10年ほど前、完全歩合の営業の仕事をバリバリしていた時、結構人が周りにたくさんいました。

ある時から一瞬で周りから人がいなくなり、そしてずっと一人でやってきながら、ここ5年はワイナリーを作るためにワイン業界、自然栽培業界を中心にして、これまでにないたくさんのご縁が拡がってきました。


さて、

「合わない人からは離れればいい」というお話をよく聞きます。

いわゆる「人の断捨離」ですが・・・、

自分がこれを一時期意識したり、あるいは、それにこだわったりしている”一般”の人を見ていて思うのですが、あまり幸せな感じではないのです。
むしろ悩みが深くなっている感じだったり。

なぜかなぁ、と思っていましたが、気づきました。


まず大前提として、他人は必要です。
一人では生きていけない。

で、幸せな精神状態で生きるためには”自尊心”が大きなキーワード、というかセンターピンだと思いますが、その自尊心はどこからくるのか。

自分の中から湧き上がる自尊心。
周りとの関係性から得られる自尊心。

この2つ。


それはどちらか一方ではなく。
それは表と裏のように、密接に関係しているのだと思います。

ホモサピエンスは社会を作ることで生き延びてきたわけで、遺伝子レベルで組み込まれているものなのだと思います。


ということで、結論としては、周りとの関係性が一つ切れると、例えば自尊心ポイントが1ポイント減るわけです。
幸せ感が1ポイント減る。
それを埋めるためには、新しく他者との関係性を作るか、既存の人との繋がりを深くするか、自分の中の揺るぎないものを1ポイント作るか。



すなわち、たくさんの人と出会える状況にある人、もしくは出会う努力をする(機会をできるだけ作る)のでなければ、断捨離していくとどんどん周りとの関係性がなくなり、力が失われやすくなるわけです。

関係性がなくても大丈夫、という場合、よほど強い心が必要なのだと思います。


よく、「人は断捨離しましょう」「合わない人とは離れれば良いよ」という言葉を耳にするけれども、それを言っている人は、だいたい、人に囲まれている人。
断捨離しても、いくらでも他に人がいるわけです。
そういう状況になる天性のカリスマや可愛らしさがあったり、そうなる努力を続けた人だったり。


だからそういう助言を真に受けず、では私みたいに普通の人間はどうすれば良いのか。

・人との関係性がなくても自尊心を維持できる修行を積む。
・合わない人を切りたい場合はそれと同じくらい人とのご縁をいただく機会を作る。

・既存の合う人との関係性を一段深くする。
・合わない人をそのまま受け入れられるだけの度量を自分で育てていく。


このどれかなのでしょう。

今日の夕方くらいに、たまたま農家的に興味をそそられる話がTVで流れていました。

『雷でしいたけが大きくなる』

 

とのこと(笑)。

昔からの言い伝えとして、「雷が落ちたところはきのこが大きく育つ」というのがあるそう。
それを実験で実証してみた、という内容でした。
なぜそうなるかはまだわからかいようで、でもとりあえずそういう因果関係はある、ということは実証できたようです。


これ!
この言い伝え、というのを、僕はもっとたくさん知りたいのです。

人類は何千年くらいか前から農業をやっているわけで、きっと、それに携わったそれぞれの時代の全ての人に、独自の経験とそれに基づいた知恵があると思うのです。それは自然とはなにか。「風が吹けば桶屋が儲かる」論理の解明。バタフライ効果。
それはもう膨大な膨大な知見が生まれているはずで、しかし、おそらくほとんどは、他の人に伝わらずに天国に持っていかれてしまったのだと思っています。なんともったいないことか。

その中で、うまいこと伝わったのが、言い伝え。


人間が記憶を全て覚えていたら脳みそパンクしてしまうので、忘れるようにできている、という現象と同じく、忘れられるのも大切な機能なのかもしれませんが。

 

 

 

ところで、人類の進化の過程と、その果てになにがあるのかを考えたことがあります。
 
~~~ 
 
人類の進化のステップ1は、「宇宙を知ること」。
つまり「風が吹けば桶屋が儲かる」場合、

風が吹く→土埃が立つ→埃が目に入る→・・・→・・・ネズミが桶をかじる→桶の需要が増えて→桶屋が儲かる

の全ての論理展開を解明できること。


そして進化のステップ2は、「宇宙を再現すること」。

その果てに、宇宙とイコールになった時に、人類(というか宇宙内の存在)の進化が終了。
(もしかしたら宇宙の子として、次は親を越えるというステップがあるかもしれませんが(笑))

