15年ほど前の実体験で、新聞記事の内容がインタビューを受けた人の意見と異なるという話題を次の記事 「穂の国」で発見された大刀 で予告していましたが、やっとアップできます。

“「穂の国」で発見された大刀”の結び

実は、昔、私が新聞記事に書かれている内容について、その意見を述べた学芸員の本人に問い合わせたところ、その本人が話した見解と新聞に掲載された内容が異なっていたということを経験していますので、この手の新聞記事には懐疑的です。

15年前の話ですが、次回お知らせします。

 

 

馬越長火塚古墳について

インタビューされた方の意見が新聞記事に正確に反映されていない例の紹介でもあります。
 

Ⅰ 位置  

馬越長火塚古墳(まごしながひづかこふん)は、愛知県の豊橋市石巻本町宮西(豊鉄バス馬越バス停下車徒歩15分)にあり、和田辻交差点から西北へ車で約3分の柿畑地帯にあります。




  (2007.2.15付け豊橋市広報より)


 

Ⅱ 馬越長火塚古墳の概要

           

 

<調査の経過>                                                     
  1 昭和43年に横穴式石室を調査                                
  2 昭和55年に前庭部を発掘調査                               
  3 平成10年に墳丘の測量調査                                 
  4 平成16~18年度に墳丘の確認調査                             

<遺構>
1 現在の古墳の状況は、方部の西側(図の左方)が開墾などで切り取られており、方部の現況は長さ26m、高さ2mと低いのに対して、円部は著しく高く盛り上がっており、直径32m、高さ5.75mである。


2 切り取られた部分を考慮すると、古墳の全長は約65mほどと考えられる、いわゆる前方後円墳(以下、方円墳という)である。


3 円部に長大な方部がついた特異な形状をしており、愛知県の東三河地域内で最大の規模の古墳である。特に古墳時代後期においては、東海地域において最大級であり、県指定史跡となっている。


4 墳丘は円部の上部を除くすべてが葺石(ふきいし)で覆われており、また、方部の端と思われる葺石列も発見されている。円部墳丘裾には、葺石が4段の階段状に並べられている。
   葺石部は傾斜がゆるく、その上の墳丘部は傾斜がきつくドーム状になっており、他に類例のないきわめて珍しい墳丘である。


5 円部の中心方向に複室構造の横穴式石室があり、南に向けて開口している。石室の長さは約11m、前庭部を含むと17.4mである。石室には付近に産出する変成岩や石灰岩が使用され、奥壁は縦3m、横1.8mの一枚岩である。

   石室の羨道、前室、後室は、それぞれ異なる構造で、羨道は床面に大小の石が混在し、敷石に閉塞石が落ち込んでいる。前室は敷石が全くなく、後室は大きさの揃った敷石が敷かれている。後室右側壁に沿って、棺台と考えられる石が一部整然と並んでいる。


6  石室入り口の西側には、基壇状遺構があり、そこにも葺石が敷かれている。


7  この古墳は、遺物の状況から6世紀後半の築造と考えられている。


8 墳丘の北側は農道があるため不明であるものの、私見だが南側には周溝が認められる。(今のところ周溝の調査の予定はない)


  現地説明看板より馬越長火塚古墳の北側からの全景
 (三河考古学研究所HPより)
                                               


<現地の説明看板>



<遺物>
1 横穴式石室からは金銅装馬具と装身具が出土している。金銅装馬具のほか玉類、鉄器、須恵器など豊富な副葬品が出土しており、東海屈指の副葬品の内容といえる。


2 金銅装馬具には棘葉形杏葉(きよくようがたぎようよう)や鞍金具、半球形飾金具などがあり、杏葉(ぎようよう)は福岡県沖ノ島祭祀遺跡や熊本県打越稲荷山古墳出土品に系譜をひくものである。


3 また、馬越長火塚古墳の杏葉(ぎようよう)の上半部の構成は、下向き二股蕨手紋と二重心葉形の組み合わせで、ほぼ同じ構成が神奈川県伊勢原市登尾山の心葉形鏡板・杏葉にみられる。


