間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動) -2ページ目

間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動)

私たち人間は、
言葉で物事を考えている限り、
あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。
当ブログでは、
万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、
言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

 2016年7月2日放送の「SWITCHインタビュー達人達」にて、女優の片桐はいりと武術研究家の甲野善紀が「身体ってどう使う?」というテーマで対談をしました。
 子どもの頃から運動が得意ではなくダンスなどの身体表現には苦手意識を持っていた片桐はいりですが、2010年の舞台でコンテンポラリーダンスに挑戦して以来体の上手な動かし方や体と心の関係に興味を持つようになったとのこと。
 そうやって探求を続けていくと必ず武術の叡知に辿り着くことから、その道の第一人者である甲野善紀に対談を依頼したそうです。
  
 これに対して、甲野善紀も「武術と演劇はすごく近い関係にある」と応じ、実演を交えて解説してみせます。
 まず、甲野善紀は片桐はいりに「自分に向かってくる手を上から払い落とすように」と指示し、彼女に向けて何度も両手を伸ばしては払いのけられながら「通常はこのやり取りでは上から払い退ける方が有利」だと解説します。
 ですが、片桐はいりの後方にブラックホールのような穴があると仮定して、そこに吸い込まれていくようなつもりで甲野善紀が両手を伸ばすと、払いのけようとした彼女の方があっさりと真後ろに吹き飛ばされてしまいました。
 
 この技は、穴に吸い込まれてしまうという状況を本気で演じきらないとかからないとのこと。
 「相手を吹き飛ばすためにそんなつもりになってみよう」という程度の表層的な演技ではなく、本当に「わっ、引かれてるっ、このまま吸われてしまうとぶつかってしまって申し訳ない」というような気持ちであればあるほど、結果的に相手が飛んでくれるというのです。
 
 なぜ演じきることが絶大な威力を生むのか。
 彼が別の技の解説で使った理屈を応用するならば、本気で「吸い込まれてしまう」と思って両手が伸びているときには全身の勢いが腕を通じて伝わるので相手を吹き飛ばすことができ、「突飛ばしてやろう」という下心を持って両手を伸ばしているときには「無駄な腕の力み」が全身の勢いの伝達を断絶してしまうため簡単に払われてしまうのでしょう。
 
 甲野善紀は同じ理屈の知恵を、他にも二つ片桐はいりに紹介しています。
 そのうちの一つは「座っている相手を片手で引っ張って起き上がらせる」というもので、もう一つは「紐をたすき掛けに巻くことでアコーディオンを引くときの腕や肩への負担を減らす」というものです。
 どちらの技も、腕を使った行為をする際についつい出てしまう「腕だけに頼ろうとしてしまう癖」が出てしまわないように工夫することで、体全体に負担を分散させることに成功していました。
 
 片桐はいり自身も、こうした身体操作の工夫に興味を持つようになってから体を動かすことが楽しくなっていき、五十才を越えた今の方が昔よりもすいすいと歩いたり階段を上ったりできるということです。
 私自身も二十代後半からこうした身体操作の知恵に興味を持ち、和太鼓や民舞などを通じて十年以上探求を続けてきたので、この片桐はいりの実感には深く共感できます。
 
 この番組を一緒に見ていた妻は、甲野善紀や片桐はいりの話す内容が、普段の練習で私が語っている内容と重なると感じたようです。
 妻は私が説明するたびに「理屈は分かるけどどうしても力が入ってしまうから私には難しい」と半ば諦めていたようですが、片桐はいりというお気に入りの女優が「年を重ねてからも体が楽に動くようになった」と言うのを聞いて、体の使い方に関してより前向きな興味を抱いたようです。
 
 そして昨日、妻が嬉しい報告をしてきました。
 二人で階段を昇るとき、私は常々後ろから腰を押してサポートをしているのですが、自分一人で階段を昇るときにもいつものように私から腰を押されているようなつもりになって演じてみたら楽チンだったというのです。
 
 これはおそらく「脚を交互に持ち上げて運ぶことによって進もうとする」という悪癖が、背中を押される感覚を思い出すことで軽減されたため。
 「胴体の重心が前方に倒れこむのに脚がついていっているだけ」という風にして脚を使い過ぎないようにすれば、体は勝手に進んでいくのです。
 
 人はどうしても、腕でやっているように見える動作では腕だけを使い、脚でやっているように見える動作では脚だけを使おうとしてしまう傾向があります。
 こうした手足への過剰依存は、甲野善紀が言う「見当外れの努力」に当たるもの。
 手足のみに頼った「無駄な頑張り」の弊害を減らしていくためにも、効率のよい演じ方を一つ一つ発見していきたいものですね。
 世間に誤解されたまま受け止められがちだったアドラーの心理学の肝であるその哲学を、対話形式で分かりやすく紹介することに成功したのが『嫌われる勇気』です。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/08/16/225838
 その続編『幸せになる勇気』は、アドラー心理学の理念に従って「ほめも叱りもしない教育」を実践して挫折した中学教師が「教育の現場ではアドラーの教えは役に立たない」とクレームをつけ、それに対して哲学者が反論するという形式で綴られています。
 
 最初から「叱らない」と決めていたために舐められて生徒の問題行動がやまなくなったと考えている中学教師は、たとえ嫌われようとも間違ったことを正すには叱らなければならないと考えなおすようになり、叱らないことを是とするアドラーの教えは地に足の着かない理想論だと否定します。
 これに対し、哲学者はまず暴力という手段の未熟さを説き、叱るという行為も幼稚な暴力的手段に過ぎないことを以下のように語ります。
 
言語によるコミュニケーションは、合意に至るまでに相当な時間を要し、労力を要します。
自分勝手な要求は通らず、客観的データなど、説得材料を揃える必要も出てくる。
しかも、費やされるコストの割に、即効性と確実性はあまりにも乏しい。
 
そこで議論にうんざりした人、また議論では勝ち目がないと思った人がどうするか。
わかりますか?
彼らが最後に選択するコミュニケーション手段、それが暴力です。
 
暴力に訴えてしまえば、時間も労力もかけないまま、自分の要求を押し通すことができる。
もっと直接的に言えば、相手を屈服させることができる。
暴力とは、どこまでもコストの低い、安直なコミュニケーション手段なのです。
これは道徳的に許されないという以前に、人間としてあまりに未熟な行為だと言わざるをえません。
 
われわれ人間は、未熟な状態から成長していかなければならない、という原点に立ち返るのです。
暴力という未熟なコミュニケーションに頼ってはいけない。
もっと別のコミュニケーションを模索しなければならない。
 
暴力の「原因」として挙げられる、相手がなにを言ったとか、どんな挑発的態度をとったとか、そんなことは関係ありません。
暴力の「目的」はひとつなのですし、考えるべきは「これからどうするか」なのです。
 
誰かと議論をしていて、雲行きが怪しくなってくる。
劣勢に立たされる。
あるいは議論の最初から、自らの主張が合理性を欠くことを自覚している。
 
このようなとき、暴力とまではいかなくとも、声を荒げたり、机を叩いたり、また涙を流すなどして相手を威圧し、自分の主張を押し通そうとする人がいます。
これらの行為もまた、コストの低い「暴力的」なコミュニケーションだと考えねばなりません。
……わたしがなにを言わんとしているのか、おわかりですね?
 
あなたは、生徒たちと言葉でコミュニケーションすることを煩わしく感じ、手っ取り早く屈服させようとして、叱っている。
怒りを武器に、罵倒という名の銃を構え、権威の刃を突きつけて。
それは教育者として未熟な、また愚かな態度なのです。
 
 これに対し、中学教師の方は「わたしは怒っているのではない、叱っているのです!」と言い返します。
 ですが哲学者は、このありがちな言い分を認めずにこう続けます。
 
そう弁明する大人は大勢います。
しかし、暴力的な「力」の行使によって相手を押さえつけようとしている事実には、なんら変わりがありません。
むしろ「わたしは善いことをしているのだ」との意識があるぶん、悪質だとさえ言えます。
 
叱責を含む「暴力」は、人間としての未熟さを露呈するコミュニケーションである。
このことは、子どもたちも十分に理解しています。
叱責を受けたとき、暴力的行為への恐怖とは別に、「この人は未熟な人間なのだ」という洞察が、無意識のうち働きます。
 
これは、大人たちが思っている以上に大きな問題です。
あなたは未熟な人間を、「尊敬」することができますか?
あるいは暴力的に威嚇してくる相手から、「尊敬」されていることを実感できますか?
 