 
~~~ 

 
思考の格闘(妄想)の末にこういう結論にたどり着いたんですが、

過去、全ての農業に携わる人が得たその知見(農業じゃなくても、自然の法則)をもっともっと共有できたら、人類はものすごい進化を加速できるんじゃないかと。


以前、人類とはどんな存在なのか、こんな役割を持っている、ということを『本とうんこ』というタイトルでブログに書きましたが(笑)、人類が情報を出力する(そして共有する)というのは、動物がうんこを出力する(それが還流していく)、ということと同じくらい大切なことだと思っています。
 
 
 
ということで、どなたか、この世界中の地域で伝わるこういう言い伝え(農業版)を、世界中で取材してまとめて本にしてくれないかな~。

そういう本って知りませんか?
辞書みたいに超厚くて、5万円したって、欲しいです。

 

(水野敬也さんなら、やってくれそう)

去年の6月からフェイスブック連投をはじめました。

 

2020年にワイナリーを設立するために日々走っており、それに合わせて、主にワインぶどうの自然栽培周りや、ワイナリー事業に関わる価値観についてを記述していますが、このアメブロに書くような濃い内容も少し投稿しています。

このアメブロの濃さの三分の一くらい(笑)。

あんまり深堀りすると、友人知人が引くので(笑)。

 

ということで、出力欲をフェイスブックでだいたい満たしているのでなかなかこちらには書くまでの時間を取れません。

 

ただ、思考の深堀りをしたいネタは日々山のように積もっており、そのためにこのブログの活用は続けたいので、やめることはないですので、読んでいる人がいる気がしませんが(笑)、引き続きよろしくお願いします!

 


7月:87km/84km        7月27日昼
8月:85km/84km        8月30日昼
9月:84km/84km        9月30日昼
10月:88km/84km        10月30日昼
11月:84km/84km        11月30日昼
12月:87km/84km        12月31日昼
1月:89km/84km        1月31日昼
2月:94km/84km        2月28日昼
3月:89km/84km        3月31日昼
4月:129km/84km        4月30日昼
5月:124km/84km        5月31日昼

2018年:1150km/1000km
2019年:533km/1000km
総計:8075/10000km(2012年~2021年末まで)

今僕は長野に住みながら、関東甲信を行ったり来たりしながら日々生きている。
そんな中、時々首都高速を車で通るとしみじみ思う。
日本の中心に来た、と。
日本という身体の血液が超集中する最重要部分。
日本の心臓部。例えば皇居周辺。永田町、霞が関、赤坂等。


さて、以前、田村耕太郎さんという人の本やメルマガを読んでいた時、世界の動きを色々と勉強させていただいた。

世界には、グローバルな世界を縦横に駆け巡りながら、世界を動かす人々がいる。
シリコンバレー、ニューヨーク、世界の知の最先端を走る頭の良い、タフな人々がしのぎを削る。
そこにいる人達は、世界一激しい濁流の中を激しく生きているのだろうと思う。

そして、そういうところにいる人達が、世界を引っ張っているのだろうか、とずっと思っていたが・・・。


世界の金融の中心はニューヨーク。
日本だと、政治の中心は永田町、官僚機構の中心は霞が関。
確かにそうだ。

しかし・・・、世界はそれだけじゃない。いろんな業界がある。
では、農業の中心は?
テニス界の中心は?