4 装身具には線状文と斑点文を組み合わせた特異なトンボ玉や、大型の琥珀製棗玉がある。


5 太平洋戦争中に石室が陸軍の倉庫として利用された際に、金銅製の飾り1つと須恵器(すえき)2個が発見されているが、1980年の調査においては、前庭から多くの須恵器を出土している。これは墓前祭祀に使われたと考えられている。 

 

 

<馬越長火塚古墳出土の棘葉形杏葉(きよくようがたぎようよう)>
 馬越長火塚古墳からは棘葉形杏葉が1点出土している。杏葉は馬の尻などにつり下げた馬具の部品で、この棘葉形とは杏葉の下部がトゲ状にとがっていることから付けられたもの。
 馬越長火塚古墳出土の棘葉形杏葉(きよくようがたぎようよう)は残念ながら下部が失われている。     

豊橋市美術館蔵の馬越長火塚古墳出土の棘葉形杏葉(きよくようがたぎようよう) 

(同美術館HPより)




沖ノ島遺跡出土の棘葉形杏葉(きよくようがたぎようよう)(国宝)
         

 

馬越長火塚出土




沖ノ島遺跡出土


<古墳の名称>
1  馬越はこの付近の地名である。


2 長火塚については、地元では古墳のことを火塚(ひづか)と呼んでいるが、この古墳は石室が長くて大きいため長火塚と呼んだとされる。



Ⅲ 馬越長火塚古墳に関する考察

1  本墳の南東方向にそびえる石巻山は、古代から続く信仰の山であり、山頂は石灰岩に覆われている。また本墳の西方にある権現山には、愛知県指定史跡の権現山1号墳2号墳がある。いずれも方円墳で、2号墳(全長約33m)は3世紀末の築造とされ、1号墳(全長約38m)は、4世紀後半の築造と考えられ、このほかに3号墳(円墳)と4号墳(詳細不明)がある。

 

    さらに豊橋市老津町の今下(こんげ)神明社古墳や同市石巻本町の大塚南古墳(7世紀前半)では金銅装馬具「花形鏡板」を出土している。
  豊橋市内に古墳は739基あるとされているが、この権現山から石巻山を中心として、この辺りに古墳が集中している。

 


2 後期古墳で、葺石で覆われているのは異例であり、また、この地域の古墳からは古墳時代の権威の象徴である金銅装馬具が多く見られることから、この地域の王クラスの古墳の築造が3世紀末から7世紀まで続いていることを推測させる。


3 大塚南古墳は直径約20メートルの円墳で、墳丘は2段に築かれ、各段には葺石が置かれている。墳丘が多段でかつ葺石を使っていることについては、隣接する馬越長火塚古墳との関係を感じさせる。築造年代は6世紀後半の馬越長火塚古墳に続く、7世紀はじめごろとみられることから、馬越長火塚の後継者の墓と考えられる。


4 花を形どった花形鏡板・杏葉は、全国で50個ほどが見つかっているが、北部九州や関東に集中し、近畿地方周辺では発掘例が少ない。

 静岡県に7例あるものの、岐阜県や三重県では出土していない。近畿との関連性より、この同じ金銅装馬具を出土する北部九州や関東との結びつきが強いと考えられる。


5 東三河地域は古くから「穂国(ほのくに)」と呼ばれており、馬越長火塚古墳は、大宝律令以前に豊橋市北部を中心とする東三河地域に存在した「穂国(ほのくに)」の歴代の王の中でも特に突出した王の古墳と考えられる。

 

<花形鏡板>
 鏡板とは馬を制御するために口に取り付けた馬具で、花形鏡板は縁が花びらのようにかたどられ、数個の穴が開いているのが特徴です。
 鉄に銅板を張り合わせた上に金メッキが施されている金銅装馬具の轡(くつわ)の両側にはめ込まれていたものである。

 花形鏡板は 中国大陸や朝鮮半島では発見されておらず、日本独自のものと考えられる。
 定説では大和朝廷の工房で作られ、地方の有力者に贈られたとされるが、ヤマトに工房跡がある訳でもなく、配布したという確かな根拠はない。

 

 

 


   出土した金銅装馬具の「花形鏡板」
     (豊橋市石巻本町 大塚南古墳)

