鏡山 次郎
●山科本願寺の繁栄
こうして、山科本願寺は繁栄していきます。寺域(てらいき)は、主建築のある御本寺(ごほんじ)、坊官屋敷のある内寺内(うちじない)、門徒衆の住む外寺内(そとじない)、八町町(はっちょうちょう)からなり、その間に土塁と堀をめぐらした城郭(じょうかく)的構築でした。これを「お城」にたとえれば、「御本寺」が「本丸」、「内寺内」が「二の丸」、「外寺内」は「三の丸」か城下町に相当することになります。
それぞれ廻りは「土塁」と「堀」によって囲まれていました。音羽の光照寺に残る史料によれば、明応8年(1499)、蓮如上人が亡くなる前に輿(こし)に乗って、土塁の上に登って全体を見渡したという記録があり、ずいぶんと早い段階から土塁もつくられていたことがわかります。土塁をつくる際には、その外側に堀を掘って山科川・安祥寺川などから水を引き込み、その土を盛り上げて土塁にしています。
土塁
「外寺内」のところには、商売をする商人や手工業者の人たちがたくさん住んでいました。なぜ、このような人たちが移り住んで来たのかというと、南北1km、東西7~800mは「境内(けいだい)」です。「境内」にできた町であるというので「寺内町(じないまち)」と呼ばれます。「寺内町」は城下町の「門前町」とは違っていて、寺の「境内」というのは、世俗権力が立ち入ることができません。当時は「徳政令」と言って、借金を帳消しにする法令がありましたが、これが適応外になります。
山科本願寺では、法要のじゃまになるような大きな音を出さないなど、若干の規制はあったのですが、それ以外は比較的自由で、浄土真宗門徒以外の者でも住むことができました。そのおかげで、戦国時代に、山科に多くの人が集まって、非常に繁栄し、裕福な生活をすることができた訳です。
●山科本願寺の焼亡
ところが、その山科本願寺は、およそ50年ほど後に「焼失」してしまいます。
天文元年(1532)、戦乱に巻き込まれ、六角定頼(さだより)と法華宗徒によって焼き討ちに遭(あ)いました。これは同年、摂津・河内・和泉・大和などで農民の困窮が深刻になり、激しい一揆(天文一揆)があり、その先頭に一向宗がたったことから、これを押さえるために、細川春元らが、対立する法華宗を利用して、東西から山科本願寺を襲わせたと言われています。3000~4000人もの法華宗徒が渋谷峠から乱入、また逢坂山峠からは六角軍が乱入し、山科七郷を含め本願寺を焼き落としました。
室町時代の公家が書き残しました『二水記』という日記がありますが、その天文元年(1532)8月24日条に、本願寺が焼かれた日の記録があり、その中には、
「そもそも本願寺の者、4~5代に及び富貴なり。栄華を誇る。寺中広大無辺、荘厳ただ仏国のごとし。在家又洛中に異ならずなり。居住の者、おのおの富貴なり。家々の嗜(このみ)は随分の美麗(びれい)云々」と書かれ、また翌日には「本願寺焼け跡、今日に至るまで財宝取り尽くせず云々(うんぬん)」、また翌日には「焼け跡、今日も昨日の如し。掘り出された黄金数十枚(数百両)これ有り云々(うんぬん)」と書かれ、たいへん裕福な寺院で、繁栄していたことが記されています。
●発掘調査から国の史跡へ
平成24年(2012)9月6日、京都市埋蔵文化財研究所は、山科本願寺跡の発掘調査で、室町時代の「石風呂跡」が見つかった、と発表しました。サウナのような構造で、蓮如上人が入られた可能性もある、としています。石風呂は地面から約1m掘り下げた半地下構造で、南北6m、東西3m以上の規模で、内部を石組みで南北2室に仕切り、南側は粘土と石の天井で覆っていたとみられています。
この南側の部屋で火をたき、その後に水をまいて、蒸気で体を温める仕組みで、北側の部屋では、入浴後に汗を流すなどしていたとのことです。また、この石風呂の跡は山科本願寺の御影堂(ごえいどう)や阿弥陀堂の推定地に近接していることから、門主一族のための石風呂だったとされています。そして、このことがきっかけで、平成27年(2015)12月に「御本寺」は「国の史跡」となりました。
山科本願寺跡の発掘品の中には、以前の発掘調査から出土した「陶器」の一部で、中国から輸入されたものもあり、こういう高価なものが出ることは、京都でも皆無に近く、山科本願寺がたいへん裕福であることを実証しています。
山科本願寺自体は、こうして焼失してしまったのですが、土塁や堀などの遺構は、その後、400年近くの間、この山科で残されて行きます。
(3へ続く)