しないこと。
 これらの伝統芸能の中で楽器として和太鼓が使用されることはあるとしても、和太鼓単独では「日本の伝統芸能」としてリストアップされないのです。
 
 では和太鼓は伝統芸能ではないのか。
 日本の各地には、明治の西洋化以前から伝わる「太鼓だけの楽曲」も残されています。
 そういった曲のことを「伝統芸能」と呼ぶことに関して、私は何の抵抗も感じません。
 
 私が抵抗を覚えるのは「日本の」という大袈裟な言葉を冠に添えようとする瞬間です。
 それは「日本の」という言葉には「日本を代表する」といったニュアンスを聴き手に伝えてしまう可能性があるから。
 能や狂言や歌舞伎のようにガチガチに権威づけられ「日本を代表する伝統芸能」として宣伝され続けている芸能ではないのだから、そんな誤解の可能性がないよう「どこどこの地域の伝統芸能」といった等身大の呼び方をすれば良いじゃないかと思うのです。
 
 喩えて言うならば、各地の伝統芸能は地域ごとの方言のようなもの。
 自分たちが使っている方言のことを「地元の伝統だ」と言うのならまだ共感することはできますが、わざわざ「日本の伝統だ」なんて大袈裟に言いたがる人がもし仮にいたとすれば「なぜそんなに誇張したがるのか」と疑問を感じてしまいます。
 
 実際に各地の伝統芸能の継承者たちも、「日本の伝統芸能だ」なんて大袈裟な言い方はしません。
 だって、自分たちの地元で受け継いできた「自分たちだけの伝統芸能」なんですから。
 
 では、和太鼓のことを「日本の伝統芸能」と呼びたがるのは誰なのか。
 それは、明治の西洋化以前には存在していなかった「伝統とは縁遠い和太鼓パフォーマンス」に興じているくせに、身の丈以上に由緒ある存在として有り難がられたがる権威志向の人や、宣伝文句として有効なら何を言ったって構わないと考えるいい加減な人などです。
 
 和太鼓を主役扱いして舞台に上げるというジャンルが発明されたのは太平洋戦争以降のことですから、せいぜい70年程度の歴史しかありません。
 西洋の音楽教育の影響をおおいに受けた人たちが、伝統芸能の中で使われていた和太鼓という楽器に注目し、西洋音楽の素養をもとに造り上げられたのが現在の「和太鼓」という業界です。
 そんな戦後発祥の「和太鼓パフォーマンス業界」には、「基本の構え」だとか「基本の打ち方」なんて教えが流通していますが、これらの基本も「戦後に生まれた思い付き」でしかありません。
 
 だから、そこで流通している基本を学んだとしても、日本古来の伝統を受け継いでいることにはなりません。
 もしそれらの基本を「日本の伝統」だと言う人がいたとすれば、それは嘘か勘違いか誇張です。
 教えられた基本を守る人が実践しているのは、「日本古来の伝統の継承」ではなく「戦後の思い付きを新たな伝統に仕立てようとする営みへの加担」なのです。
 
 私が心配するのは、和太鼓の担い手が「和太鼓は日本の伝統芸能なんだ」と強弁すれば、さほど詳しくない人は「立派な伝統のもとに脈々と受け継がれてきた格式高いものなんだな」という風に、それがたとえ「戦後の思い付き」でしかなくても信じ込んでしまうこと。
 そこにつけこんで「日本を代表する伝統芸能」としての権威を捏造しようとする発言者の下心を感じてしまうがゆえに、私は「和太鼓は日本の伝統芸能だ」という言い方に嫌悪感を覚えてしまうのです。
 
 私はこれらの嫌悪感を避けるために、便利な言い替えを意図的に使用しています。
 まず、各地に伝わる「本物の伝統芸能」「郷土芸能」について「日本の」という冠を敢えてつけるならば、権威を匂わせない「日本の民俗芸能」という言葉を選択します。
 誤解されることが多いのですが、「民族芸能」ではなく「民俗芸能」であるところが大事なポイントです。
 
 それは、民俗芸能という言葉が柳田国雄の「民俗学」から来ているから。
 西洋の諸勢力が世界中に植民地支配を拡大していた時代、世界中で発見された「文明化されていない未開の地の野蛮人」の生態を研究するための学問として「民族学」が生まれました。
 この学問の前提には、西洋圏以外の人々に対する見下しの目線が含まれていたため、柳田国雄は「西洋化以前の自分たちのルーツを発掘する」という意味合いで、見下しのニュアンスを含まない「民俗学」という言葉を選んだのです。
 