超一流大学を出て世界に大きな影響を与える人。
確かにそれは限られたトップの人たちが影響力を持ち、その業界を動かしているんだろう。

しかし、例えば自然農という業界に大きな影響力を持つ人もいる。
テニス業界で大きな影響力を持つ人もいる。

日本テニス業界では、例えば錦織圭選手、大坂なおみ選手。

彼らは、テニス業界の中で、登りつめれば上り詰めるほど濁流が激しくなり、幾何級数的にその激しさが増し、その濁流を制したものが世界一になるのだろう。

しかし・・・、
テニスをしていない僕にとっては、その濁流は関係ないのだ。
テニス界の最傍流である僕にとっては。
ベイビーステップを全巻持っているくらいテニスは好きなので、最傍流ではないかも(笑)。


政治や行政の世界、あるいは金融の世界は、一般の人たちに対する強力な力を持っており、大きく影響を受けることになるので、中心と辺境、という位置関係はあるかもしれないが、それでも、限りなくその影響を排した生き方を自ら選択することもできる。


結局、それぞれの世界があり、確かに中心と辺境があり、では自分はどこにいたいのかを選択するだけなのだ。

結論。

僕がこの目で見、感じ、生きるこの世界は、他の人には申し訳ないけれども、僕の世界であり、僕の世界の最先端は、僕しかいない。

よく、「苦労は買ってでもしろ」といわれるくらい、苦労はその後の将来を大きく左右する、素晴らしい経験になることは多くの人が実感していることだと思います。

そんな中で、最近は、「わざわざ苦労する必要はない」という意見も大きくなってきました。
これは、苦労を否定しているのではなく、苦労が目的となってしまったり、する必要のない苦労に突入して人生が逆に苦しくなってしまうことに対する警鈴だと思いますが。

では、苦労は、是か非か。


ところで、ほとんどの人は挫折したり苦労したりします。

なぜなんでしょう。

それは、人やモノへの有り難みに気づけていない時に起こります。
気づいているものもあると思います。
しかし忘れてしまっているものもある。
その気づけていない”それ”への有り難みについて、気づいていないので、粗末に扱う。つまり”それ”に対して傲慢になる。すると、”それ”からしっぺ返しが来て、自分の取り組みが前に進まなくなる。どん底に落ち込む。
すなわち、”それ”に対する感謝が足りない時、”それ”が「気づきなさいよ」というメッセージを携えて苦労を起こすわけです。

そして苦労するとどうなるか。
”それ”の有り難みにそこで気づき、「大切にしなきゃ」と改めて思うわけです。
有り難みに気づいてもらった”それ”は、安心して、メッセージとして苦労を投げ込むことはしなくなる。

しかし、人間は愚かなもので、まず、気づいていないところから始まる。

そして、ある時気づく、しかし、忘れる。
無い時にあんなに苦労し、有ることへの感謝を骨の髄まで刻み込んだはずなのに、有る状態に慣れると徐々にまた傲慢になってしまう。
傲慢になると、”それ”がまたムクリと起き上がり、苦労を投げ込む。傲慢になるなよと。
人間は、ずっとそんなことを繰り返しているような気もします。


さて、ではどうすれば良いのか。
苦労するのは感謝を知るためであり、感謝さえきちんと知っていれば、その必要はないわけです。
で、一番参考になるのが、鍵山秀三郎さんの、

『掃除道(トイレ掃除、ゴミ拾い)』

『下座行』

『凡事徹底』

下座行とは、常に最下層にいることで謙虚さを鍛えること。
トイレ掃除は、人間の”しも”を預かる場の掃除。
そしてそれらを日々、凡事徹底して修練する。


誰よりも常に謙虚に生きる。
これは、本当に強くなければできないことです。
心の奥底に、誰に見られるでもない、確固たる自尊心がなければできません。

これらを習い性として日々修練する。
ふと傲慢になる瞬間を自覚して、すぐに修正する。
そうやって、一生をかけて磨き上げていく過程で、全てのものに対する感謝を培うことができるのだと思います。

感謝とは、”それ”を大切に扱うこと。
大切に扱われた”それ”が、大切に扱ってくれる人を粗末に扱うはずがありません。
感謝している限り、突発事故を例外として、周りはその人に苦労はさせないはずです。



元々は、自分は何も持っていなかった。
この世に生まれてすらいなかった。

その究極の下座行の意識を常に持って、あらゆるものに感謝して生きたいと思います。

地元には一箇所だけ太陽光発電の畑?があります。
6つに分散している僕のぶどう畑の一つの畑(試験畑にしています)の隣にありますが、砂利が敷かれ、夏は除草剤で草が生えないようにしていて、僕の自然栽培畑とは全く対照的(笑)。

