『三二庵閑話』を読む(1) | 電気鉄道のルーツ 伏見チンチン電車の会

電気鉄道のルーツ 伏見チンチン電車の会

明治28年に京都-伏見間で開通した日本初の電車について

日本初の電気鉄道を実現した高木文平には、その生涯を詳細にまとめた伝記がありません。そのためか、明治京都の近代化を推し進めた中心人物の1人でありながら、彼の名前は、いつしか忘れられ、現代では、知る人も少なくなってしまいました。そこで、伏見チンチン電車の会では、彼の業績を紹介し、再評価すべく活動を行っています。

文平の生前に書かれたものとしては、明治24(1891)年に出版された『京都府下人物誌 第1編』の中に、「高木文平君伝」と題する章があります。ただしこれは、京都電気鉄道が開業する明治28(1895)年より前に著されたものであって、「明治廿一年技師某と俱に米国に航し帰朝の後も尚大に尽す所ありしと云ふ」というところで終わっています。


【参考】国立国会図書館デジタルコレクション『京都府下人物誌 第1編』

    「高木文平君伝」はコマ番号79~83

これとは別に、文平本人が口述したものを活字にしたのが『三二庵閑話(さんにあんかんわ)』です。明治35(1902)年の出版で、京都電気鉄道や宇治川水力発電所についても言及されています。

【参考】国立国会図書館デジタルコレクション『三二庵閑話』

この『三二庵閑話』を読み進めながら、高木文平の生涯を追ってみたいと思います。なお、原文は漢字とカタカナで綴られていて読みにくいため、漢字は極力新字体に、カタカナは平仮名に改め、漢字表記のうち仮名で表したほうが読みやすいと思われるものは平仮名に直しました。また、適宜、句読点を付加しています。引用等される場合は、原文をご参照いただきますようお願いします。

 

国立国会図書館所蔵の『三二庵閑話』には、巻頭に肖像写真が掲げられ、聞き書きを行った野中昌雄という人の格調高い文章が続きます。高木文平の孫の故 高木誠 氏がご自宅の蔵で見つられけた冊子を拝見しましたが、肖像写真はありませんでした。
 

緒言

一夕客あり、高木文平君を樵街の第に訪ふ、偶々君は忙中の小閑に乗し、後園の茶亭に茗を啜り、近くは高瀬の河水溶々去って帰らざる辺、人世栄枯の真理を悟り、千鳥鳴くなる鴨水の涯には、仰いで東山を睹志を風月に寄せ雅懐を述べ居らるるに当り、稍清閑を妨ぐる嫌なきにあらざれども、由来君が実業界に貢献せられたる履歴の概要を聴かんことを乞ふに当り、不肖これに陪し、語るに随って筆記し、録して三二庵閑話と云ふ、而して客の問は事繁に渉り、余り必要ならざるを以て之を略しぬ。

明治三十四年初夏    後進 野中昌雄 謹誌

高木誠氏によると、樵街とは、現在の京都市下京区下樵木町、現在は立誠ガーデン ヒューリック京都(旧 立誠小学校)のあるあたりです。高瀬川が流れ、川に沿って京都電気鉄道木屋町線が走っていました。文平はそのあたりに住み、「三二庵」と名付けていたのでしょうか…。「三二」の由来は未詳です。

 


京都市下京区下樵木町(2020年10月)


次に、岩橋元柔という人が、高木文平の業績と人物像について紹介しています。

 

本編三二庵閑話なるものは、高木文平君の清話にして、同君自ら履歴を叙述せられたるものなれば、その事実の適切にして後進者を益すること実に尠少ならざるを信ず。そもそも君は北丹の素封家に生れ天資豪邁磊落にして、錙銖を事ともせず、明治維新の際幕末の旧臣なるにも拘はらず主として王師を歓迎し、ついで家資を投じて僻村に学校を設け兵式体操を訓練し頑迷固陋の徒を導き、ひたすら人智を開発し、傍ら桑田茶圃を拓き河底を掘鑿して流筏を安全ならしめ国利民福を謀るに汲々たりき。しかるに槇村京都府知事深くその才幹を愛し監察に推挙し、続いて学務勧業の事務を兼ねしむ。君もまた奮励事に従ひ、いやしくも国家に益ありと信ずる事は、知て言はざるなく、見て行はざるはなく、為めに家資を傾け去って毫も意に介せず、ますます世務を開くに勉めたりき。京都人士もまた君が温然たる風采と敏活なる行動とに導かれ、続々文明の新事業に着手するに至れり。而して君が実業に従事したる最も顕著なるものは、海外直輸出を創始し、京都商業会議所を発起し、琵琶湖疏水に尽力し、米国に渡航して水力電気事業を考索し、我邦に電気鉄道を創始せる等、その他現今計画しつつある宇治川水力電気、又は叡山鉄道の如きもの枚挙にいとまあらず。嗚呼君が心事の玲瓏高潔にして、時勢を察し機を見るに敏なる、いやしくも国家に益ありと信ずれば、すなわち断乎としてその事を興し、私財為めに蕩尽し去るも、豪も顧みざるに至りては、実に当世また得易からざる所にして、これを彼の私利これ営むに汲々たる輩に比すれば、その懸隔雲泥ただならず、真に我京都人士文明航海の羅針盤あり、あに敬せざるべからんや。

明治辛丑陽月 梧窓 岩橋元柔 謹識

 

この文章の内容は、これから本文に出てきますので、解説は略します。

 

次から、本文が始まります。
 

三二庵閑話

          高木文平君口述

          野中昌雄氏筆記

 

客曰く、

貴君は国家鴻益の為め、巨万の富をその犠牲に供せられたりとは、衆人の賞揚するところなるが、不幸にして不肖未だ詳細を知悉せず、希くは君が国家の為めに尽瘁せられたる経歴の大要を聞くを得ん。

君破顔微笑一番、徐々に語りて曰く、

御説の如く予が心持に於ては帝国第一の良民たらんことを希ひ、色々の事を行ってみました。いや、今日とても同一の心持にて、善き事と思ふものはことごとく計画してみる積りで居りまするが、ただ希望のみにて何事もこれと云ふ程の事は仕出来さずして、僅かながらも祖先伝来の山林田畑を人手に渡す様に相成り、よくよく思へば帝国第一の良民どころか、不運なる否な大馬鹿者の一貧民と落魄したるのみと思ひます。しかりといへども、その結果から云ひますれば、楠公湊川の打死も、文平が身代の打死も、事柄こそ違へ国家に尽すの一事は好一対でありましょう、アハハハハ。しかし幸にも友達連中の助けにより、その日暮しにもせよ、まず普通寒暖の衣食住だけ差支なく出来るが妙です。故に子孫に正行は出来ずとも、泥棒だけは出来ぬやう、かつ人間に七生も八生もして、国家の為めにいささかたりとも貢献致したく思ふのみです。別にこれと申す程の履歴はありませぬが、せっかくの御勤めなれば、幸ひ夜は長し、一つ二つ身の上咄しと出掛けましゃう。私の失敗談も後進の者の転ばぬ前の用心にも成りましゃうから。

冒頭で、巨万の富をなげうって国益のために尽力してきた経歴は、どのようなものであったのかと問われると、文平は祖先伝来の山林田畑を人手に渡した大馬鹿者の貧民だと謙遜しながらも、常に「帝国第一の良民たらん」と心がけ、国家のために少しでも貢献したいと述べています。そして、自分の経験が後に続く者の指針になればと、語り始めます。

(つづく)