怒りや暴力を伴うコミュニケーションには、尊敬が存在しない。
それどころか軽蔑を招く。
叱責が本質的な改善につながらないことは、自明の理なのです。
 
 この哲学者は、叱るのは子どもに対する暴力だからやってはいけないと、道徳的観点から「叱る教育」を否定しているわけではありません。
 叱るという威圧行為によって、言葉を尽くして接することができないという人としての未熟さがバレてしまい「教育者自身の説得力」がその人への敬意とともに損なわれてしまうと、純粋に教育的効果の観点から否定しているのです。
 
 さらに哲学者は「ほめて伸ばす」という教育手法も人の承認欲求につけこんで自立を妨げるものとして否定します。
 教育の現場で「ほめられてやる気を出す子」の存在を身近に感じている中学教師に対し、哲学者は次のように語りかけます。
 
他者からほめられ、承認されること。
これによって、つかの間の「価値」を実感することはあるでしょう。
しかし、そこで得られる喜びなど、しょせん外部から与えられたものにすぎません。
他者にねじを巻いてもらわなければ動けない、ぜんまい仕掛けの人形と変わらないのです。
 
ほめられることでしか幸せを実感できない人は、人生の最後の瞬間まで「もっとほめられること」を求めます。
その人は「依存」の地位に置かれたまま、永遠に求め続ける生を、永遠に満たされることのない生を送ることになるのです。
 
 このように、教育の現場において「叱る」「ほめる」という手軽な手段を利用することを正当化したい中学教師と、それらの行為の弊害を語りながら人生との向き合い方までも説いていく哲学者との対話が『幸せになる勇気』には描かれています。
 現役の高校教師である私は、この中学教師のように叱る行為やほめる行為をことさら正当化しようとは思いませんが、かといってこの哲学者のように「ほめも叱りもしない教育を徹底すべきだ」とも思いません。
 
 私はアドラーの教えのうち「叱るのは未熟な暴力的行為だ」「未熟な叱責行為は教育者自身の説得力を損なわせる」という点や、「ほめる行為は承認欲求を餌に相手を操作しようとしている」「いつまでも承認欲求を求め続ける人間は自立できない」という点には完全に同意します。
 ですが私は、未熟さや暴力性や他者を操作したがる性分をそこまで拒絶するのは、動物としての身の程をわきまえておらず不自然だとも感じます。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2016/04/24/232242
 
 たとえば、落ち着いた議論の中にも言葉の組み立て次第で相手を押さえつけようとする圧力はいくらでも造り出せますから、「民主的な対話であれば暴力性とは無縁だ」なんて作り話には全く同意できません。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/19/174500
 いくら崇高な理想を掲げようとも人間は弱肉強食の現実を生きる動物でしかなく、民主的な対話とやらもパワーゲームにおける圧力の一種でしかないのですから。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2016/05/22/233000
 
 一介の動物としてこの世の力学を生きることにためらいのない私は、授業を成立させるための指示に従わない生徒がいる場合、声を荒げるなり睨み付けるなり何らかの威圧行為を併用して指示に従わせようと試みることもあります。
 そんな状況を招いていること自体は教育者としての未熟さの現れであり、そこで威圧行為を用いることが暴力的であることも認めますが、だからといってそのことについていちいち悪いとも思いませんし、逆に理屈を付けて正当化しようとも思いません。
 ただ、「この未熟な手段が上手くない結果を招くこともあるだろうな」と想定し、そのリスクも承知の上で「それでもここでは行使しよう」と覚悟を決めて選択するだけです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/12/07/090856
 
 それと同様に、教育の場面だろうがそうでない場面だろうが、ついつい相手をほめてしまうことだってあるでしょう。
 ですが私は、そのほめる行為が相手の操作に繋がったり、他人への依存心を煽る承認欲求をくすぐるからといって、極端にほめることを避ける必要もないとも思っています。
 
 ほめたり叱ったりして相手をコントロールしようとする教育の弊害は、教育者自身がその理屈を正当化して徹底すればするほど大きくなるでしょう。
 それと同じ理由で、私は民主的な横の関係を徹底すべきという「ほめも叱りもしない教育」とやらにも、別の影響を徹底的に与えてしまう弊害があるのではないかと勘ぐってしまいます。
 教育の場面にありがちな人心操作の弊害と正面から向き合うことは大切だと思いますが、私はアドラーの心理学から「ほめも叱りもしない民主的な教育」ではなくその問題提起の部分だけを受け取ろうと思います。
 
 私は、弱肉強食のこの世界を生き抜く一介の動物として、そのときどきの都合に応じて様々な力を行使していきます。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/31/200500
 その力の行使によって好ましい影響も好ましくない影響も引き起こしていくでしょうが、どの力の行使なら正しくてどの力の行使が間違っていると断罪し切れる立場があるとは思いません。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2016/03/27/220637
 正しいとか間違っているといった他人の基準に振り回されずに、ただ自分の起こした行動の結果をしっかりと受け止めて、自分自身の今後の行動の参考にしていくだけです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2016/03/06/235739
 いわゆる熱血先生とは全く違う教師像を描いた『鈴木先生』は、ドラマや映画にもなった漫画作品。
 作者の武富健治は、この作品を書いた動機について以下のように語っています。
 
僕は中学生のころ、テレビで〈3年B組金八先生〉を見て、育った世代。
あの物語って、熱血先生が問題を抱える生徒を救う場面が多いでしょ。
僕みたいな普通の生徒には、なかなか光が当たっていない印象だった。 
でも、一見普通に見える生徒も、実は鬱屈したものをいっぱい抱えている。
だから、普通の生徒や教師を主人公にした物語を書こうと思った。
 
 そんな『鈴木先生』の中でも、映画化された生徒会選挙のエピソードは必見。
 ことの発端は、前年に多かった無効投票を撲滅するために、岡田という熱血体育教師が職員会議の場で提案し実行に移された、生徒への啓発や指導を強化する取り組み。
 小学校の児童会選挙での落選をきっかけに不登校に陥ってしまった親友を持つ中学2年の西は、この教師たちの取り組みへの反発の意を表明するために生徒会長に立候補し、立ち会い演説の場でまずはいいかげんな気持ちで選挙に参加している生徒たちの不真面目さを糾弾します。
 
ぼくがここに立ったのは————
今まさに行われている…この生徒会選挙のあり方に異を唱えるためです!
 
しかし…マトモにやったら最後まで喋らせてはもらえないでしょう…
だから便宜上こうします…
 
ぼくが生徒会長になったら生徒会選挙を改正します!
今から話すのはその内容です!
 
まず皆さんにお聞きしたいのですが…
この選挙…
生徒会役員、書記、会計、副会長…
そして生徒会長と——
 
それぞれ誰に…
どんな理由で票を投じますか?
 
友達だから…?
部活の先輩後輩だから…?
カッコいいからきれいだから…
そんな理由の人もいるかもしれない
 
そんな理由で投票するのはちゃんと考えていないやつだ!
私は違う!!
そう考える人も多いかと思います
 
では…いったいどれくらい調べ考えればちゃんと選んだと言えるでしょうか!?
 
ぼくは…
ポスターの公示があってから今日まで…
勉強や自由の時間を大幅に削って各候補者について調べ…考え——
今の演説の内容や様子もしっかりと観察分析し…
誰に入れるか本当に真剣に吟味しました
 
しかしちゃんと考えれば考えるほど…
自分の判断に疑念が湧き——
誰に入れたらいいか分からなくなりました!
 
みんなそれぞれに期待してもよさそうな良さがあり…また逆に信用できないといえばどいつも信用できない!
それが隠さざるぼくの実感です
 
例えば…ぼくが本当は大したヤル気もなく…
邪悪な目的でここに立っていたとします
 
それでもなお——
訓練によってさわやかな表情や発声を身につけ好イメージを打ち立てることもできるし————
公約の内容にしてもネットなんかでそれらしいのをでっち上げることもたやすくできるんです
 
現にぼくも…
もともと吃音癖があるのですが…
有料のセミナーに3ヶ月通ってこの通り…舞台上では流暢に話すことができるようになりました…
 
実際には自分に実現能力などなくても————
自己洗脳で自分をだまして考えないようにすればヤル気に満ちた頼れそうでパワフルなキャラになり切ることも容易だし…
気の利いた公約を別の誰かに考えてもらい傀儡を演じることも決して困難な仕事ではありません!
 
難しいのは———
そういったうさんくさい能力も当選後実力として役に立つことも多く…
単なる上辺の飾りに過ぎないと切り捨てるわけにもいかないということです…
 
そんなことまで合わせて考えるととても片手間では正しい判断にたどり着かない
投票というのはこんなにも重く難しい仕事なのかと————
正直投げ出したくなります……
 
それでも…
もし他の投票者が真剣に苦悩して投票し————
投票後結果が出たあとも自分の投じた一票の重さや正しさについて後悔や反省を深く重ねているのならたとえどんなに苦しい作業であってもぼくはそれをやる!
全身全霊をもって投票にのぞみます!
 
しかし…!
正直…ぼくには多くの人がお気楽な覚悟で…
下手すれば能天気なイベント気分でいいかげんに参加しているとしか思えない!
 
 こう指摘された生徒たちの中にはこの西の言葉をしっかり受け止める者もいれば、「何勝手に決めつけてんの!」「私たち全然いいかげんなつもりでなんか参加してませーん」「ふざけんな!!」などと罵声を浴びせる者もいます。
 それらの罵声に対し、西は理詰めで反論を突き返します。
 
最悪なのは…
自分がどれだけ不真面目なのかさっぱり分かっていないで…
自分は十分に義務を果たしていると信じて疑わない阿呆だ!
 
本当に真剣に取り組んでいる人なら…
必ず自分の仕事に迷いや葛藤がある!
ぼくのこの言葉に怒りを感じたとしてもそれをむき出しにぶつけることを自分に許すはずがない!
その単純さが不真面目さの証拠だッ!!
 
 そして、返す刀で無効投票をなくそうと働きかけている教師たちへの批判を続けます。
 それは「たとえ軽い気持ちの一票だろうととにかく有効投票が増えさえすればそれでよい」という、大人たちの本音を見透かした発言でした。
 
しかし!ぼくが批判したいのは個々の不真面目な投票者ではありません…
ぼくが最も怒りを覚えるのは…
そんな不真面目な投票に対し何のてこ入れもしないままただ参加率だけを上げようとし…
そんな不真面目な投票者の一票を真剣な投票者の一票と全く同じ重さでカウントすることを公平として恥じない選挙のあり方そのものです!

