【「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」と山科】(4) | ふるさと会のブログ

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山科の魅力を山科の歴史を通じて記録しようと思います。

鏡山次郎

 現在の清水寺は、延鎮と行叡との出会いから、延暦17年(798)の堂宇建立までを、全て八坂郷の現清水寺、あるいはその周辺の地で行われたという立場を取っているので、法嚴寺とは違う見解を持っている。
 まず一般に流布されている本で、清水寺に関する年表などを見ると、次のようになる。

○宝亀9年(778)奈良・子島寺賢心(延鎮)夢告により音羽の滝を尋ね、練行中の行叡居士から霊木を授けられ、観音像を彫作、滝上の居士の旧草庵に奉祀して清水寺を草創(森清範・田辺聖子『古都巡礼 京都26 清水寺』淡交社 2008年)

○宝亀11年(780)坂上田村麻呂、音羽滝の清水に導かれて練行中の延鎮上人に帰依、夫人と共に本尊十一面観音像を安置する(前同)

○宝亀11年(780)坂上田村麻呂、妻の安産のため鹿狩りに登山し、音羽の滝の清水に導かれて滝上に止宿練行中の賢心に会い殺生の罪を諭され、妻と共に観音に帰依して仮仏殿を寄進し、十一面千手観音菩薩像を安置、清水寺を創建(加藤眞『清水寺の謎』祥伝社 2012年)

○延暦17年(798)田村麻呂、本尊脇侍に地蔵菩薩、毘沙門天像を安置、「清水寺」の額をかかげる。(『古都巡礼』前同)

となっている。しかし、同時に、実は清水寺が元々どこにあったかについては、清水寺自身でも確認できていないことにも注目して欲しい。

  延暦25年(806)の官符による寺地施入以降は、それが現在の位置を占めて動くことはなかったとしても、今日の境内が草創以来の寺地を継承するものであるかどうかについては、判断の確実な根拠とできる史料を欠いている。(*『清水寺史』上 118ページ)

 つまり、『清水寺史』では、延暦25年(806)の時点以降は、清水寺は現在の地にあることは確認できるが、それ以前の場所は、ここだと確認できる確かな史料はないとしているのである。


 むろん、そういう意味で言えば、法嚴寺(「音羽山観音寺」)が、清水寺の前身であるという史料も乏しいのであるが、しかし、京都の東に同じように二つも修行者の山である「音羽山」があり、二つの「音羽川」「音羽ノ瀧」があり、またどうして開祖が同じく「延鎮」であるのか、両者が「清水寺・清水寺奥之院」であるのか、等々を検案するならば、両寺のきわめて密接な関係を考えざるを得ない。また、前章で記したように、法嚴寺の住職であった大西良慶(清水寺貫主・興福寺住職を兼任)が残した石碑に、「當山(法嚴寺)開基一千百五十年」と、宝亀元年(770)には、すでに音羽山(牛尾山)にて「開基」されたと記されていることから、清水寺の八坂の地より先に、延鎮がこの山科音羽山の地に到着し、草庵を営んでいたことが明らかとなる。
 少なくとも、地元山科で伝えられている伝承や、法嚴寺の寺伝・石碑等を検証するならば、『法嚴寺由来』『同略伝記』のような説もまた成り立つであろう。『都名所図会 巻三』には、「奥之院」の地を、清水寺の「草庵の跡」とする次のような文も記されている。

○音羽山清水寺(せいすいじ) (前略)田村丸(原文のママ)延暦二十年に詔をうけて東夷征伐の時本尊に祈りしかば観世音地蔵毘沙門天彼戦場に現じ給ひてことごとく退治し給ふ 同廿四年に田村丸太政官府宣旨を蒙(かうむ)りて堂塔を建立し勅願所となし 又大同二年紫宸殿を給ひて伽藍となし観音寺を改めて清水寺と號せり  (中略)
奥の院の本尊は千手観音の立像なり 此地は延鎮法師草庵の跡なりとぞ
(*『都名所図会 巻三』(安永9年(1780)刊行、京都に関する地誌))

 ここで注目してほしいのは、江戸中期に書かれている「奥の院」なるものがどこに存在していたかであるが、寛文5年(1665)の年に刊行された『扶桑京華志 巻之二』に、「牛尾山嚴法寺  音羽山ノ東ニ在 乃行叡屨(くつ)ヲ遺ノ之地 延鎮千手ノ像造テ而安ス焉」と記されていたり、寛文6年(1666)5月25日、法嚴寺住職集玄首座により書かれた『清水寺奥院牛尾嚴法寺縁起』(『清水寺文書』)などにより、当時の「奥の院」は牛尾山法嚴寺であったことは明らかである。
 また、法嚴寺に現存する資料の中で、天保12年(1841)3月に、法嚴寺に対して『大般若経六百巻』が奉納されたものがあるが、その中には「清水寺根元 奥院山科 牛尾山観世音」と書かれた文書もあり、すでに江戸時代には、この奥之院法嚴寺が、「清水寺根元」と認識されていたことがわかる。

