ねこまねき
夏の季節を感じさせてくれる野菜の一つに「茗荷(みょうが)」がある。
ぴりっとしたさわやかな刺激、歯ごたえのある食感。そうめんの薬味に、冷奴に、茄子と共に味噌汁にしても夏らしくてとてもおいしい。
お芝居には主役を演じる俳優と脇役の俳優がいて、どちらも必要なんだと思うが、野菜にも主役になれる食材と、脇役専門の食材があるとすれば、茗荷は「ナイス脇役」だと思う。
ところで茗荷を食べるといつも思い出すことがある。
子どもの頃に育った家は、昭和三三年に父が当時二〇万円で買ったという昭和の初めに建てられた、台所におくどさんがある小さな家だった。その裏にこれまた小さな、猫の額ほどの空き地があり、起伏をつくって京阪電車の線路の土手に続いていた。
私は今も昔も草がちょっと生えてるような空き地が大好きで、小さいときはここにゴザを敷き、犬を相手にママゴトをして何時間も機嫌よく過ごしたり、父がつくってくれた鉄棒にぶら下がって、京阪電車に乗っている通勤帰りの人や、夕焼けで色が変わっていく雲などを飽きずに毎日にように見ていた。
ある日の夕方、いつものようにこの家の裏の空き地に出て来た私は、土手に見慣れない妙な草を発見した。昨日はなかったのに、あちこちに大きな緑色の双葉を広げた草が生えている…。確かに昨日まではなかった。すると一晩でこれだけ伸びたのだろうか?
…もしかして、魔法…か?
魔法の草ならば、もしかするとそれを手にすれば願い事が叶うとか、不思議なことが起こるかもしれない。私はその見かけない草を全部抜いて回った。草はあちこちに全部で5~6本あり、根は柔らかく、簡単に引き抜くことができた。
束ねて、振り回してみた。
少しかわった匂いがした。何か効き目がありそうな気がした。
…何も起こらない。
なんとなく勝手な呪文などを唱えてみた。魔女になれますように、などの願いごともつぶやいてみた。
…不思議なことは何も起こらなかった。
なんだ、やっぱりただの雑草か……と照れ隠しに笑いを浮かべているところに、父が帰って来た。
私の手に草が握られているのを見ると、
「あれ! あんた、それ、抜いたんか!」
と言った。
「うん。昨日はなかったんで。一日でこんなに大きくなったんやで」
「それは、お父ちゃんが昨日、わざわざ植えといたんやがな!」
それは父が植えた茗荷の苗だったのだ。
私は、
「わ~ やってしもたー」
怒られる~! と覚悟した。
しかし、予想に反して父は怒らなかった。そして興奮していた声のトーンを落として静かに言った。
「いや…仕方ないな。あんたのことを怒るのはまちごうてるな。ここに茗荷を植えといたで、と言わんかったお父ちゃんが悪いな。あんたにはわかるわけがないもんな。あんたを責めるのはまちごうてるな」
と言うと、その後、がっくりとした。
そのとき、私は、その後何度か経験することになる「人生の真理」のようなものの発見の、栄えある第一回目の体験をすることになった。
つまり、それまで子どもの私の理解では、「悪いことを」とは「親や先生に怒られること」だった。両者は同義語であり、ニアリーイコールだった。子どもが大人から怒られるのは、子どもが悪いことをしたからであり、「悪いこと」とは怒られることだった。
この場合、父が怒らなかった、ということは、私のしたことは「悪いこと」ではなかったのか? それは違う。誰に怒られなくても、叱られなくても、人として許されない行為は存在する。
それは、人を悲しませたり、楽しみを奪ったり、がっかりさせたりすることだった。
父は怒らなかったけど、私は確かに父に「悪いこと」した。
そのとき、怒らなかった父を見て、そのことをはっきりと悟った。
毎年、茗荷を食べると、茗荷が好きだった父のことを思い出す。そんなときは茗荷がなにかしら「人生の真理の味」に思えてくるのだった。
父の「裏の土手・茗荷植え付けプロジェクト」がその後、成功したのかどうかは知らない。