単なる無関心や無責任で投票をサボっているだけのいいかげんな人もいるでしょう!
ですから選挙に興味を持つように指導すること自体をぼくは否定しません!
 
しかしそれならば!
真剣に…
全身全霊をもって——
自分の投じるその一票の重さを深く認識し…
その上で投票するべきだと指導するべきです!!
 
なのに…学校側はそんな指導はしません!
それはなぜか!?
 
それは…
そこまで言うといいかげんな人はついてきてくれないからです!

それどころか今参加している人まで引いてしまい…
投票率が下がってしまう
それが怖いからじゃないでしょうか…
 
しかし!
真剣な人間にとっては…
いいかげんな人がいいかげんなままで自分と同じ重さの一票を投じる権利を持ち…
しかもその数を体制側が率先して増やすことを良しとされている現状は絶望的でしかありえません!
 
その現状を思い知ったのは一昨年…ぼくが小6のとき————
東小で投票率を上げるため…
記名制で全員投票が強制された時でした!
 
それまで…
いいかげんな人は投票しなかったりふざけたり無効投票をしていたのが…
いいかげんなまま有効投票に流入し————
選挙の結果に重大な影響を与えたんです!
 
 西の親友だった渡は小5の頃から児童会に立候補して副会長を務めており、その経験を活かして小6の選挙では児童会長に立候補しました。
 ですがその年に、転校してきた人気子役俳優が児童会長に立候補し、さらに教師たちが不真面目な無効投票を取り締まるために記名投票を取り入れました。
 結果的に、児童会長には子役俳優が当選し、児童会活動にやり甲斐を覚えていた渡か不登校へと陥ったことで、西たちは学校で行われる選挙に不信感を抱くようになります。
 
真剣に選挙に参加していたぼくらは…
もう二度とこんな選挙に関わらないと固く誓い合いました…
 
そして中学に上がってから————
昨年の生徒会選挙でぼくら十数人の同志は意図的に選挙をボイコットし————
組織的に無効投票を行いました!!
 
小6の時に誓い合っていたのでそのときに長々と打ち合わせる必要はなく…ただ目配せと「やるぜ」の一言で————
全ては通じ合ったのです…!
 
全員投票が義務づけられているこの中学の生徒会選挙のシステムの中では…
ぼくらには無効投票するくらいしか道がなかった…!
 
逆に言えば…
ぼくらにそれくらいの逃げ道を許してくれてさえいれば…
ぼくらもそれ以上の主張をするつもりはなかったんです…!
 
今回ぼくがここまでして自分たちの主張をぶちまけようと決意したのは…
ついに学校側が無効投票の撲滅及び全員投票の推奨を押し付け…ぼくらの最後の自由に干渉してきたからです!
 
どうして…
そっとしておいてくれないんですか…
 
少数派だろうとどうにかがんばればできる種類のことならぼくらもたやすく絶望などしたりしません…
でも選挙ってのは完全な多数決じゃないですか!
 
システムまでが加担して…
いいかげんな投票をどんどん増やして…
ぼくらの真剣な票の重みはどんどんと軽くなっていく!
 
このむなしさ…
絶望感が分かりますか!?
 
 西は今回の取り締まりの中心人物である岡田を指差してこう訴えました。
 「目指せ有効投票100%全員参加で実現する公正な選挙」というスローガンを掲げていた岡田は、気持ちは分かったがなぜわざわざ無効投票というルール違反の手段を取らねばならないのか、誰か一人を選び切れないのなら「該当者なし」と書くという手段がちゃんと認められているだろうという反論を返し、西たちの犯したルール違反を諌めます。 
 西の主張を汲み取れていない岡田のこの反論には一般生徒の中からもどよめきが起こり、西は「話をちゃんと聞いてください」と前置きをした上で分かりやすくこう言い直します。
 
ぼくたちは…単に人を選び切れずに投票を放棄したいわけじゃない…!
ぼくたちが何より票を入れたくないのはこの選挙システムそのものです!!
 
「『該当者なし』と書く」という認められた手段で参加してしまえば…
それは————この選挙システムに一票を投じたことになってしまうんですよ!!
 
 西の意図をようやく汲んだ岡田は、批判ばかりでなく対案はあるのかと問い詰めます。
 それに対し、西は「よりまともな選挙のあり方」を真剣に検討してみた経緯を語ります。
 
————例えば…
選挙権を手に入れるためにある程度の適正テストを行い合格した者だけが投票することができるようにする…
 
あるいは匿名投票を廃止し…自分がその候補者に投票した理由を長文でしっかりと書かせ…
それがまっとうな判断かを大勢の人間で審査する…
 
…こんなことを考えてみましたが
弊害があったり現実化が難しかったり
…まともな対案にはなりませんでした…
 
 対案が提案できないのであれば少々の不満があっても現行の制度に従えないのかなどと言いかけた岡田に対し、西は間髪入れずに昨年の「ルール違反」の真意を語ります。
 
だから…言ってるんじゃないですか!
現行のやり方で他に仕方がないのならせめてぼくらのこともほっておいてくださいと!
 
無効投票する者の中にも…単なる怠惰や不真面目以上の理由を持っている者もいる!
その可能性を認め…
「無効投票」をやみくもに取り締まらないようにしてほしい————
そう言っているんです!
 
 この西の訴えに、聴いていた生徒からも静かな共感の拍手が起こります。
 自身の「やみくもな取り締まり」から説得力が失われたと認めた岡田はこれで引き下がり、西は反体制的な主張を最後まで続けさせてくれた教師たち・選挙管理委員・そして聴いてくれた生徒たちへの感謝の意を表して演説を終えました。
 
 実はこの生徒会選挙が始まる前、職員会議の場で岡田が無効投票の取り締まりを提案した際に、 国語教師の鈴木は「全員投票を強制されている状況で、それでもなお無効投票する者の中には何らかの言い分を持っている者がいるかもしれないから、厳しく取り締まらずにグレーゾーンとして許容してはどうか」との提案をしていました。
 ですがその時は、歯切れのよい正論を堂々と掲げる岡田の無言の圧力に屈し、揉め事を避けて大勢に迎合していたのでした。
 
 しかし、西や元東小の生徒たちの思い詰めた様子を疑問に思い、生徒や東小の教師への聞き取りを通じて西の真意をおぼろげに推測していた鈴木は、不穏な様子の西を力付くで抑えこみかねなかった岡田ら教師をたしなめ、西が最後まで演説し切れるようにとお膳立てをします。
 単純で分かりやすい正論を盾に無効投票を撲滅しようとする教師たちの姿勢を変えるには、職員会議の場での机上の空論ではなく、自身の推論を裏付けるような生徒たちからの生の声が必要だったのです。
 
 この西の演説のおかげで、教師たちは無効投票を「怠惰や不真面目さの現れ」だと断ずることを控え、生徒たちはいつもの「能天気なイベント気分」とは一味違った心持ちで投票することができました。
 既存の体制や分かりやすい建前論を徹底することばかりが正義ではなく、さまざまな考え方の人間がいる可能性を推し量ってグレーゾーンを敢えて残しておくという知恵も必要なのだと、学校全体が学べる良い機会になったわけです。
 
 いわゆる熱血先生とは全く違う教師像を描いた『鈴木先生』は、ドラマや映画にもなった漫画作品。
 作者の武富健治は、この作品を書いた動機について以下のように語っています。
 
僕は中学生のころ、テレビで〈3年B組金八先生〉を見て、育った世代。
あの物語って、熱血先生が問題を抱える生徒を救う場面が多いでしょ。
僕みたいな普通の生徒には、なかなか光が当たっていない印象だった。 
でも、一見普通に見える生徒も、実は鬱屈したものをいっぱい抱えている。
だから、普通の生徒や教師を主人公にした物語を書こうと思った。
 
 そんな『鈴木先生』の中でも、映画化された生徒会選挙のエピソードは必見。
 ことの発端は、前年に多かった無効投票を撲滅するために岡田という熱血体育教師が職員会議の場で提案し、実行に移された生徒への啓発や指導を強化する取り組み。
 小学校の児童会選挙での落選をきっかけに不登校に陥ってしまった親友を持つ中学2年の西は、この教師たちの取り組みへの反発の意を表明するために生徒会長に立候補し、立ち会い演説の場でまずはいいかげんな気持ちで選挙に参加している生徒たちの不真面目さを糾弾します。
 
ぼくがここに立ったのは————
今まさに行われている…この生徒会選挙のあり方に異を唱えるためです!
 
しかし…マトモにやったら最後まで喋らせてはもらえないでしょう…
だから便宜上こうします…
 
ぼくが生徒会長になったら生徒会選挙を改正します!
今から話すのはその内容です!
 
まず皆さんにお聞きしたいのですが…
この選挙…
生徒会役員、書記、会計、副会長…
そして生徒会長と——
 
それぞれ誰に…
どんな理由で票を投じますか?
 
友達だから…?
部活の先輩後輩だから…?
カッコいいからきれいだから…
そんな理由の人もいるかもしれない
 
そんな理由で投票するのはちゃんと考えていないやつだ!
私は違う!!
そう考える人も多いかと思います
 
では…いったいどれくらい調べ考えればちゃんと選んだと言えるでしょうか!?
 
ぼくは…
ポスターの公示があってから今日まで…
勉強や自由の時間を大幅に削って各候補者について調べ…考え——
今の演説の内容や様子もしっかりと観察分析し…
誰に入れるか本当に真剣に吟味しました
 
しかしちゃんと考えれば考えるほど…
自分の判断に疑念が湧き——
誰に入れたらいいか分からなくなりました!
 