僕は太陽光発電自体は人類が化石燃料から卒業するために必須な技術だと思っているので大賛成ですが、畑や山を使ってそれをやるのはちょっと反対です。
ただ、日本の経済発展を抑制したいイデオロギー的政治運動に利用されてしまっている反対運動は、ドロっとした怨嗟が入っている場合が多く嫌いで、いずれ、核融合(核分裂でなく)と合わせて、星のエネルギーを活用して進化していくであろう人類が、今後宇宙にブレイクスルーしていく過渡期だと思っていて許容はしています。

※先日、喜多方に行った時、太陽光発電の下にワインぶどうを植えていて、これはおもしろい!と思います(笑)。

なぜ畑や山を使ってそれをやるのに反対かというと、このやり方は自分が良ければそれでいい”部分最適”だからです。
自然はいつも全体最適。三方良しです。自分良し、相手良し、世間良し。

例えば山の一部分を見てみると、太陽の光を木が浴びて、木が育ち(自分良し)、それと共生する生き物がいて(相手良し)、そして酸素供給も含めて全体の調和と連動している(世間良し)。太陽の光が全体の利益に波及しています。

しかし、山や畑の太陽光発電は、降り注ぐ太陽エネルギーの利益を、発電施設を置いた人だけが享受する仕組みです。百歩譲ってその享受した人が回り回って社会貢献するのであれば広義の三方良しになるかもしれませんが、うちの隣の太陽光発電畑は、土は死んでいます。全体を見ると、効率が悪すぎる。

もうちょっと人類が”我”をコントロールできるようになっていけば、人類はより良い進化に進んでいけるのかな?

農法についてもそんな思いがあります。
自然栽培は、自分だけが良ければそれで良い、というところから卒業し、自分以外の畑の生き物達、自分の次にその土地を使う後世の人たちのことも考えた農法です。
自然栽培は、三方良し。
時間的空間的に広い視野で見れば太陽のエネルギーを最も生かし切れるあり方。

全員が無肥料無農薬でやれば、僕の地元の井戸水も、いずれ昔のように飲めるようになるはずです。

部分最適が成り立っているように見えるのは、それを見えないところで補っている存在があるから。農業で言えば、自然という大きな存在が、全てを受け止めてくれているから、多少のおイタ(部分最適)をしてもやっていけているだけ。
親と子のようなものかもしれません。

農業だけでなく、
見えないけれども助けてくれる存在に感謝しながら、少しでもそういう存在に迷惑をかけず、できれば力になれるような生き方をしていきたい、と思っています。

 

◆◆◆◆◆ 
7月:87km/84km 7月27日昼 
8月:84km/84km 8月30日昼 
9月:84km/84km 9月30日昼 
10月:84km/84km 10月30日昼 
11月:84km/84km 11月30日昼 

私は、お風呂に入った時、もっとキレイにして出るようにしています。
食器を洗う時、ついでに周囲をもっと綺麗にしたり整理したりしておきます。

トイレ掃除、ゴミ拾い。

心の師の一人、イエローハット創業者の鍵山秀三郎さんの『凡事徹底』の教えの実践です。


さて・・・。
自分が生きることも含めて社会で生きていく時、こんなキーワードがあります。

『自助、共助、公助』

自助:自分のことはまずは自分でなんとかする努力をする。
共助:その上で自分や人の足りないところを共に助け合う。
公助:もっと大きな力がないと出来ないことは皆で作り上げた公という大きな環境で解決する。



ところで、
例えば、全ての人が農業だけをして生きるとしたらどうなるか。
それは素敵なことだけれども、そのままだと人類は滅亡します。

なぜか。
数千万~数億年のスパンで、地球に隕石が落下したり大異変が起きたり、あるいは50億年後には太陽自体が死ぬので、人類は地球にはいられなくなるからです。
その時に、宇宙に進出していなければ人類は滅亡するわけです。
それはそういう運命だから、、、というのは、たまたまその時期に滅亡にさらされて苦しむ子孫達の恨みを買うことになります。「なんで移住先の星見つけといてくれなかったの・・・!」と。


人類が滅亡したらどうなるか。
宇宙がせっかく50億年費やして育んだ 地球上のおもしろい有機生命体の一派である人類。

例えば自分の庭に、いろんな種を撒いて、そして色んな花が咲いて。
その中の一つの、芽がでなかったり、せっかく咲いた花が枯れてしまったら、残念だと思います。

宇宙もきっと、育んだ種(しゅ)の一派が死に絶えてしまったら残念だろうと思います。
だから宇宙は、人類がどんな悪ガキであれ、宇宙の子である人類の存続を望んでいるはずです。
きっとそこには愛がある。