<新聞記事>
6 平成20年5月2日の東愛知新聞によれば、同月1日に石巻本町の大塚南古墳から出土した金銅装馬具「花形鏡板」について、豊橋市美術博物館の岩原剛 学芸員は次の見解を述べている。
                                                                   
 「東三河が大和王権の直接支配を離れた境界にあたり東国を治める要衝の地だったのではないか」と見て、その理由を次のように推測する。
  「金銅装馬具は、大和王権が、功績をたたえるために与えた、あるいは階級を表すものとして与えたなど諸説あるが、畿内で極端に出土例が少ないことは、階級や位そのものだけで満足しない地方、外様の豪族にキラキラしたもので喜ばせ使ったのでは。東三河の豪族も、歯向かわないようになだめることが必要な地だったと思われる」

                                

  また、豊橋市教育委員会では、馬越長火塚古墳について次のとおり、豊橋市美術博物館の学芸員と同様に畿内の影響から離れているとの認識に立つ発言である。
                                                                  
「葺石は同時期の古墳では県内に例がない。後円墳のすそを階段状に整形するなど極めて特異であり、畿内の影響を離れた、6世紀の首長墳だ。 」

7  6の新聞記事にあった岩原剛 学芸員の見解について、穂の国が畿内の配下にはないという考えに間違いがないか問い合わせたところ、実は新聞記事は本人の見解と異なることが書かれてあるとして次のように述べられた。
 

  岩原学芸員は、東三河・穂の国はヤマト王朝の支配下にあったことを前提にしており、ヤマトとの関わりが深い人物の墓であるものの、ただ王権との関係が未熟であるため、モノを介した「前時代的」な関係が存在するとの意見である。

 つまり、ヤマトの王権の配下にありながら不安感、懸案の地であるとの意識から、こうした地域との関係を深めるための政策的な目的が、金銅装飾品の配布へとつながっているとされる。

 

8 私見としては、東三河の「穂の国」に3世紀から7世紀まで連綿と続く古墳群があるとともに、馬越長火塚古墳や大塚南古墳など、後期古墳でたいへん珍しく、葺石が施されており、さらに馬越長火塚古墳では円部がドーム型で方部が長い極めて特異な古墳に発展していることなどを踏まえると、地域性が高い。   

 

9 図らずも東愛知新聞の記事は、私の考えとニュアンスが同じで、「穂の国」は畿内の影響は希薄で、穂の国の王のもとに独立していたと考える。

 畿内が金銅装飾品を配布していたなどという根拠は全くない。むしろ沖ノ島祭祀など九州との結びつきが大きい。

 

 いずれにしても「穂の国」が畿内の配下にあったとする学芸員の発言と新聞記事の内容は根本的なところが違う。
 

10 豊橋市の学芸員の立場からは、東三河「穂の国」の王はヤマトと主従関係にある地方の豪族であるとの位置づけとなるが、これに対して多元的史観の観点から見れば、馬越長火塚古墳に眠る王は、この地域の集大成とも言える独自性を堅持していると考える。
  

11 実際に、安曇野においては、8世紀末においても畿内から独立したと考えられる大王の例がある。

 安曇野の八面大王は、8世紀末の桓武(かんむ)天皇の時代に田村麻呂が討伐したと書紀に記述されるが、安曇野の地元では、6世紀から7世紀にこの地域を守る大王として称えられ、後代まで伝えられている。

 大王と呼ばれる人物は畿内でもほとんどいないほど独立性が高い人物を示している。

 この八面大王は、“大王”と呼ばれていたことに注目したい。            以上                        

 

 

以下、関連写真の紹介です。

 

 

前方後円墳の円部と説明看板

前方後円墳はヤマトの許可で作られたとする学説は間違いだと考える。

古墳形状は、倭人の共通した埋葬文化であってヤマトによる統治の表れではないでしょう。

 

 

これらの金銅装馬具は、実際に馬越長火塚古墳の埋葬者が、権力者の証として、馬に付けて飾り立てていたものであると考える。

何でもヤマト中心でヤマトから配布されたと考える学説は古い。

もし、配布されたものであるとすれば、結びつきが強い北部九州や関東からと思われる。

 

横穴式石室の入り口

 

 

前室

 

 

後室

 

前方部から後円部を見る

 

前方部には大きな窪みがありました。

 

私が周溝ではないかと考える地形