みんなそれぞれに期待してもよさそうな良さがあり…また逆に信用できないといえばどいつも信用できない!
それが隠さざるぼくの実感です
 
例えば…ぼくが本当は大したヤル気もなく…
邪悪な目的でここに立っていたとします
 
それでもなお——
訓練によってさわやかな表情や発声を身につけ好イメージを打ち立てることもできるし————
公約の内容にしてもネットなんかでそれらしいのをでっち上げることもたやすくできるんです
 
現にぼくも…
もともと吃音癖があるのですが…
有料のセミナーに3ヶ月通ってこの通り…舞台上では流暢に話すことができるようになりました…
 
実際には自分に実現能力などなくても————
自己洗脳で自分をだまして考えないようにすればヤル気に満ちた頼れそうでパワフルなキャラになり切ることも容易だし…
気の利いた公約を別の誰かに考えてもらい傀儡を演じることも決して困難な仕事ではありません!
 
難しいのは———
そういったうさんくさい能力も当選後実力として役に立つことも多く…
単なる上辺の飾りに過ぎないと切り捨てるわけにもいかないということです…
 
そんなことまで合わせて考えるととても片手間では正しい判断にたどり着かない
投票というのはこんなにも重く難しい仕事なのかと————
正直投げ出したくなります……
 
それでも…
もし他の投票者が真剣に苦悩して投票し————
投票後結果が出たあとも自分の投じた一票の重さや正しさについて後悔や反省を深く重ねているのならたとえどんなに苦しい作業であってもぼくはそれをやる!
全身全霊をもって投票にのぞみます!
 
しかし…!
正直…ぼくには多くの人がお気楽な覚悟で…
下手すれば能天気なイベント気分でいいかげんに参加しているとしか思えない!
 
 こう指摘された生徒たちの中にはこの西の言葉をしっかり受け止める者もいれば、「何勝手に決めつけてんの!」「私たち全然いいかげんなつもりでなんか参加してませーん」「ふざけんな!!」などと罵声を浴びせる者もいます。
 それらの罵声に対し、西は理詰めで反論を突き返します。
 
最悪なのは…
自分がどれだけ不真面目なのかさっぱり分かっていないで…
自分は十分に義務を果たしていると信じて疑わない阿呆だ!
 
本当に真剣に取り組んでいる人なら…
必ず自分の仕事に迷いや葛藤がある!
ぼくのこの言葉に怒りを感じたとしてもそれをむき出しにぶつけることを自分に許すはずがない!
その単純さが不真面目さの証拠だッ!!
 
 そして、返す刀で無効投票をなくそうと働きかけている教師たちへの批判を続けます。
 それは「たとえ軽い気持ちの一票だろうととにかく有効投票が増えさえすればそれでよい」という、大人たちの本音を見透かした発言でした。
 
しかし!ぼくが批判したいのは個々の不真面目な投票者ではありません…
ぼくが最も怒りを覚えるのは…
そんな不真面目な投票に対し何のてこ入れもしないままただ参加率だけを上げようとし…
そんな不真面目な投票者の一票を真剣な投票者の一票と全く同じ重さでカウントすることを公平として恥じない選挙のあり方そのものです!

単なる無関心や無責任で投票をサボっているだけのいいかげんな人もいるでしょう!
ですから選挙に興味を持つように指導すること自体をぼくは否定しません!
 
しかしそれならば!
真剣に…
全身全霊をもって——
自分の投じるその一票の重さを深く認識し…
その上で投票するべきだと指導するべきです!!
 
なのに…学校側はそんな指導はしません!
それはなぜか!?
 
それは…
そこまで言うといいかげんな人はついてきてくれないからです!

それどころか今参加している人まで引いてしまい…
投票率が下がってしまう
それが怖いからじゃないでしょうか…
 
しかし!
真剣な人間にとっては…
いいかげんな人がいいかげんなままで自分と同じ重さの一票を投じる権利を持ち…
しかもその数を体制側が率先して増やすことを良しとされている現状は絶望的でしかありえません!
 
その現状を思い知ったのは一昨年…ぼくが小6のとき————
東小で投票率を上げるため…
記名制で全員投票が強制された時でした!
 
それまで…
いいかげんな人は投票しなかったりふざけたり無効投票をしていたのが…
いいかげんなまま有効投票に流入し————
選挙の結果に重大な影響を与えたんです!
 
 西の親友だった渡は小5の頃から児童会に立候補して副会長を務めており、その経験を活かして小6の選挙では児童会長に立候補しました。
 ですがその年に、転校してきた人気子役俳優が児童会長に立候補し、さらに教師たちが不真面目な無効投票を取り締まるために記名投票を取り入れました。
 結果的に、児童会長には子役俳優が当選し、児童会活動にやり甲斐を覚えていた渡か不登校へと陥ったことで、西たちは学校で行われる選挙に不信感を抱くようになります。
 
真剣に選挙に参加していたぼくらは…
もう二度とこんな選挙に関わらないと固く誓い合いました…
 
そして中学に上がってから————
昨年の生徒会選挙でぼくら十数人の同志は意図的に選挙をボイコットし————
組織的に無効投票を行いました!!
 
小6の時に誓い合っていたのでそのときに長々と打ち合わせる必要はなく…ただ目配せと「やるぜ」の一言で————
全ては通じ合ったのです…!
 
全員投票が義務づけられているこの中学の生徒会選挙のシステムの中では…
ぼくらには無効投票するくらいしか道がなかった…!
 
逆に言えば…
ぼくらにそれくらいの逃げ道を許してくれてさえいれば…
ぼくらもそれ以上の主張をするつもりはなかったんです…!
 
今回ぼくがここまでして自分たちの主張をぶちまけようと決意したのは…
ついに学校側が無効投票の撲滅及び全員投票の推奨を押し付け…ぼくらの最後の自由に干渉してきたからです!
 
どうして…
そっとしておいてくれないんですか…
 
少数派だろうとどうにかがんばればできる種類のことならぼくらもたやすく絶望などしたりしません…
でも選挙ってのは完全な多数決じゃないですか!
 
システムまでが加担して…
いいかげんな投票をどんどん増やして…
ぼくらの真剣な票の重みはどんどんと軽くなっていく!
 
このむなしさ…
絶望感が分かりますか!?
 
 西は今回の取り締まりの中心人物である岡田を指差してこう訴えました。
 「目指せ有効投票100%全員参加で実現する公正な選挙」というスローガンを掲げていた岡田は、気持ちは分かったがなぜわざわざ無効投票というルール違反の手段を取らねばならないのか、誰か一人を選び切れないのなら「該当者なし」と書くという手段がちゃんと認められているだろうという反論を返し、西たちの犯したルール違反を諌めます。 
 西の主張を汲み取れていない岡田のこの反論には一般生徒の中からもどよめきが起こり、西は「話をちゃんと聞いてください」と前置きをした上で分かりやすくこう言い直します。
 
ぼくたちは…単に人を選び切れずに投票を放棄したいわけじゃない…!
ぼくたちが何より票を入れたくないのはこの選挙システムそのものです!!
 
「『該当者なし』と書く」という認められた手段で参加してしまえば…
それは————この選挙システムに一票を投じたことになってしまうんですよ!!
 
 西の意図をようやく汲んだ岡田は、批判ばかりでなく対案はあるのかと問い詰めます。
 それに対し、西は「よりまともな選挙のあり方」を真剣に検討してみた経緯を語ります。
 
————例えば…
選挙権を手に入れるためにある程度の適正テストを行い合格した者だけが投票することができるようにする…
 
あるいは匿名投票を廃止し…自分がその候補者に投票した理由を長文でしっかりと書かせ…
それがまっとうな判断かを大勢の人間で審査する…
 
…こんなことを考えてみましたが
弊害があったり現実化が難しかったり
…まともな対案にはなりませんでした…
 
 対案が提案できないのであれば少々の不満があっても現行の制度に従えないのかなどと言いかけた岡田に対し、西は間髪入れずに昨年の「ルール違反」の真意を語ります。
 
だから…言ってるんじゃないですか!
現行のやり方で他に仕方がないのならせめてぼくらのこともほっておいてくださいと!
 
無効投票する者の中にも…単なる怠惰や不真面目以上の理由を持っている者もいる!
その可能性を認め…
「無効投票」をやみくもに取り締まらないようにしてほしい————
そう言っているんです!
 