となると、人類は存続のために宇宙に出る必要があり、そのためには人とお金と科学技術を結集させつつ、あらゆる分野の仕事をそれぞれ発展させる必要があるのです。
即ち、富の集中と取り組みの多様性。


一人のレベルでできることもあれば、二人いなければできないこともあります。
複数人必要なこともあれば、10万人が必要なこともあります。
もしかしたら1000万人必要なこともあるかもしれないし、あるいは人類全て、100億人の数とその連携によって、はじめて人類は宇宙に進出できるのかもしれません。そのための蓄積として、人類の数をここまで増やしているのかも・・・。
そして人類が宇宙に進出する時、きっとそのノアの方舟に、地球上のできるだけ多くの種(しゅ)を一緒に宇宙に持っていくのだと思います。他の種(しゅ)も助ける。それは人類にしかできないこと。


即ち、あらゆるレベルでの富の集中は必要なのです。
(富とは、お金であったり、人の有機的な繋がりであったり、いろんな形があると思います。)

ただしその時、倫理的に大切なことは、その富の集中を個人レベルの貧富の格差にしてしまうか、”みんなで使えるいろんな規模の財布”としての富の集中にするかなのだろうと思います。

システムとして、不公正や歪みを是正し、共助、公助としての財布をみんなで作っていく。それが人類がよりよく進化していく環境作りとして必要なことなのだろうと思います。



まず自助。
そしてその先の共助も公助として、今できるほんの少しの目の前のことをする。

例えば、
ゴミを落とさないのは言うまでもなく、見つけたゴミは拾う。
使ったトイレは自分が使う前よりちょっとキレイにして出る。
玄関のクツは脱いだら揃える。
目の前の人がほんの少しでも良い気持ちを持てるようにちょっとの笑顔と気遣いをする。


『風が吹けば桶屋が儲かる』的に、この日々の基本単位が地球全体で集積していってはじめて・・・、人類は滅亡から逃れ、より良い進化を未来に繋げていけるのだろうと思います。

今ふと行っている、誰も見ていない自分の行為が、人類全体、そして宇宙全体の想いと繋がっている。

そんな思いで、ゴミを拾っています。

私は古物鑑定士をしていまして、人がいらないものを買取り、欲しい人に売る、という仕事をしています。

死蔵されているモノを社会に還元し生かす仕事。
で、このご時世で使いやすいキーワードとして『断捨離』がありまして、お客さんもこの言葉をよく発します。

まさに私の仕事は、モノの断捨離をお手伝いする仕事でもあり、大いに断捨離を薦めるんですが・・・。

しかし、昨今、色んなところでこんなフレーズを聞きます。

「合わない人は切りましょう。」
「嫌いな人は嫌いでいい。」
「人間関係も時々断捨離しましょう。」


しかし、どうもずっと個人的に違和感があって、まあ確かに商売の効率化とかには必要かな?と思わないでもないけれども、”自分にとっては”何かが違う。
何かこう、人の尊厳を無視している感じがする。
全ての人に、全ての存在に価値があるんじゃなかろうか。


例えば、ある人が、「人の良いところを見るようにしましょう」と言っていました。いわゆる美点凝視。
でもその一方で、「合う人とだけ付き合えばいいんだよ」とも言っていました。

しかし、合う人とだけ付き合うということは、即ち合わない人とは付き合わないということで、合わないのはなぜかというと、その人に嫌いな部分があるということ。もちろん人には必ず相性があるので、合う合わないを感じるのは普通なことだけれども。
しかし人には良いところと悪いところがあるのが当たり前で、人を嫌うということは、その人の嫌いな部分を見るということ。
それはつまり美点凝視ではなく、欠点凝視。矛盾している。

例えば商売上の目標があり、あるいはその時の心の状態から、過程として、上のような断捨離を経ることも時には必要なのかもしれません。あるいは好き嫌いをはっきりすることで、好き同士が集まりやすくなり、その範囲内に限ってはだいたいみんなハッピー、という側面もあるかもしれません。