 さらに、戦後生まれの「和太鼓」に「日本の」という冠をつけるならば、「日本の伝統楽器を利用した舞台パフォーマンス」だとか「日本の民俗芸能からインスピレーションを受けた舞台パフォーマンス」と呼びます。
 「ご立派な権威とは縁遠い業界でしかない」という実態を、誤魔化さずにきちんと説明するならば何も恥ずかしいことはありませんから。
 私としては、変な誤解がこれ以上広まらないように「民俗芸能」という適切な言葉がもっと使われるようになって欲しいなと願っています。
 結婚して3年目になる私たち夫婦の共通の趣味は、美味しいものを食べ歩くこと。
 食事中の会話のテーマのほとんどは「今食べているものの味について」であり、食事の内容と関係のない雑談を食事中にすることは滅多にありません。
 
 そんな私たちにとっての大冒険は、新規の飲食店を開拓すること。
 グルメサイトなどでクチコミ情報を確認することもできますが、世の中には味が濃くて分かりやすければとりあえず「美味しい」と感じる人も数多くいますから、投稿者の味の好みをたいして信用することができません。
 期待したお店が不味かったりサービスが残念だったりするとそのショックを長く引きずってしまうので、新しいお店に入るときはいつも緊張してしまいます。
 
 このように新規開拓の際には外れの店を引いてしまうリスクが付きまとうわけですが、外れたときに生じる失望感を軽減するために、毎回二つの予防策を確認し合うようにしています。
 一つ目は、最初からあまり期待し過ぎないように気を付けておくこと。
 二つ目は、外れを引いたときにも「気になっていた店に×を付けることができたので、今後は全く気にせずに済む」と、建設的に受け止めることです。
 
 二つ目に挙げた「×が付いたことを良しとする」という考え方は、その他の人生の場面でも応用可能な処方箋です。
 たとえば他人に理不尽な接し方をされたときなども、その人が「そんなことをする人だ」という情報自体は、それ以降の自分の人生をより豊かにするのに役立てることができます。
 その人といつまでも密に付き合っていく必要はないのですから、疎遠にするなり連絡を絶つなり付き合いの度合いをコントロールしていけば良いのです。
 
 行くお店も付き合う人も身を置く環境も、こうでなければならないなんてルールはありません。
 限りある人生をより有意義に過ごすためにも、自分の人生のダメージコントロールに「残念な体験」から得られた気付きを活かしていきたいものですね。
 私の高校教師としてのキャリアは今年で11年目。 
 そのうち最初の4年間は難関国公立大学などを目指す生徒が数多く在籍する進学校で勤務し、それ以降は「いわゆる進学校」ではない高校に勤務し、主にその中の大学進学希望者に対して受験数学を教え続けてきました。
 
 教師にとっての永遠のテーマは「教師として生徒に何を伝えるべきか」ということ。
 その内容は「人としてきちんと生きること」「学問の面白さ」「受験テクニック」などさまざまな意見があるでしょうが、私が高校教師として最優先で伝えているのはただ単に「できるまでやらなければできない」ということに尽きます。
 
 現在の私の授業の柱は、単元ごとに行う小テスト。
 不合格者は居残りで再テストを受けなければならず、合格するまでは毎週居残り続けなければなりません。
 私はこの単調なシステムを確立することによって、進学校との「高校入学時の成績の差」を少しずつ縮めてきました。
 
 このシステムを運営するに当たってのこだわりは、生徒に対するその他の強制事項を極力増やさないこと。
 宿題など提出物の要求や授業ノートのチェックなどは、学年全体での取り組みでない限り私から追加することはほとんどありません。
 これは授業における評価の基準を「できるかどうか」にしか置かないということであり、できるという結果さえ見せれば教師の言い付けを守る真面目さや従順さなんかは求めないということです。
 
 私がこの人間味のない方法を選ぶ理由は、どんなありがたい教訓よりもまず先に「できるまでやらなければできない」という実用的な教訓を、社会に出るよりも先に身に染みて実感して欲しいから。
 小学校・中学校までの勉強で躓いてきた子たちに足りていないのは、「自分はどこまでやればできるようになるのか」を測るための経験値。
 その中でも特に足りていないのは「誰かに誘導されればできる状態」と「誘導なしでも自力でできる状態」との区別を付けて、その差を自分なりに埋めてきたという実績です。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2016/03/20/235958
 
 この問題への対処として「定着させるためには日々の復習が大事」「授業中の集中力が足りない」「効率よく勉強しなければ駄目だ」などという訓話がよく用いられるのですが、そうしたお話だけでその差が改善されることは滅多にありません。
 それどころか、後から「できなかったのは言うことを聴かないからだ」と皮肉るための、証拠作りにしかできていない教師も少なくありません。
 