 この西の訴えに、聴いていた生徒からも静かな共感の拍手が起こります。
 自身の「やみくもな取り締まり」から説得力が失われたと認めた岡田はこれで引き下がり、西は反体制的な主張を最後まで続けさせてくれた教師たち・選挙管理委員・そして聴いてくれた生徒たちへの感謝の意を表して演説を終えました。
 
 実はこの生徒会選挙が始まる前、職員会議の場で岡田が無効投票の取り締まりを提案した際に、 国語教師の鈴木は「全員投票を強制されている状況で、それでもなお無効投票する者の中には何らかの言い分を持っている者がいるかもしれないから、厳しく取り締まらずにグレーゾーンとして許容してはどうか」との提案をしていました。
 ですがその時は、歯切れのよい正論を堂々と掲げる岡田の無言の圧力に屈し、揉め事を避けて大勢に迎合していたのでした。
 
 しかし、西や元東小の生徒たちの思い詰めた様子を疑問に思い、生徒や東小の教師への聞き取りを通じて西の真意をおぼろげに推測していた鈴木は、不穏な様子の西を力付くで抑えこみかねなかった岡田ら教師をたしなめ、西が最後まで演説し切れるようにとお膳立てをします。
 単純で分かりやすい正論を盾に無効投票を撲滅しようとする教師たちの姿勢を変えるには、職員会議の場での机上の空論ではなく、自身の推論を裏付けるような生徒たちからの生の声が必要だったのです。
 
 この西の演説のおかげで、教師たちは無効投票を「怠惰や不真面目さの現れ」だと断ずることを控え、生徒たちはいつもの「能天気なイベント気分」とは一味違った心持ちで投票することができました。
 既存の体制や分かりやすい建前論を徹底することばかりが正義ではなく、さまざまな考え方の人間がいる可能性を推し量ってグレーゾーンを敢えて残しておくという知恵も必要なのだと、学校全体が学べる良い機会になったわけです。
 
 民主主義社会において、私たちの民意は選挙を通じて表明できることになっていますが、たとえば「この選挙制度自体に賛成できない」といった類いの民意はなかなか表現しづらいものです。
 『鈴木先生』における西は、大多数の不真面目な投票者のいいかげんな判断によって結果が左右されてしまうポピュリズムの問題があるにも関わらず、生徒たちに「投票さえしていれば十分に義務は果たせている」と錯覚させてしまう教師たちの雑な取り組みに異を唱えるために生徒会選挙の場を利用しました。
 
 こうした雑な風潮は私たちが生きるこの現代社会にもはびこっており、投票に行かなければ怠惰や不真面目の証拠と断じられてたやすくバッシングされがちです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/12/21/163018
 選挙制度や政党政治の問題点を根本から見直そうというラディカルな取り組みも、現行の選挙制度を馬鹿にしていると断じられて小悪党扱いされがちです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2016/06/27/000112
 
 選挙をめぐる単純で分かりやすい正論の圧力は、その論調にそぐわないその他の主張のあり方を認めずに、独自の考えを持っている異分子を「お前はどちらの味方か」という下世話な対立の構造に組み入れたがります。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/06/14/090152
 こうした政治にまつわる不愉快な圧力に振り回されてしまわないための向き合い方を、西や鈴木は教えてくれているのかもしれませんね。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/01/25/084508
 2014年の第47回衆議院選挙で、「支持政党なし」という変わった名前の政党が北海道比例ブロック有効票の4.2%にあたる104854票を獲得しました。
http://mrbachikorn.hatenadiary.jp/entry/2016/06/22/233459
 この党は、2016年の第24回参議院選挙でも比例代表全国区に2名立候補し、北海道、東京、神奈川、大阪、熊本の5選挙区で候補を擁立しました。
 
 「支持政党なし」の理念は、政党としての政策理念を全く持たずに、ただただ支持者の民意を国会での議決にできるかぎり反映させること。
 個別の法案ごとに支持者から賛否の声をネットやスマホで集め、当選した議員はその支持者の声の比率のままにしか議決権を行使しないというのが彼らの公約です。

 
 この斬新過ぎる政党に対するリアクションはさまざま。
 その理念を「おもしろい」と好意的に評価する、「支持政党なし」が党名だと気付かない有権者から票を騙し取ろうとしていると決め付ける、その両論を併記して問題提起だけする、などなど。
 
 「支持政党なし」が問題にしているのは、現行の選挙制度では国民の声が政治にきちんと反映されないということ。
 たとえば、仮に「この人なら信頼できる」と思えた人に票を投じてその人が当選したところで、その議員が何らかの政党に所属していれば議決権は党の方針のためのコマとして消費されるだけで、選挙民の意志を反映するためには使われません。
 政党というものが所属議員の議決行為を支配している限り、有権者は既存の政党から自分に合うところを見付けるしかないわけで、全ての法案について意見が合致するような党を見付けるのは至難の業です。
 
 このようにして支持政党が見付けられずに困っている有権者にとって必要なのは、議員や政党に民意を代表させる間接民主主義ではなく、全ての議決に有権者みんなが関わる直接民主主義だというのが「支持政党なし」の考え方です。
 つまり、政策を全く掲げずにネットによる直接民主主義を目指すという「支持政党なし」の手法は、「現行の選挙制度のままでは民意を反映できないじゃないか」という類の民意を「現行の選挙制度の範囲内」で国家に突き付けるためのアイデアとも見れるわけです。
 
 この政党が党名を「支持政党なし」にした意図も、有権者から票を騙しとるためというよりは、現行の選挙制度を不満に思う人の声を「実際の選挙結果」という形ある姿にして届けるためと考えた方が妥当でしょう。
 だいたい、支持する政党を持たない人が「支持政党なし」のことを知らずに投票所にやってきて、わざわざ「支持政党なし」「支持なし」という言葉を選んで投票用紙に書いて帰るという事態が果たしてどれだけ起こるというのか。
 選挙演説をし、ポスターを貼り、ホームページやブログやテレビや雑誌の取材などを通じて積極的にPRしようとしている人たちが、立候補者一人あたり数百万円の供託金を払った上で、確率の薄い誤投票だけを狙っているというのは辻褄が合わないでしょう。

 
 当選した後はネットによる直接民主主義を目指すという公約がどこまで信頼できるものかは分かりませんが、彼らは少なくとも「支持政党なし」が政党名だと有権者に分かってもらった上で、現状の政党政治に不満があるなら自分たちに投票することでアピールの機会にして欲しいと望んでいるはずです。
 世間の注目は「既存の枠内での勢力争い」にばかり集まりがちですが、その枠組み自体を問いただそうとする姿勢も忘れずにいたいものですね。
 
こんな名前あり?『支持政党なし 』の党首がかなり真っ当だった
http://sirabee.com/2016/06/17/134750/
 
【注意】今回の参院選でも党名『支持政党なし』が暗躍!!「支持なし」と書いて投票するとこの政党の票になるぞ!
http://jin115.com/archives/52136388.html
 
【要注意!】参院選で「支持政党なし」と書くと、ある政党の票になる!?
http://grapee.jp/192701
 
選挙で「支持政党なし」と書く選挙で「支持政党なし」と書くと「支持政党なし党」に票が入る。完全に詐欺師の手口だこれ…
http://netgeek.biz/archives/75939
 
「支持政党なし」ってどんな党?参院選では比例区と5選挙区で立候補
http://m.huffpost.com/jp/entry/10622446
 
「支持政党なし」で投票すると1票に?政治団体名がネット上で話題
http://irorio.jp/nagasawamaki/20160623/329324/
 体幹の筋肉を中心に動かし、そこに手足の筋肉を連動させたほうが、はるかに大きな動力を得ることができる。
 そうした考え方のもと、従来のトレーニング理論を見直そうとする動きがあちこちで見られ、インナーマッスルだとか体幹トレーニングといった用語が巷に溢れるようになってきました。
 
 しかし、流行りの体幹トレーニングの中には、体幹を大きな樹や一本の棒のように見立てることで「しっかり固定できること」を目指すようなものも溢れており、それらのトレーニング自体は「手足との連動」に直接役立っていません。
 そのようにレンガのように固めた体幹を造るのではなく、プルプルと柔らかいコンニャクのような体幹を目指すべきだと訴えているのが、陸上短距離の指導者であり【骨ストレッチ】の提唱者である松村卓です。
 
 体幹トレーニングに対する松村氏のこの苦言は、「鍛える」という言葉を「筋力を強くする=筋肉を太くする」という風にしかとらえられない頭でっかちな風潮へのアンチテーゼ。
 動力を増すために体幹が重要なのはその通りなのですが、真に必要なのは「動かす方法」や「ゆるめる方法」の方であり、「筋肉を太くする方法」でも「固める方法」でもないのです。
 
 また、武術や胴体トレーニングの道場を主催していた伊藤昇という達人は、あらゆる身体パフォーマンスもその根幹となる胴体の動きは<伸ばす・縮める><丸める・反る><捻る>の組み合わせに過ぎないと説き、その3つの動きを向上させるための【胴体力】というメソッドを開発しました。
 伊藤氏はその方法を『気分爽快!身体革命』という著書にまとめ、1日3分、わずか3つの動作だけで、身体能力の開発だけでなく、身体の不調までも改善できるとプレゼンしています。
 
 こうした「体幹を自在に動かすノウハウ」に昔から興味を持っていた私は、和太鼓を打つ際にも自然と体幹から連動させていくようにと心がけてきたおかげで一打一打の重みや動作の躍動感・切れ味・滑らかさ・安定感などを向上させることができ、太鼓仲間から「そんな風に打つにはどうしたらいいか」と聴かれ続けてきました。
 そこで、いざ打ち方を教え出すと障害となるのが体幹の扱い方に関する固定観念で、「胴体を固定させたほうが安心できる」と信じて「胴体を固定させようとする癖」から抜け出そうとしない人は、いくらコツを伝えても素直に受けとることができません。
 そんなわけで最近は、体幹を固めたままの打ち方から、体幹と連動した打ち方に切り換えてもらうための和太鼓の基本練習の方法を研究しています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2016/06/13/000328  

 この新しい練習方法を実際に試してもらってみて改めて痛感するのは、いくら気を付けても無意識のうちに体幹を固めたまま体の動かそうとしてしまう人の、これまでの身体操作の習慣の強固さ。 
 その中でも特にやっかいなのが「手を上げる」という動作に染み着いた固定観念です。
 
 人はそもそも、握手をするとき、頭上の棚から物をとるときなど、何気ない動作をするときには、自然と体幹から連動させて腕を操作しています。
 その人本来の自然な連動が崩れてしまうのが、頭で「手を上げる」と考えて手を上げているときです。
 このとき頭でっかちな人は「上げるのは手なんだから胴体は動かさない」という勝手な制限を加えて、体幹を固定したまま肩や上腕など外側にの筋肉だけで腕を引っ張り上げてしまうのです。
 