 

あくまで、自分だったらというお話であり、人の価値観を否定する話ではないですし、あるいは徹頭徹尾、美点を凝視せよとは言わず、そして合わない人とは会わないで生きるとしたら、むしろ首尾一貫、潔くて良いとも思います(笑)。

 


で、ある時、私が尊敬する心の師の一人、竹田和平さんのこんな言葉を見ました。

「あんまり人を嫌わない方がいいよ。」

そうだよね!と思いました。我が意を得たり!と。
思えば、竹田和平さんが人を嫌っている姿というのを、全く想像できません。
たぶんこの方は、どうしても人の良いところを見てしまう人だったに違いない。愛の人。

もちろんそうあるように努力されていたのかもしれませんが。

そして、私が尊敬する6トップの心の師。

西郷隆盛
勝海舟
竹田和平さん
斎藤一人さん
鍵山秀三郎さん
福島正伸さん

この方々の本をたくさん持っていますが、誰一人として、人の断捨離を薦める人はいません。
(100%全てを知っているわけではないですが)

そして私の、本としての師、座右の書『7つの習慣』。
この中にも、どこにも、”人を切る”、”人を嫌う”、”人間関係を断捨離する”という方向性のことは全く書いてありません。

むしろ彼ら師は全て、

”人を許す”、”人を受け入れる”、”人に感謝する”・・・そしてどんな対象に対してもそれらを実現するために自らの人間性を高める、心を成長させることに注力して生きる、ということを自ら修練し、そして切々と説いているように感じます。
それが最高の幸せへの道だと。

今、私も彼ら師を信じてそういう生き方を日々意識して生きるようにしていますが、神ならぬ人間なので日々一進一退ではあるけれど、私自身実際に、ほんのここ3年間でも、人生に対する納得感、満足感、そして幸せ感がびっくりするほど増しています。やっぱり心がすっきりする生き方がいい。

今だってよっぽど幸せに感謝しきりですが、これからもさらに幸せが増していって、しまいには毎日鼻血が出そうなくらいになるんだろうかと考えると、もうワクワクして大変です。

 

 

天才プレイヤーは、良い指導者になれない、というお話がある。

天才は、できてしまうから、なぜできるのか教えにくい。
そして難なくできてしまっていることは無意識なので、それが大成するための必要条件の一つだ、と通常は意識できない。


僕の友人に、「自分のために生きれば良い」という人がいて、でもその人の言動を見ると、きちんと利他になっている。

例えばその人は、声を荒げない。いつも穏やかな笑顔をたたえている。
人の話を傾聴する姿勢をいつも持っている。目の前の人の尊厳をきちんと認めている。等など。

何もボランティアをするとか、寄付をするとかだけが利他ではない。
人の目を見て話す。お礼の感謝をきちんと言う。人の話をきちんと聴く。笑顔でいる。

それも、というかそういう普段の言動にこそ、利他の姿勢が現れている。
利他、貢献、奉仕。

福島正伸さんは「笑顔は社会貢献」と言ったけれども、まさにその通り。

本当に自分のためだけに生き、他者を粗末に扱ったら、人は離れていくだけなので、「自分のために生きれば良い」という利他の天才の言うことは聞かない方がいい、と僕は思っています(笑)。

最近、ほぼ毎日Facebookに投稿しており、案外このブログで書くようなマニアックな話も投稿してしまっており、アメブロどうしようか、とちょっと思いました。
が、でも、こちらは自分の考えのコレクション、という感じで引き続きコレクションを増やしていきたいし、今までのこのアメブロでの投稿と思考の土台のおかげで今のFBでの投稿ができる感じなので、引き続きFBに載せられないレベルの濃い内容を書こうかな、という状況です。Facebookは長い文章書けないですし。(でも普通よりかなり長い(笑))



さて、今私は自然栽培でワインぶどうを作っているんですが、すると自然栽培やワイン業界の繋がりが増えてきます。
元々IT系の会社に勤めていて、それを辞めてゴリゴリの完全歩合の営業の世界を経て、今は自営で古物鑑定士を行いながら、畑をやっています。これからはワイナリーの経営へ。

