『三二庵閑話』を読む(3) | 電気鉄道のルーツ 伏見チンチン電車の会

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明治28年に京都-伏見間で開通した日本初の電車について

高木文平の自叙伝『三二庵閑話』を読み進めながら、その生涯を追っています。原文を読みやすいように書き改めておりますので、引用等される場合は、原文をご参照いただきますようお願いします。

【参考】国立国会図書館デジタルコレクション『三二庵閑話』

 

幕末の動乱が終わりを見せ、時は明治に。若き文平は、これからは、国民の教育が国家の急務であると考えました。

 

私学校を興す

さて私が考へたには、官軍はいよいよ破竹の勢をもって会津を落しいれ、函館も片付き、もはや平定の目的立ちたるときなれば、これからはいわゆる守成難しとする時勢であるから、たとえ自身一人だけなりとも、まず天下の良民となりて、四方を誘導扶掖しやう、こは国家に対する急務ならめ、もちろんしかり、よしやらうと決心したのである。そこで自家財産の歳入を見積り、このうち自家の経済を節倹するなれば、余分をもって永遠自費にて一の学校を維持することができる見込から、明治二年に初めて一の私立学校を新築致し、三年八月数人の教員を聘し入れ、近郷近在の若者を誘ひ来りて、無謝儀無学資にて入学せしめ、無知蒙昧の輩を教育する為めに独力をもってこの一学校の歳費を自弁するを楽みと致し居った。

 

「守成難し」は唐時代の故事に基づくことわざ「創業は易く守成は難し」で、新しい事業を始めるのは容易だが、衰えないように守っていくことは難しいということ。扶掖(ふえき)とは、助けること。新しい国家を維持していくためには、若い人たちの教育が必要であると考え、自費を投じて私立学校を設立したと、文平は言っています。


この私塾「文平私学」の設立には、複雑な背景があったようです。明治5(1872)年8月に明治政府が学制を発布する以前の明治元(1868)年から、京都ではいち早く小学校設置の動きがありました。『図説 丹波八木の歴史』第4巻近代・現代編(八木町史編集委員会、2013)によると、文平は神吉上・下・和田の三カ村組合による小学校開設を考えて各村と協議しましたが、上・和田両村の賛同を得られなかったため、私塾の開設に至ったようです。その後も文平は諦めず、明治5(1872)年3月、「小学校願書」を京都府に提出し、三カ村の小学校開設を命じてほしいと訴えました。これが認められたため、文平は私塾をすべて村へ寄付し、「桑田郡第一五区小学校」が誕生しました。この小学校が、明治8(1875)年に「及時館(きゅうじかん)」と改称されています。

この小学校開設について、『三二庵閑話』には次のように記されています。上の引用に続く部分です。


ところが、明治五年に至り、久美浜県を廃し、京都府の管轄になり、槇村知事の私立学校大嫌ひに出喰し、時の長官に背いて競争するも面倒と思ひ、該学校は地所建物書籍類を始め、教員も何もかも、そのまま地方民に遣はした。今の神吉及時校はこれであります。今もなほ恋しきものはこれなり。槇村知事が私学校を打ち潰す性質の人でなかりせば、今もなほ引続き文平学校として存続し、三十年間には随分多数の俊才も造り出したることならん。また自分も浮世を走せ廻り身代を毀ち浪人の如くなりもせず、正真の良民で有るならんと思ふ。否な、世迷言失策話は気が寝入る、止めてこれから自慢話をします。

 

ここで槇村知事と書かれていますが、槇村正直が第2代京都府知事になったのは明治8(1875)年で、明治5年当時は大参事でした。大参事は現在の副知事にあたる地位ですが、すでに実権をにぎり、小学校設置のため奔走していました。

さて、その槇村が私立学校大嫌いだったというのは本当でしょうか。先述した「小学校願書」の流れから考えて、村に公立の小学校ができることは文平の本望だったはずです。「地所建物書籍類を始め、教員も何もかも」を、むしろ喜ばしい気持ちで、誇らしい気持ちで寄贈したのではないでしょうか。

 

福沢諭吉は明治5(1872)年5月に京都を訪れ、府内の学校を視察して京都学校の記」を著しました。その中で、小学校の設立と運営にかかる費用について次のように書いています。

小学校の費用は、はじめ、これを建つるとき、その半を官よりたすけ、半は市中の富豪より出だして、家を建て書籍を買い、残金は人に貸して利足を取り、永く学校の資となす。また、区内の戸毎に命じて、半年に金一歩を出ださしめ、貸金の利足に合して永続の費に供せり。ただし半年一歩の出金は、その家に子ある者も子なき者も一様に出ださしむる法なり。金銀の出納は毎区の年寄にてこれを司り、その総括をなす者は総年寄にて、一切官員のかかわるところにあらず。

つまり、建物の建設や書籍購入にかかる費用については、半分は役所、半分は民間の富豪が負担し、残金は人に貸して利息を取り、学校の運営資金に充てる。また、地域の各家庭から子供の有無にかかわらず一定の金額を集め、それらの管理は地域に委ね、役所は一切関与しないというのです。

これを見ると、公立といっても、かなりの部分で民間の力に依存しているようです。文平も「富豪」の1人であったはずなので、お金を出す代わりに既存の私塾を丸ごと寄付しただけではなかったかと。ただ、その手続きのわずらわしさに、ええい面倒くさい!全部くれてやる!という気持ちになったかもしれません。それが、「槇村知事の私立
学校大嫌い」という言葉に隠れているようにも思われます。文平はその後の人生においても、自分が立ち上げた会社を丸ごと人に譲るということをくり返しており、その豪快な人柄は若いころから培われていたようです。



及時館の後身であった旧・南丹市立神吉小学校は、平成27(2015)年に閉校になっている。
(現在は公民館。2020年9月撮影)

 

旧・神吉小学校の玄関横に立つ石灯篭には、「及時館 明治二年 高木文平氏 開校」と刻まれている。

文平は「槇村知事が私学校を打ち潰す性質の人」でなかったなら、今でも文平学校は存続し、30年の間にはずいぶん優秀な人材を送り出せただろう、自分も身代をつぶすような者にはならなかっただろうと言っていますが、その後の八面六臂の活躍を知る私たちには、とてもそんなおとなしい人生を送れる人ではなかったろうと思えます。

さて、さんざんコケにした槇村正直が知事になると、文平はその才覚を認められ、京都府庁に入るのですが、それはもう少し後のこと。このあと、神吉村での産業奨励と土木工事について、また文平私学での教育内容について語られます。

 

(つづく)