 つまり、体幹と連動した和太鼓の基本練習をする前に必要なのは、バチも何も持たないでただ単に「手を上げる」という動作をひたすら練習して身体への刷り込みを一からやり直すこと。
 というわけで、体幹と繋がった腕の動きを身体に覚えさせるための、新たな準備体操を考案してみました。
 
 同じように「手をしなやかに上げる」動作が出てくる踊りの練習でこの準備体操を試してみたところ、ほとんどの参加者が「これまでよりも楽に手が上がる」「体が軽い」という感想を得ることができました。
 この踊りの練習会では、最初に紹介した【骨ストレッチ】や【胴体力】のワークも合わせて体験してもらったため、体幹を固めたまま使うという固定観念がより緩和されていたのかもしれません。
 
 体幹は固めるものではなく、ゆるめて動かしてあげるもの。
 鍛えるのは筋肉ではなく、それを操作する神経、つまり私たちの「動かす感覚」です。
 そのことを忘れずに、闇雲な筋トレで「体幹を固定する」という固定観念を強化しないように心がけていきたいですね。
 
【体幹で手を上げる準備体操】
①首胸伸ばし
②首胸背中伸ばし
③上体反らし
④腕の付け根上げ【三階】
⑤腕の付け根上げ【四階】
⑥腕の付け根上げ【五階】
 
①首胸伸ばし
気を付けの姿勢で「正面を向く」「真上を向く」の反復運動を行いながら、首を動かすことで胸が引っ張られて伸びることを確認し、首と体幹との連動の感覚を養う。
 
②首胸背中伸ばし
腰に手を当てて「正面を向く」「胸を前に突き出しながら真上を向く」の反復することで、胴体のしなりを自在に作る感覚を養う。
 
③上体反らし
「腕を左右に広げながら上体を腰から大きく反らす」「腕を閉じながら正面を向く」を繰り返しながら、より大きく全身のしならせる感覚を養う。
しならせるときに片足を一歩前に出して爪先立ちになることで、全身のしなりをさらに大きくしても良い。
 
④腕の付け根上げ【三階】
まず、体幹を固定し、正面を向いたまま片手を耳の後ろまで上げてみて、そのときに働く肩の筋肉の感覚を確かめる。
次に、片腕を胸の前に垂らし、肘を下に向けたままで上腕を肩甲骨から上げる運動を繰り返す。
このとき、体幹を固定したまま手を上げたときに働いた肩の筋肉を使ってはいけない。
肩甲骨を使う感覚が分からない人は、片腕を胸の前に垂らした状態のまま、首をすくめるような動きで上腕を上下させてみると、肩甲骨を自ら動かす感覚を呼び覚ましやすい。
 
⑤腕の付け根上げ【四階】
②で練習した胴体のしなりに④で練習した肩甲骨から腕を上げる感覚を重ね合わせる動きを繰り返すことで「目線を上げれば手が勝手に上がっていく」という体感を養う。

⑥腕の付け根上げ【五階】
③で練習した胴体のしなりに④で練習した肩甲骨から腕を上げる感覚を重ね合わせる動きを繰り返すことで「全身が伸び上げれば手が真上に放り投げられる」という体感を養う。
 
 
【体幹と連動した打ち方のための基本練習】 
ドンコン×4というリズムを、10セットをかけてバチを上げる高さを【一階】【二階】【三階】【四階】【五階】の分類で色々と変えて打つ練習を行う。
その際、両腕を【前足の構え】の範囲内で使い、親指の付け根が正面か真下に向くようにし、両肘がバレーのレシーブのような軌道で内に絞りつつ上げることを徹底していく。
 
【前足の構え】
バチが打面に触れたとき、真下を向いた親指の付け根と真上に突き上げた小指と薬指の腹とでバチが挟まれており、肘が下を向いた状態で真っ直ぐ伸び、腕の付け根が四つん這いになる際の前足の位置に垂れ下がっていれば、体の重みが自然とバチ先に伝わる。
それと逆に、親指の付け根が横を向いていたり、小指や薬指でバチを挟めていなかったり、肘が外を向くように曲がっていたり、腕の付け根が胴体の側面にあったりすると、体の重みを活かせる配置にならないので、上腕や肩の筋力に頼る割合が増える。
 
この【前足の構え】の範囲内でバチを操作し続ければ、腕と胴体との間の「引っこ抜く勢い」の伝達がスムーズになる。
【前足の構え】から離れると「振り回したがり」な肩の筋肉のみが動力源になってしまい、腕と胴体との「引っこ抜く勢い」の連動は途絶えてしまう。
 
【一階】超低空
両腕を【前足の構え】に垂らし、手首は握手をするときの角度に垂らし、親指の付け根は真下を向かせ、手首・肘・肩は動かさずに、小指の微小な動きだけで打面にタッチする。
 
【二階】低め
両腕を【前足の構え】に垂らし、小指・薬指と親指の付け根を開きながら手首を上げでバチを持ち上げ、小指・薬指と親指の付け根でバチを挟みながら手首を振り回すことで、肘や肩は動かさずにバチを打面に持っていく。
 
【三階】中くらいの高さ(地方に便利)
肘が左右に開いてしまわないよう軽く内に絞りながら腕の付け根を肩甲骨からの操作で少しだけ浮かせ、バチはほぼ握らずに親指の付け根を正面に向けたまま手のひらに引っかけて持ち上げ、吊るされた紐を引くような軌道で小指を握りこみつつ肘を真下にストンと落とした勢いでしなった前腕ごとバチを打面に叩き付ける。
 
【四階】高め
腕が左右に開いてしまわないよう脇を内に絞りながら、肩甲骨の操作で顎が上を向き、胸が上下に開くように背中から伸び上がることで、腕の付け根を水平よりも上まで持っていき(肩で引っ張り上げずに胴体のしなりで放り投げる)、小指の握りによってかろうじて腕と繋がったバチを腕の根本ごと背中で引っこ抜くようなつもりで肘を勢いよく真下に落として打つ。
 
【五階】バチコーン打法
斜め上前方に向けて爪先立ちし、骨盤を前に出しつつ腰を反らし、気道確保のように顎を上げることで胸の上下方向の開きを最大にすることで、【四階】のときに活用した胴体のしなりがさらに大きな全身のしなりになって【前足の構え】にある腕の付け根をより高く放り投げることができるので、そうして浮かした全身の重心が真下に落ちる勢いを小指の握りこみでバチに伝えて引っこ抜く。
 
【10セットの基本練習】 
事前に【前足の構え】の軌道を確認
1セット目【二階の高さで打つ】
2セット目【手首の動きをだんだん小さくする】
3セット目【一階の高さで打つ】
4セット目【手首の動きをだんだん大きくする】
5セット目【二階の高さで打つ】
6セット目【肘を少しずつ浮かしていく】
7セット目【三階の高さで打つ】
8セット目【胴体を少しずつしならせていく】
9セット目【四階の高さで打つ】
10セット目【全身を大きくしならせていく】 
 和太鼓の打ち方にはさまざまな流儀がありますが、私が目指しているのは「肩肘を張らず、重心移動の勢いを活かして真っ直ぐ引っこ抜く」という、歌舞劇団田楽座から教わった打ち方。
 日本の和太鼓には、各地のお祭りの中で重宝されてきた民俗芸能としての和太鼓と、戦後から盛んになった舞台用のパフォーマンス和太鼓とがあり、両者の間には天と地ほどの隔たりがあります。
 私が心酔する田楽座は、この相反する両者の要素を、絶妙なさじ加減でブレンドして舞台に上げています。
 
 祭りの場を造る囃子として長年重宝されてきた和太鼓が戦後発祥のパフォーマンス和太鼓と決定的に違うのは、見映えのよさや刺激の強さよりも、音の心地よさや調和の絶妙さの方を重視すること。
 そんな民俗芸能を素材のままの姿で舞台に上げてもお客さんに飽きられてしまうと考えるパフォーマーは、さまざまな工夫をこらして刺激を付けたします。
 さらに、そもそも昔から残されている民俗芸能はその妙が分かりづらくて扱いが難しいと考えるパフォーマーは、もっと分かりやすそうなオリジナル曲の創作に精を出します。
 
 私が田楽座に心酔することになった一番の理由は、その動作の滑らかさ、切れ味の鋭さ、効率の良い動作のみが持つ機能美です。
 そうした動作の効率の良さにおいて田楽座が他のプロ集団より抜きん出ていたのはおそらく、さまざまな民俗芸能を形だけ真似るのではなく、各地の担い手に直接師事することで地元の方々の世界観までもを追体験しようと試み続けているから。
 数ある民俗芸能の中には、長時間太鼓を打ち続けたり激しく踊り続けたりするものもあり、そんな民俗芸能の担い手たちの中には「疲れにくい効率的な身体操作のノウハウ」が脈々と受け継がれていることが多いのです。
 
 ただ、こうした効率的な身体操作のノウハウは言葉で説明するのがなかなか難しいので、形だけ真似ようとする余所者にはなかなか再現できませんし、そんな動作の素養がない人が考えたパフォーマンス和太鼓の世界にもほとんど活かされていません。
 そのことを如実に表しているのが「両腕を耳の真横に真っ直ぐ上げる」というパフォーマンス和太鼓にありがちな流儀です。
 