 「音羽山観音寺」(法嚴寺)と「清水寺」との関係については、『清水寺縁起』や『清水寺史』等では何も述べていないが、法嚴寺の寺伝、あるいは地元である山科での伝承などを見ると、少なくとも三つの説が考えられる。
 第一は、「分家」説である。これは「『法嚴寺』(音羽山観音寺)から清水寺が分かれた」(田中祥雲)という説で、『法嚴寺由来』などで法嚴寺の創建が宝亀九年(七七八)で、清水寺の建立が延暦17年(798)から来るもので、法嚴寺はその後も「清水寺奥之院」として続いているので、「山科はそれから平安時代にできた寺が多いんですけれども、京都の清水寺の元寺や、奥の院やというのは、ほとんどご存知ない方が多くて、それで、うちの方の歴史をいろいろ調べてみますと・・・・ 清水さんはうち(牛尾山)から分かれやはった」(『田中祥雲お話』)となる。
 第二は「上寺・下寺」説で、『法嚴寺由来』に「此處音羽山は観音浄土補陀落山なれども、何分の深い山奥の僻地なれば人々が参詣致すには困難な場所故に、当山は本地行場として此儘尊嚴に保守し御指図の地へ衆生済度の教筵が開け得るなれば・・・・ 」とあるように、法嚴寺を「本地行場(修行場)=上寺」と考え、清水寺を「衆生済度の教筵=下寺」としたものである。こういう「上寺・下寺」というのは、近くの安祥寺上寺・下寺や、醍醐寺の上寺・下寺の存在など、当時としてはよくあることで、法嚴寺・清水寺どちらの側にも「音羽山」「音羽川」「音羽瀧」などが存在することは、これで合理的な説明が付く。むろん、山科の「音羽山」「音羽川」「音羽瀧」が先にあり、後に東山の山河もそれに擬せて命名されたことは言うまでもない。醍醐寺に関しては「創建期の醍醐寺は、笠取山の山頂や山腹に点在する上醍醐の寺のことだった。(中略)下醍醐に寺の建物ができはじめるのは五重塔建立の30年ほど前からである」(森浩一『京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻』学生社、2008年、237ページ)とされ、上醍醐寺が先に建立されていたことを示しているし、安祥寺も上寺が先にあったと推定されている。
 また、『都名所図会拾遺 巻二』の中で牛尾山の「蛇ヶ淵(じゃがふち)(大蛇退治伝説)」に関して「むかし此淵に大蛇棲んで人民を悩す事数しらず 彼四手井氏の先祖に伊賀守景綱(かげつな)といふ勇士あり 常に牛尾観音を信じ延文三年三月七日参詣し此淵を通りけるに(たけ)なる大蛇出で景綱を目がけ飛かかる 景綱少しも憶する景色なく (つるぎ)をぬきづたづたに()りほろぼし安く退治してけり 此とき洛東清水寺の音羽瀧一日一夜血汐ながれ来りけるとなん」と記されているのは、普通に考えれば、山科の音羽川の水が清水寺の瀧に達するという考えられない話であるが、この「上寺・下寺」説を念頭に置けば、「上寺からの水が下寺に達する」という話として容易に理解される。当時、おそらくそうした見方もあったのであろう。『改訂京都民俗志』でも同様に「音羽ノ瀧」について「東山の清水寺の舞台の下にあって、三つの口から三流の清水が流れ落ちている。この水は、清水寺の奥ノ院山科、音羽の牛尾山(法嚴寺)に発し、ここへ通じているともいう」と記している。
 第三は「移転」説で、『法嚴寺由来』に「八坂の郷に堂宇建造成し延鎮が当山(法嚴寺)で彫刻の柳木観世音菩薩像を(清水寺に)移して本尊に当山(音羽山)の地名を山号にする。また音羽川十八丁を流れる清水より寺名が清水寺と付けられた。音羽山清水寺が建上り延鎮法師が初代住職に就いた」とあるように、「本尊を移し」「延鎮が初代住職に就いた」のだから、「移転」とする考え方である。
 著者自身は、やはり本尊も延鎮も移ったのだから、「音羽山観音寺」が東山八坂に移転し、跡地に「奥之院」として「法嚴寺」が成立したという見方をとるが、第二の「上寺・下寺」説も、当時の時代背景や思想を考えると、捨てがたいものであると考える。おそらく分離後、清水寺と「奥之院」との間でそういった関係があったのではないかと推測される。(続く)