『三二庵閑話』を読む(2) | 電気鉄道のルーツ 伏見チンチン電車の会

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明治28年に京都-伏見間で開通した日本初の電車について

高木文平の自叙伝『三二庵閑話』を読み進めながら、その生涯を追っています。原文を読みやすいように書き改めておりますので、引用等される場合は、原文をご参照いただきますようお願いします。

【参考】国立国会図書館デジタルコレクション『三二庵閑話』

 

高木文平は1843(天保14)年3月11日、京都府北桑田郡神吉村(現在の南丹市八木町)で誕生しました。日本史でいえば、江戸時代三大改革の3番目、老中水野忠邦による天保の改革が始まって3年目で、この年の9月に水野は失脚します。10年後にはペリーが浦賀に来航し、幕末から明治への激動の時代が始まります。そのころ、文平は少年から青年へと成長しました。

高木家は、旗本武田兵庫の代官を務める家系。1867(慶応3)年に父親が死去し、文平は20代で家督を継ぎました。

 

文平が代官を務めた陣屋跡に門だけが残る。
(個人宅につき、見学は不可。2020年9月、許可を得て撮影。)

 

生地
私は丹波の国北桑田郡神吉村と云ふ山村の土百姓で、家柄とか財産家とか云ふので、曾祖父までは大庄屋と云ふものでしたが、祖父の代よりごく小さな旗本の御代官、槍一筋、馬一匹の御侍でした、アハハハハ。私も爺に続いて年若ながらその代官を襲ひました化けもの侍ですよ。

 

文平の孫の誠氏によると、文久2(1862)年、19歳の文平は江戸へ出て、武田家の用人見習いとして3年間を過ごしたといいます。その間、闇討ちに遭ったことがあり、高木家に伝わる刀の柄にそのときの傷が残っているそうです。

 

 

陣屋跡に建つ頌徳碑(昭和35年)。右は裏面。

 

さて、文平が家督を継いだ年の11月に15代将軍徳川慶喜が政権を天皇に返上(大政奉還)し、翌慶応4(1868)年正月には戊辰戦争が始まります。神吉村にもすぐに官軍がやって来ました。若き文平の武勇伝の始まりです。

 

維新の際
そこで、維新の時が面白い ── 朝廷において諸道鎮撫総督使と号し、薩長二藩の兵を率ひて、総督には西園寺三位中将卿が、一月六日かの水尾の険を越られて馬路村に本陣を据られ、同所にありし杉浦てう旧旗本八千石の陣屋を手始めに、武器金穀を押収し、詰合のかの代官輩は残らず追払ひを喰らった。それで翌朝よりは亀山藩を打ち潰すと云ふ順路に当る、我々が詰合はす川原尻村なる武田の陣屋へは、三雲当一郎を主とする薩隊が向ふたと云ふことを、僅か暫く前に伝聞するや、俄かに詰め合の面々大狼狽を極め、書類を片付くるやら、逃げ仕度を為すやら、乱痴気騒ぎと云ふたらば、実に名状も出来ぬ有様であった。