 この流儀は「両腕が真っ直ぐ上がっているのが格好いい」という考えから生まれたのでしょうが、そうして上げられた腕が「太鼓で良い音を出す」ために役立っていることはほとんどなく、大抵の腕が「ポーズを見せつける」ためだけに上げられています。
 実際にやってみれば分かりますが、この構えでは両肩の三角筋に余計な緊張が生まれます。
 ですから、ドラムのテクニックを和太鼓に活かしたいと考える一派などは、力みなく両腕を泳がせることを重視して「両腕を耳の真横に真っ直ぐ上げる」という効率的でない流儀を一切取り入れていません。
 
 そんな中、田楽座は「両腕を高く上げる」という様式美と「その動作が造りたい音のために有効である」という機能美とを、無理なく両立することに成功しています。
 それを可能にしたポイントが「肩で振り回す」から「背中で引っこ抜く」への発想の切り替えでしょう。
 「肩ではなく背中で」と直接教わったわけではありませんが、田楽座から伝えられた「天井に刺さっているバチを全体重で引っこ抜くように」という比喩はこの発想の切り替えを示唆しているように思います。
 
 ですが、この「背中で引っこ抜く」という動作を実現するためには、肩甲骨から連動させて腕を操作する必要があります。
 現代人の多くは胴体を「一つの箱」のような塊と捉えることで不必要に固め、肩から先だけでしか腕を動かさない癖をつけてしまっているため、田楽座に師事する太鼓打ちでもなかなかこれを再現できていません。
 その結果、降り下ろす角度を垂直に近付けることで「真っ直ぐ引っこ抜く」ように見せかけた「肩でのぶん回し」に落ち着いていることがほとんどです。
 
 そんな落としどころに定着してしまった打法を、再び「背中で引っこ抜く」という方向に矯正し直す練習法はないかと考え、できたのが【前足の構えでカニさんレシーブ】という基本練習です。
 この練習の最大のポイントは、四つ足で歩く動物のように、腕を【前足】として体の前面で操作する癖をつけ直すこと。
 この【前足の構え】の範囲内でバチを振る癖をつけることで、背中との自然な連動を実現することができるのです。
 
 実際、パフォーマンス和太鼓として舞台で人に見せ付けるつもりがない民俗芸能の担い手には、両腕がこの【前足の構え】の位置に垂らしてあり、肩肘を全く張らずに力感なく自然にバチを扱っている人が多いです。
 そんな民俗芸能のエッセンスを吸収している田楽座は、舞台における演出上の選択として「両腕を耳の真横に真っ直ぐ上げるポーズ」をときたま魅せることもありますが、彼らはそれが決して効率のよい動きではないということを自覚した上で様式美として敢えてやっているだけ。
 バチを効率よく操作しようとする際はやはり、胴体の動きを自然に手先へと伝えられる【前足の構え】を活用しています。
 
 今日の福岡での練習会で参加者相手に早速試してみましたが、「今まで使ったことがないところ(肩甲骨)が動いて気持ち悪い」という嬉しい感想を得ることができました。

 「初心者のときにはできなかったことができた」というのは学びの楽しみの一つでしょうが、そういった「経験者レベル」の居心地の良さにしがみついてしまえば、それ以上の理想を追うことはできません。
 身体に染み付いた動作の癖を一気に刷新することは叶いませんが、コーヒーを一滴一滴ドリップするような気持ちでコツコツと挑戦していってもらいたいですね。

 
 
【和太鼓の打法における4つの理想と、経験者にありがちな打法との違い】
 
①「力を抜く」
 
初心者・ガチガチのグーで握りっぱなし
経験者・握りが緩くなり手首から振れる
理想形・小指の操作を起点にして振れる
 
②「真っ直ぐ引っこ抜く」
 
初心者・肩を支点に弧を描いてぶん回す
経験者・初動のみ引くか鋭角にぶん回す
理想形・背中で真っ直ぐ引っこ抜き切る
 
③「重心移動の勢いを活かす」
 
初心者・動かないか勢いなく揺れるだけ
経験者・落下の勢いを打面に伝えられる
理想形・上げる動作にも勢いを活かせる
 
④「打つ直前までバチを下げない」
 
サントコドッコイのリズムに合わせた
せ・え・の・お・ドンの大きな一打では
 
初心者・「ド」が終わると下がり始める
経験者・「コ」か「イ」で下がり始める
理想形・「イ」の瞬間まで上がり続ける
 
 
【経験者レベルという踊り場で立ち止まらずに、理想の打ち方を目指すための基本練習】 
ドンコン×4というリズムを、10セットをかけてバチを上げる高さを「一階」「二階」「三階」「四階」「五階」の分類で色々と変えて打つ練習を行う。
その際、両腕を【前足の構え】の範囲内で使い、親指の付け根が正面か真下に向くようにし、両肘がバレーのレシーブのような軌道で内に絞りつつ上げることを徹底していく。
 
【前足の構え】
バチが打面に触れたとき、真下を向いた親指の付け根と真上に突き上げた小指と薬指の腹とでバチが挟まれており、肘が下を向いた状態で真っ直ぐ伸び、腕の付け根が四つん這いになる際の前足の位置に垂れ下がっていれば、体の重みが自然とバチ先に伝わる。
それと逆に、親指の付け根が横を向いていたり、小指や薬指でバチを挟めていなかったり、肘が外を向くように曲がっていたり、腕の付け根が胴体の側面にあったりすると、体の重みを活かせる配置にならないので、上腕や肩の筋力に頼る割合が増える。
 
この【前足の構え】の範囲内でバチを操作し続ければ、腕と胴体との間の「引っこ抜く勢い」の伝達がスムーズになる。
【前足の構え】から離れると「振り回したがり」な肩の筋肉のみが動力源になってしまい、腕と胴体との「引っこ抜く勢い」の連動は途絶えてしまう。

【一階】超低空
両腕を【前足の構え】に垂らし、手首は握手をするときの角度に垂らし、親指の付け根は真下を向かせ、手首・肘・肩は動かさずに、小指の微小な動きだけで打面にタッチする。

【二階】低め
両腕を【前足の構え】に垂らし、小指・薬指と親指の付け根を開きながら手首を上げでバチを持ち上げ、小指・薬指と親指の付け根でバチを挟みながら手首を振り回すことで、肘や肩は動かさずにバチを打面に持っていく。

【三階】中くらいの高さ(地方に便利)
肘が左右に開いてしまわないよう軽く内に絞りながら腕の付け根を肩甲骨からの操作で少しだけ浮かせ、バチはほぼ握らずに親指の付け根を正面に向けたまま手のひらに引っかけて持ち上げ、吊るされた紐を引くような軌道で小指を握りこみつつ肘を真下にストンと落とした勢いでしなった前腕ごとバチを打面に叩き付ける。

【四階】高め
腕が左右に開いてしまわないよう脇を内に絞りながら、肩甲骨の操作で顎が上を向き、胸が上下に開くように背中から伸び上がることで、腕の付け根を水平よりも上まで持っていき(肩で引っ張り上げずに胴体のしなりで放り投げる)、小指の握りによってかろうじて腕と繋がったバチを腕の根本ごと背中で引っこ抜くようなつもりで肘を勢いよく真下に落として打つ。

【五階】バチコーン打法
斜め上前方に向けて爪先立ちし、骨盤を前に出しつつ腰を反らし、気道確保のように顎を上げて胸の上下方向の開きを最大にすることで、【四階】のときに活用した胴体のしなりがさらに大きな全身のしなりになって【前足の構え】にある腕の付け根をより高く放り投げることができるので、そうして浮かした全身の重心が真下に落ちる勢いを小指の握りこみでバチに伝えて引っこ抜く。

【10セットの基本練習】 
事前に【前足の構え】の軌道を確認
1セット目【二階の高さで打つ】
2セット目【手首の動きをだんだん小さくする】
3セット目【一階の高さで打つ】
4セット目【手首の動きをだんだん大きくする】
5セット目【二階の高さで打つ】
6セット目【肘を少しずつ浮かしていく】
7セット目【三階の高さで打つ】
8セット目【胴体を少しずつしならせていく】
9セット目【四階の高さで打つ】
10セット目【全身を大きくしならせていく】
 昨日、阪急電車の中で一風変わった広告を見付けました。
 さわやかな笑顔の男女の額に、奇妙な丸い印が付いてるんです。

 
 近寄ってよく見てみると、男性の額にあるのは録画マーク、女性の額にあるのは再生マークでした。
 そして、録画マークの男性の下に「学んだ知識を」と、再生マークの女性の下には「生きる力へ」といったコピーが書いてありました。
 
 これはつまり、知識を吸収する様をビデオや動画の録画に、吸収した知識を実生活に活かす様を再生に喩えているんでしょう。
 ポスターの意図をこのように理解したとき、私の脳裏には時流に乗った小粋な演出を思い付いた気になって得意気にプレゼンをする広告代理店の姿が浮かびました。
 そして、遠目には男女の額が不自然にテカっているようにしか見えないこのポスターが実際に電車に掲示されてしまうのを、食い止められる人はいなかったんだなと少し残念な気持ちになりました。
 
 さらに気になったのは、学びというものを「録画と再生」のモデルで捉える人は世の中にどのくらいいるのだろうかということ。
 この「録画と再生」のモデルから連想できる広告代理店の学習観が、私にはとても薄っぺらいものに思えたのです。
 
