昨年、スタートした子どもたちとの一年間の学習が、とうとう・・・終わりました。
「なかなかうまくいかない・・・。」と思い悩む一年でしたが、よくも悪くも、それぞれの子どもたちは、それぞれの考えで自分の人生を生きるのだなと思ったことでした。
しっかりと考え自分をぐっと成長させていった子どもたちもいれば、私の力不足で彼らの考え方にアプローチできないまま終わってしまった子どもたちもいます。
少しずつ少しずつ、振り返りながら、どのような自分の学びがあったのか、まとめてみたいと思います。
昨年の4月の授業の様子は、こんな風だった・・・。(昨年の6月ごろのブログにこんなことを書いていたようです。)
私が、この子どもたちの授業をしていて、とても困ること。
問いかけても、声を出さない。出ない。
問題を読みましょう・・と言っても、半数以上が声を出そうとしない。
回し順で、問いかけるという対策をとってみたところ、それでも、独り言・・・のような小さな声。
何を言っているのだろうと、予測しながら聞き取らなければならないぐらい。
回し順で、問いかけるという対策をとってみたところ、それでも、独り言・・・のような小さな声。
何を言っているのだろうと、予測しながら聞き取らなければならないぐらい。
さらにそういえば、「ここまで分かりますか? まだ、分からない所がありますか?」と問いかけても、無言。
とうとう全員のノートをのぞき込まなければならず、その結果、半数の子が分かっていないということが、分かった時がありました。
また、指示をしたのにノートにその結果が表れていないこともいくつかあり、話の聞き方も十分でないことも分かってきました。聞こうとしていない気持ちがある・・・ということ。
あるいは、「聴くこと」に価値を見出していない・・・か?
とうとう全員のノートをのぞき込まなければならず、その結果、半数の子が分かっていないということが、分かった時がありました。
また、指示をしたのにノートにその結果が表れていないこともいくつかあり、話の聞き方も十分でないことも分かってきました。聞こうとしていない気持ちがある・・・ということ。
あるいは、「聴くこと」に価値を見出していない・・・か?
「分からない」ことがあっても、行動にも言葉にも、表情にさえも表さない。
そして、分からないことが積み重なれば、(自分は勉強が苦手なのだ)と、自ら刻印を押していくのでしょうか?
担任の先生に、「宿題のやり直しに行ってきなさい。」と言われて、私の所に来たある女の子は、「私、算数苦手。大嫌い。」と、つぶやきました。
担任の先生に、「宿題のやり直しに行ってきなさい。」と言われて、私の所に来たある女の子は、「私、算数苦手。大嫌い。」と、つぶやきました。
教師が気づかなければ、この子どもたちは分からないまま、残されていくタイプだったようです。
「教師依存症」とでも、名付けておきましょうか。
この子どもたちの世界観を、予測してみました。
「自ら行動開始するという思考回路」がない世界観?
そのことを証明するかのような光景が、授業の直前にも毎日見られました。
算数の授業が始まるので、教室から、私がいる少人数教室に子どもたちがやってきた時のこと。
算数の授業が始まるので、教室から、私がいる少人数教室に子どもたちがやってきた時のこと。
まず、自分が座るはずの机に、ぽんと学習用具を置いたとたん、休み時間のように過ごす子どもたち。
「早めに来ること」「すぐに着席すること」「自ら考えて教科書とノートを開くこと」「先生、今日は何ページですかと尋ねずに、自分で考えること」など、授業初日から指導しているのに、なかなか定着しないことの一つ。
「早めに来ること」「すぐに着席すること」「自ら考えて教科書とノートを開くこと」「先生、今日は何ページですかと尋ねずに、自分で考えること」など、授業初日から指導しているのに、なかなか定着しないことの一つ。
「自分から、何をしたらよいかと思考をめぐらすことの必要性」について話しをしても、耳を素通りするよう。その大切さを認識できないので、子どもの世界観もなかなか変わらない・・といったところだと思いました。
以上が、前年の6月頃に書いていた内容です。
ああ、そうだったなあと思いました。
ちっとも変っていないこともあるし、グンと変わったこともあります。
あのころの様子をもとにして、どのように変わっていったのか、少しずつ書いていきたいと思います。