 食事も睡眠もバランスのとれた規則正しい生活をし、どんな授業を集中して聴いて、予習復習も欠かさず、教師の言い付けを全て守れるような完璧な生徒なんて基本的に存在しません。
 ですから、生徒に伝えるべき優先事項が「人としてきちんと生きること」だと主張している教師は、「お前ができなかったのは○○がきちんとしていないからだ」という難癖を付けさえすれば、たとえその声かけに何の効果もなかったとしても「適切に指導した」というふりをすることができます。
 
 何かができるようになるために必要なことは、ただただ失敗を積み重ねること。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2016/02/07/235309:
 初めて学ぶ内容を授業中にマスターしてしまう生徒というのは、教師が講義している最中にもただ話を聞くだけでなく、その話題から派生することをああだこうだと自分なりに考えることで、短い間で無意識のうちに細かい失敗を何回も積み重ねています。
 
 それに対して飲み込みの悪い生徒は、授業中には自分の頭を働かせずにただ黒板に書いてあることをノートに写し、問題を解けと言われれば周りの様子を見ながら真似をして何となくできたような気になります。
 そして、当然のように定期テスト前にはすっかり忘れてしまい、問題集などを解いてせいぜい1~2回思い出しただけで定期テストに臨んだがゆえに大爆死します。
 授業を聴いただけでも高得点を修めてしまう生徒と、試験直前に必死に勉強しても点数が取れない子との差は、単純に「積み重ねてきた失敗の総量」の差なのです。
 
 そして、意味のある失敗を積み重ねるためには、日々の生活の中から「失敗を稼ぐ機会」を捻出する必要になります。
 その「失敗を稼ぐ機会」を強制的に与えるのが、授業中の問題演習や日々の宿題であり、年に数回行われる定期テストです。
 
 ですが、授業中の問題演習や日々の宿題は失敗しても大してリスクもないため、緊張感のない生徒はいくらでも手を抜いてしまいます。
 そうすると、自分を試すような本気の挑戦にはならず、意味のある失敗を稼ぐことができません。
 
 その点、定期テストの点数には卒業に必要な単位を取得できるかどうかと、推薦入試などでチェックされる成績とがかかっており、授業中の問題演習とは緊張感が違います。
 ただ、定期テストには2~3ヶ月分の授業内容がまとめて出されるため、修得しないままで済ませている『授業中の負債』が多ければ多いほど、試験直前での挽回は難しくなります。
 
 大多数の生徒は、こうした通常授業と定期テストの組み合わせだけでは、十分な「失敗を稼ぐ機会」を自己プロデュースできていません。
 私が実施している「合格するまで再テストによる居残りが続く」というプレッシャー込みの小テストの場は、そんな大多数の生徒が助かるようにと強制的にプレゼントしている「失敗を稼ぐ機会」です。
 
 再テストのために何度も居残りを続ける生徒は、人に解き方を聴いて分かったつもりになっても、自力でできるようになるまで失敗を積み重ねなければ合格という結果を出せないことを学べます。
 一度目の再テストで合格できない生徒は、最初の小テストの不合格からだけでは、自分に必要な「失敗できる機会」を自己プロデュースできていなかったことを学べます。
 最初の小テストで合格できない生徒は、不合格という結果を見なければ「日々の失敗稼ぎが足りていない」ことが分からない段階に自分がいるということを学ぶことができます。
 さらに、一発目の小テストで合格できている生徒は「今回のテストでは自分の実践した失敗稼ぎが通じた」ということを学び、そのノウハウを次のテストにも活かすことができます。
 
 「できるまでやらなければできない」なんてことは当たり前のことであって「生徒に伝えるべき最優先事項」ではないと考える教師は、どれだけ多くの生徒が「できるまでやらなければできない」ことを学べていないかという実態の悲惨さを舐めています。
 特に、小学校・中学校で勉強に躓いてきた生徒たちを見ていると、この基本的な法則以上のことを伝えたがる教師たちの情熱が上滑りし続けてきたんだなあと実感します。
 そんなご立派な教育論を語る前に、まずは「できるまでやらなければできない」という事実を伝えなければならないでしょう。
 
 私は少しでも多くの「失敗を稼ぐ機会」を生徒に与えることが教師として最優先の使命であり、全ての生徒に必要なわけではない「一介の教師のお話」はその隙間時間にやればいいと考えます。
 その他の高尚な教育論が通用するのは、この「できるまでやらなければできない」が「当たり前のこと」だと言えた後の話なんですから。