全て、それぞれまるで異世界で、よくまあやるよ、と我ながら思いますが、新しい世界に入って、面白いなぁと思うんですが、それぞれの世界はかなり異なる世界観があり、価値観(良いとされるあり方)が結構違っていたりします。
例えば、ゴリゴリの営業の世界では、結果が全てでそのために努力や頑張りが大いに推奨される世界です。そこで超努力をし頑張りそして結果を出すと、大きな力を手に入れることになります。



さて、人が幸せなり何なりを手に入れるためには何が必要なのでしょうか。

結論。

【信頼のおける人の繋がり】

が必要です。これ、必要十分条件ではないでしょうか。つまり自分の力になってくれる人。
この地球上で、世界で、今自分が欲しいと思っているあらゆるもの(モノ、キモチも全て)を得るためには、直接間接に自分以外の人の存在が必須になります。
では、それを手に入れるために必要なものは何でしょうか。

結論。

【信頼残高】

です。(色々端折ってすみません)

私の座右の書『7つの習慣』は本当にすごいなぁとつくづく思いますが、あらゆる事象の根本をたどっていくと、必ず7つの習慣の【原則】にぶち当たります。
この【信頼残高】も、7つの習慣の最も大事な考え方の一つです。日々の生活の中で、いかに信頼残高を積み上げていくか。
さて、ではどうすれば信頼残高を積み上げることができるんでしょうか。

結論。笑

【原則】に基づいて生きれば良いわけです。

【原則】とは、

『時間を超えて不変であり異論を挟む余地のない、普遍的で絶対的な法則』

と説明されています、7つの習慣は、その【原則】を抽出し羅列した本、とも言えます。例えば単語で抽出してみると、

『公正、正義、誠実、正直、人間の尊厳、勇気、謙虚、奉仕、貢献、美徳、可能性、忍耐、励まし』等。

これらに基づいて生きれば、信頼残高が蓄積されます。異論はないと思います。”自明”です。細かく説明すると長くなってしまうので揚げ足は認めません笑。



さて、うまくいっているあらゆる人の繋がりでは、必ずこれら【原則】が土台にあるわけですが、では具体的にどうやったら信頼残高が積み上がるのでしょうか。ようやく本題です。

自分が物理的、精神的、あるいは直接、間接に関わるあらゆる人のつながり(コミュニティとします)。自分が何かを得るためにはコミュニティからの応援が必要になります。そして応援してくれるということは、信頼残高が蓄積されているということです。
応援と言っても、労力やお金等で具体的に支援してくれる人だけでなく、見守ってくれる人、声援を送ってくれる人、味方になってくれる人…。どんな形であれ、大なり小なり自分の力になってくれる人。
では自分がどうしたら信頼残高が積み上がるんでしょうか。

それが、そのコミュニティの価値観です。そのコミュニティで良いとされていること。
例えば、そのコミュニティが、営業成績を重視するのであれば成績。
努力や頑張りを重視するのであればそれ。
自分らしく生きる、ゆるく生きる、利他の行動、お金を持っている、人の繋がりが多い、等など。その業界での実力があるというのはよくあるパターンです。
そのコミュニティのリーダーの価値観というのが一番大きいと思いますが、自然発生した共通認識の場合もあるし、実利の場合もあるし、いずれにしても、そのコミュニティ内で、どういうことをしたら「素晴らしいなぁ」と感じてもらえるか、それが価値観です。



ということで最後の結論。

いずれにしても、上記の【原則】が土台にないと短期で一見うまくいっても、長期ではいずれうまくいかなくなりますが、その土台の上で、それぞれのコミュニティで「それって良いよね」ということをしていれば信頼残高が貯まり、人の”応援”が得られ、得たい結果を得られる、というわけです。

なので、それが努力や頑張りの時もあれば、正反対の時もある。
自分がどのコミュニティ(繋がり)が心地よいのか、自分の魂の叫びだけは聴き間違わないようにして、そういう繋がりに入ったり自分で作ったりして、その繋がりの価値観に合わせていけば良いのだと思います。

 

 

 

◆◆◆◆◆
3月:98km/84km        3月31日昼
4月:84km/84km        4月30日昼
5月:84km/84km        5月31日昼
6月:92km/84km        6月30日昼
7月:10km/84km        7月4日昼

2018年:553km/1000km
総計:7045/10000km(2012年~2021年末まで)