 確かに「覚えた知識を引き出す」という場面だけを見れば、録画したものを再生しているように見えるかもしれません。
 ですが、学習の効果とは単に「覚えた知識を引き出せる」ということには収まりません。
 学習する前と後とで学習者自身が別人になってしまえるという点こそが学習の醍醐味だと、私は考えています。
 教師として高校生に数学を教えつつ、プライベートで和太鼓を教えることもある私の指導上のこだわりは、曖昧な精神論に逃げずにできるだけ具体的な解説を目指すこと。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2016/02/07/235309
 この方針に従って、いつのころからか数学の計算ミスに関しても「気を付けろ」「よく見直せ」「ミスの重大さを肝に命じろ」といったありきたりな精神論以外の手法を伝えるようになりました。
 
 その方法とは、計算式を書きながら眼球を小刻みに動かし続けること。
 数学の問題では計算を進めるごとに何行も式を続けていくことがよくありますが、一つの式を書き上げるまでにの間に、今書いている式とその直前の式とを何度も見比べる習慣を身に付ければ、計算ミスは自然と減っていきます。
 
 この手法で計算ミスが減るのは、高校数学における計算ミスでもっとも多いのが単純な「書き写しミス」だから。
 前の式から次の式にうつるときにプラスとマイナスを写し間違える、数字が全然違うものに変わっている、xやtやaなど文字が別物に刷り変わっているなど、答えに至るまでの途中式が長くなるごとにこうした書き写しミスの出現頻度も増えていきます。
 
 やってしまった書き写しミスを修正するためには、自分の犯したミスに気付けないといけません。
 ですが、そもそも「書き写しミスはよく起こるもの」という認識を持っていなければ、自分に対して「書き写しミスをやってしまっているかも」という疑いの目を持てませんから、ミスの発見率は絶望的に低くなります。
 
 逆に「書き写しミスはよく起こるもの」という常識さえ身に付けていれば、一行書くごとに新たなミスは起こっているのかもしれないのですから、今書いている式とその直前の式とを見比べるなんてことは極々当たり前の話です。 
 仮に一行書くごとに視線の往復を5回しているとしたら、問題文から十行の途中式を書くまでに、50回はこの小刻みな眼球運動を繰り返していることになります。
 このように数十回の眼球運動を当たり前の癖のように修得してしまえば、後から見直すよりも時間がかかりませんし、計算ミスの発見率も飛躍的に向上します。
 
 大変面倒な作業に感じるかもしれませんが、計算ミスは「次の行に移るまでほんのわずかな時間しかないのにまさか間違えているはずがない」という己の記憶力への過信から生まれます。
 この手法自体も「さっさと先に解き進めていきたいけど、必ず起こるミスを無駄に見逃して、不安まじりの見直し作業を後に残したくない」という私自身のせっかちな性分から自然と生まれた、時間短縮のための工夫です。
 
 一朝一夕には身に付かないテクニックですが、高校1年の早い時期から意識して練習していけば、大学受験までには確固たる技術へと昇華させることができます。
 また、そこまで周到に準備しなくともこの作法の知識があるのとないのとでは大違いですから、数学のペーパーテストを受ける必要がある方は、これからでも試してみてはいかがでしょうか。
 この世はもともと、お互いが自由に影響し合う世界です。
 殺し合い、奪い合い、騙し合い、妥協し合い、協力し合う。
 このように、生存を賭けてそれぞれが好き勝手に影響し合っているのが生物たちの実態です。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/02/22/202235
 
 そして私たち人間も、各々の都合に応じて己の望むものを獲得しようと生きています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2016/04/24/232242
 人間はこうした影響合戦の場に言葉という対人煽動兵器を導入し、正しさという作り話をでっちあげて互いの行動を制限し合っています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2016/04/03/235559
 
 その結果、目に見える殺し合いや奪い合いが抑制された比較的平和な近代国家で育ってきた私たち文明人は、こうした血みどろの影響合戦を生きているという自覚を持ちにくくなっています。
 ですが、今日私たちが野生動物から食い殺される脅威に怯えずに済むのは「そこにいたはずの動物たち」を殺したり追い出したりして人間専用の居住地を切り開いてくれた先人がいてくれたからであり、今日私たちが日本国内で治安の保たれた暮らしを享受できているのは過去の数々の戦によって国土が統一されて殺人や略奪を取り締まれるだけの実力を持つ 行政組織ができたから。
 私たちはいくつもの戦場で他人に武力をふるわせることで自分たちの安全を保障してきたのであり、私たちがぬくぬくと暮らしているこの平和な日常の世界はそういった数々の戦線の単なる後方に過ぎません。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/04/26/000202
 
 その意味では、殺戮とも略奪とも騙しとも妥協とも無縁な人間なんて、ただの一人もいません。
 私たちはみな「懸命に生きる愚かなヤクザ」でしかないのです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2016/05/15/235127
 
 ですから、単なる戦線の後方でしか通用していない「正しさ」という作り話を真に受けて「間違えない人」「やましいところのない人」「瑕疵のない人」を目指してしまうと、「その目標をいつか果たせる」という無謀な期待は必ず裏切られることになります。
 思うようにいかない「愚かさ」や何かを傷つけてしまう「ヤクザ性」は、この世界で生きている以上避けようのない摩擦ですから、むやみに否定して嫌悪感情に陥らないように気を付けていきましょう。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2016/03/06/235739
 怒りや嘆きといった感情に振り回されてしまうのは辛いもの。
 たとえそれが他者に向けたものであったとしても、怒ってしまった時点、嘆いてしまった時点で、その感情の炎は持ち主である自分にもチクチクとダメージを与えます。
 
 できることなら、私はこうした感情による自爆的な被害を極力避けたいと願っています。
 そのために私は「そもそもこのように認識しておけば怒りや嘆きの被害を軽減できる」という、私なりのマインドセットを捻り出しました。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2016/05/08/233326
 
 それは「私たちはみな懸命に生きる愚か者でしかない」というもの。
 今回は、このマインドセットのもたらす効能についてプレゼンしてみたいと思います。
 
 まず、怒りや嘆きの発生源は「こうであるはずだ」「こうであるべきだ」という自分自身の勝手な期待です。
 叶うかどうかも定かでない身勝手な期待を大事に抱えてしまっているから、その淡い期待が裏切られてしまったときに怒りや嘆きを覚えてしまうわけです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2016/04/10/233536
 
 自身の勝手な期待が裏切られてしまったとき、幼稚な人は「期待を裏切った相手」を修正したがります。
 ですがその相手はその人なりに合理的な選択をしているだけであり、誰かの勝手な期待を満たすために生きているわけではありません。
 怒りや嘆きの炎で自分を焼くのが嫌ならば、修正すべきは「相手の行動」ではなく「自分勝手な期待」の方でしょう。
 
 そうした「自分勝手な期待」に必要以上に振り回されてしまわないために便利なマインドセットこそが「私たちはみな懸命に生きる愚か者でしかない」です。
 「自分勝手な期待」とは自分でも気付かないうちにいつの間にか身に付けてしまっている固定観念ですから、いくら持たないようにしようと気を付けたところで「勝手な期待を裏切られてイラッとする瞬間」の到来は避けることができません。
 そんなときに「私たちはみな懸命に生きる愚か者でしかない」という方便を常備しておけば、相手を「悪」や「間違ったもの」とみなして断罪するという深みにハマることなく、「愚かさ」や「不器用さ」や「下手さ」に同情するというより軽い症状に留めておくことができます。
 
 同情できるポイントは「相手は相手なりの基準で懸命に生きているはずだ」ということ。
 たとえ相手が自分に向けて直接的な敵意や害意をぶつけてきたときでさえ「そうでもしないと感情のやり場がないくらい未熟なんだから仕方ないな」と諦めがつき、断罪という深みにハマらずに済みます。
 さらに、こちら側のイライラの原因が「懸命さが見えない」「やる気が見えない」「不真面目に見える」というときでさえも、「当の本人には『一生懸命やらない』や『やる気を見せない』や『不真面目でいる』を一生懸命やっていなければ自分を保てないような事情があるんだろうな」という風に理解することができます。
 
 そして、それでも怒りや嘆きの炎が収まらない場合に恐いのは、同じ事態を許せている人を目の当たりにした場合に「怒りや嘆きに留まっている自分は駄目なんじゃないか」とさらなる自己嫌悪に陥ってしまうこと。
 ですが「私たちはみな懸命に生きる愚か者でしかない」としっかり理解しておけば、「思わず感情が燃え上がってしまうくらい自分も真剣なんだ」という風に受け止めることができ、自分に起きた反応を「いけないもの」として断罪してしまわずに「未熟さゆえのもの」としてより穏便に処理できます。
 同じ愚を犯すのが嫌なら今回下手くそだったところを今後は上手に対処できるように反省すればいいだけの話で、「あれは間違っていた」といつまでも自分にレッテルを貼ってひきずる必要はないのです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2016/03/06/235739
 
 生身の人間として生きる以上、怒りや嘆きの火種が着火してしまうこと自体は避けようのないこと。
 ですがそうした感情の火種を、小火のうちに鎮火させるかどんどん燃え上がらせて大火にしてしまうかは、その人の常日頃からの在り方次第です。
 もしこうした感情の炎で己の身を焼くのが嫌なのであれば、そもそも自分自身が「積極的に怒ったり嘆いたりしたがるような在り方」を選び取ってはいないか検討してみる必要があるでしょう。
 
 私はこれまで「私たちはみな懸命に生きる愚か者でしかない」という心構えを持つことで、「私の期待を外すなんて許せない」といった「己の在り方が招く自滅的な延焼」を最小限に食い止めてきました。
 怒りや嘆きの感情をゼロにすることができないならば、せめて自分自身の手で火に油を注いでしまわないよう心の減災に努めたいものですね。