官軍の名を振りかざして、旧旗本の陣屋を襲っては武器・金銭・穀物を押収し、代官を追い払うというので、大騒ぎになりました。

上使の御入り

それを見た私は、片端から怒鳴り付けて、皆な皆なを一室に押込め、急ぎて大門を開かせ、箒目を入れ、飾手桶を出させ、万事芝居でする御上使の御入りと云ふような塩梅でもって、待ち受の用意をなし、衣服を改め、この文平が出迎を致した。すると隊長殿は「ピストル」を右手に据え、玄関の前に突っ立ち、伴兵は構ひ筒して前後左右に居列んだ。いざ先ずこれへと請じければ、隊長殿上座に就き、「ピストル」を握りたるまゝ、肩怒らせ予を睨みて曰く、
御聞きでもあらうが、旧臘は幕府大政を返上し、一旦は大阪に引き取りたるが、あに計らん、この度大兵を率ひて京師に迫りたれば、止むを得ず官軍を出し、今日は淀枚方に打入る訳で御座るが、斯許等も幕末の陣屋なれば、武器金穀を引渡し、一刻も早く立ち去られよ、御勅使の命でござる ──。文平謹み答へて曰く、御申達の趣具さに承知仕りました。凡そ普天の下率土の浜、皇土皇臣に非ざるなし、誰か皇命に背くものあらんや。しかしこちらの意思一通り御聞取り下されたく存じます。その次第は、主人なる者は百三十里を隔てたる遠き江戸表にあり、この主人素より走せて官軍に参り加はる志ならんと察しまするが、もし万一大義を顧みずして官軍に敵対する所存なれば、私共より暇を呉れ我々官軍に参るまでなり。先づ主人なるものゝ決心を確め申すまでの間は、この陣屋この領分をこのまま私共へ御預け下されたく、この義 御願仕るなり。

 

皆を落ち着かせた文平は、門を開き庭を掃き清め、腰を低くして官軍の隊長を丁重に迎え入れました。ピストルを握ったまま、直ちに立ち退けと言う隊長。これに対する文平の口上は、「主人は130里離れた江戸表におります。主人も当然、官軍に加わる意志があると思いますが、万が一、官軍に敵対するつもりであるならば、私どもの方からクビにしてやり、我々は官軍に協力するのみです。まず主人の意志を確認するまでの間は、保留にしていただくよう、お願いいたします。」

文平の言葉にある「普天の下率土の浜、皇土皇臣に非ざるなし」とは、中国の古典『詩経』にある「溥天の下、王土に非ざるは莫く、率土の濱、王臣に非ざるは莫し」という一節を引用したもので、この大空の下、地の続く限り、すべての土地、すべての人民は天皇のものであるという意味です。20代半ばにして、深い知識を持っていたことがうかがわれます。

 

これを聞いた隊長が言うには、自分の一存では決められないから、一緒に本営に行って上官である参謀に直接伝えてほしいと…。

 

ところが隊長先生暫時考慮して、
一応御尤もと存ずれども、その義は拙者において御返答は出来ませぬ。御同道申すから御勅使の本営に参られよ。いざ、御同伴仕らん──。と、ここにおいてはじめて「ピストル」を腰に納め、しずしずと一隊を引上ぐることとなり、拙者も同行して本営に至り、時の参謀に面し事情を述べたるに、希望の如く採納せられて、元と領分そのまま万事取締方を命ずるの御書附を頂戴し、尚ほ官軍人少につき、なるべく人数を出し呉れよとの命に随ひ、第一番に愚弟なり、従弟なりを始め、官軍に参らせ、拙者は陣屋に残りて、人心の動揺を鎮め、政務を採り、ひそかに江戸表へ忠告をなしたるに、武田家も微行上京して官軍に走せ加はり、無事に本領安堵の恩命を蒙ったので一段落でした。なに弟ですか、それは豊三です。

 

参謀から許しを得た文平は、さらに、官軍に人を出してほしいとの命に従って、弟や従弟を官軍に参加させたました。この弟の豊三というのは、文平より9歳年少なので、このときは16歳。後に司法次官、貴族院議員、帝国大学講師などを務め、多数の著書・翻訳書を残しました。

 

この話の終わりに、このころ文平が半年間、軟禁されたことが書かれています。

 

その頃、元同僚の上弓削村寸田佐伯抔と云ふ者等が、代官中の悪行を摘発したる為め、地方人民大騒動をおっ始め、家を毀つやら、人を傷くるやら、大一揆を起し、官位を褫脱せらるゝ者やら、遠島になるものやら、隠居申付らるゝやらで、地頭武田も謹慎申付られて、拙者も御相伴を蒙り、六ヶ月間自宅禁錮を申付られた。これを小説にでも作ったら定めて面白きことならん。

「これを小説にでもしたら面白いだろう」などと、得意になって武勇伝を語る文平の顔が目に浮かびます。
 

(つづく)