【「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」と山科】(5) | ふるさと会のブログ

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山科の魅力を山科の歴史を通じて記録しようと思います。

鏡山次郎

 「音羽山観音寺」が八坂郷に移転したあと、残された法嚴寺は「清水寺奥之院」となって、引き続き清水寺と密接な関係を持っていく。「奥之院」の名は、現在の法嚴寺境内の梵鐘(元禄八年九月一八日・中興第二世浄遍建立)にも「山城国山科牛尾山 京清水奥院」と銘打たれているので、それと確かめられるが、近世の史料にもたびたに登場する。

○牛尾 醍醐山の東北に有。嚴法寺(げんはうじ)山の上に有。眞言宗の僧有。一説に山科追分(おいわけ)より。三四丁辰巳の方小山村より二十餘町上るなり。是清水の奥院なりとぞ。(*『名所都鳥 巻第五』元禄三年(一六九〇)刊行)

 また、史料を見ると、「清水寺奥之院」と呼ばれた理由については、「地名」起源、「沓」起源、「行場」起源の三つが語られている。
 一つ目は、「音羽山・音羽川・音羽瀧」などという共通の地名から、法嚴寺が「奥之院」になったのではないかというものである。

法嚴寺の地と清水寺との関係は、「清水寺縁起」によればその創建以来ということになるが、音羽山・音羽川・音羽滝のある山科のこの地と、山号を音羽山という清水寺とが結び付いて奥院とされたものであろうか。 (*下中弘『京都・山城寺院神社大事典』平凡社・一九九七年)

 また二つ目は、『清水寺縁起』に言う「行叡の沓が落ちていた」ことから「奥之院」とされたというものである。

○牛尾山 コレハ相坂音羽山ノ南。東ノ方ノ山ナリ清水寺縁起ヲ見レバ行叡居士沓ヲトメシ處也。則清水ノ奥ノ院ナリト云々清水ノ瀧ノ水上コノ上トゾ。 (*『京師巡覧集 巻之六』寛文一三年(一六七三)刊行)

牛尾山(ぎうびさん)法嚴寺(はふがんじ) 當寺はむかし延鎮沙門音羽川の水上を尋て行叡居士の沓を拾ひ大悲の化現なる事を(さと)せる霊場なり(洛陽清水寺の縁起に(くは)し此沓當寺の什寶なり古は伽藍厳重にして𦾔地は山上にあり故に清水寺奥院と稱しける) (*『都名所図会 巻三』安永九年(一七八〇)刊行、京都に関する地誌)

○東山を隔てて山科東側にある牛尾山法厳寺だけは、清水寺開創縁起の修験者行叡居士の旧跡にちなむ「奥の院」として従来どおりその住職を第二次大戦後まで(清水寺貫主が)兼務し続けた。(*『清水寺史』下・四五七ページ)

 そして、三つ目は、寺の移転により、残った寺が廃されてはしまわずに、「奥之院」とされたというものである。そして、「奥之院」はまた延鎮の隠居の地でもあったという。

(コレ)より当山を清水寺奥之院と云い又清水寺之行場とも稱される様に成ったのでした。延鎮上人は老後当山へ帰山隠居して誦経三昧の境涯を楽しみ暮されて、嵯峨天皇の弘仁七年六月十七日に入寂されました。(*『法嚴寺由来』)

時来は当山を清水寺の元行場と稱し、又、清水寺奥之院とも云われる様に成りました。清水寺が建立出来て初代の住職に就任の延鎮上人が老後は帰山し隠居され。誦経三昧の境涯を楽しんで日送りなされ、嵯峨天皇の弘仁七年六月十七日に入寂されました。(*『法嚴寺略伝記』)

是より当山を清水寺本地行場、清水寺奥の院となり延鎮上人は清水寺の住職後、老後は当山へ帰山して、嵯峨天皇(第五二代天皇)の弘仁七年六月一七日に入寂されました。(*『法嚴寺HP』)

當寺牛尾山は 清水寺の奥院と号して山城国宇治郡山科郷音羽村の上にあり
行睿隠跡の霊窟観音所居の浄刹也(*『法嚴寺縁起』)

 これらの事から考えるならば、やはり清水寺の創建以来、その『𦾔(旧)地』であった音羽山と寺を「修行の場」として活用したと考えるのが自然であろう。「延鎮の隠居の場」であったかどうかは定かではないが、適地でもあり可能性は高い。清水寺にとっても、『清水寺縁起』にあるように牛尾山の地は「延鎮が行叡の沓を拾った所」とされているので、簡単には縁が切れなかったのではないだろうか。何よりも、清水寺周辺の「音羽山・音羽川・音羽ノ瀧」と比べるならば、山科の法嚴寺周辺の「音羽山・音羽川・音羽ノ瀧」は、はるかに自然に恵まれ、雄大で、しかも修行の場に適している。こうして「清水寺奥之院」が成立したものと考えられる。また、これ以降、少し後の時代から法嚴寺は、「音羽山清水寺」との区別をはっきりとするために、「音羽山法嚴寺(音羽山観音寺)」ではなく、「牛尾山法嚴寺(牛尾山観音寺)」と称するようになったのではないかと考えられる。寺を「牛尾観音」を呼ぶのはその名残りでもある。法嚴寺前住職の田中祥雲氏は「二つも音羽山があって、こちらの方はだんだんと『音羽山』ではなく『牛尾山』というようになってきたんです」(『ふるさとの会三周年』)と述べている。
 なお、現在の清水寺の「音羽ノ瀧」の上に、「奥之院」があり、「開基行叡居士と、開山延鎮上人が修行した旧草庵跡」と説明されていることが多いが、現在の建物自身は、寛永一〇年(一六三三)に再建されたもので、本来は「奥之千手堂」と言い、清水寺境内の中では「奥之院」とも呼ばれていたが、広く「清水寺奥之院」と言われるようになったのは、戦後すぐ(昭和二五年・一九五〇)に法嚴寺が法相宗・清水寺より離脱して修験宗門に所属する事になり、法嚴寺の「清水寺奥之院」が廃された時からである。『出来斎京土産 巻之三』(延寳五年・一六七七)でも、清水寺内の「音羽瀧」の項で「奥千手の下にあり。石壇五十間バかりをつたふて谷にくだりて・・・・ 」とあるように、近世では一般に「奥之千手堂」と称されていたことがわかる。
 ただ、現在の清水寺奥之院自身は、洛陽三十三所観音霊場第十一番札所とされていて、建物自身も重要文化財であり、本尊三面千手観音、脇侍地蔵菩薩、毘沙門天と、二十八部衆、風神、雷神や、真言宗兼学の伝統から弘法大師像を祀るなど、むろん貴重なものであることには間違いがない。(続く)