【「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」と山科】(3) | ふるさと会のブログ

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山科の魅力を山科の歴史を通じて記録しようと思います。

鏡山次郎

 牛尾山法嚴寺や、音羽山清水寺では、坂上田村麻呂の東北遠征の中で観音菩薩による大きな「加護」があったとされている。たとえば、法嚴寺の古文書『法嚴寺由来』では、次のように書かれている。

 「田村麿が朝命の逆徒征伐に出発の際も参詣になり御守護を祈請して出征されました。不思議な事に敵の方は大兵力なのに官軍向かっては一矢も放って来ず交戦せずして降伏したのでした。思掛せぬ大勝利が出来て大満悦で凱旋した田村麿将軍は、(ミカド)に御報告を言上済せた其場から参詣して来て感謝の御礼拝をし延鎮上人へ戦地での有難い戦況を御報告して感慕の一念より何か奉仕させて戴き度々、喜びで満々した熱意ある表言をされました。」(『法嚴寺由来』)

 『法嚴寺由来』では、「出発の際も参詣」し、「不思議な事に敵の方は大兵力なのに官軍向かっては一矢も放って来ず交戦せずして降伏した」とやや抽象的で、「思掛せぬ大勝利」によって、田村麻呂が「観音菩薩のおかげ」と、次に新寺建立へとつながって行く。
 これに対して、清水寺では、もう少し具体的で、『清水寺縁起』によれば、次のように記載されている。

 「蝦夷との戦いのため征夷大将軍に任ぜられた坂上田村麻呂は、天下の一大事と深く肝に銘じ、必勝を祈念するために、延鎮の寺に出向いた。(中略)大将軍が戦場に出陣すると、一人の老僧と一人の老翁が忽然と現れた。やがて戦いが始まり、蝦夷軍の射る矢が、雨のごとく降りそそいだ。すると、老僧が大将軍の前に立ち、法衣で矢を防いだ。老翁は、弓を引いて敵軍に射かけると、百発百中、数百人を倒した。まこと神仏の加護と、遠征軍一同は大いに喜んだ。」
((『清水寺縁起』読み下し)『続々日本絵巻大成 伝記・縁起篇5 清水寺縁起 真如堂縁起』中央公論社、平成6年・1994、13・17・18ページ)

 史料によっては、この「老僧と老翁」を「若武者と老僧」とするものもある。いずれにせよ、「観音菩薩の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身」とされ、これが清水寺の観音菩薩の「脇侍」としての毘沙門天と地蔵菩薩につながっていく。いずれにしても、どちらもその「加護」に報いるために田村麻呂が新寺を建立したという理由付けには違いがない。ちなみに、法嚴寺の観音菩薩の「脇侍」は、不動明王と毘沙門天であり、本堂には行叡居士(こじ)と、延鎮法師の像も安置されている。

 こうして蝦夷征討の中で、観音菩薩の加護を感じた坂上田村麻呂は、それに報いるため延鎮に「新寺の建設」を申し出る。これによって、延暦17年(798)、田村麻呂が、八坂郷に堂宇を建造し新寺を建立する。寺伝によれば、延鎮が法嚴寺(「音羽山観音寺」)で彫り上げた柳木観世音菩薩像を新寺に移して本尊とする。そのため、法嚴寺には、「天智天皇作と伝えられる」観音菩薩像が残された。そして、新寺には、音羽山の地名を山号にし、また音羽川を流れる清水にちなんで、寺名が「音羽山観音寺」から「音羽山清水寺」と変更された。そして、延鎮法師が初代住職に就いた。こうして、法嚴寺の前身である「音羽山観音寺」は、八坂郷の現清水寺の場所に移転し、後に残された音羽山の寺は「奥之院」と呼ばれるようになる。
 このあたりの経過について、法嚴寺の寺伝は次のように述べる。

 「坂上田村麿の清水寺建立 思掛せぬ大勝利が出来て大満悦で凱旋した田村麿将軍は、(ミカド)に御報告を言上済せた其場から参詣して来て感謝の御礼拝をし延鎮上人へ戦地での有難い戦況を御報告して感慕の一念より何か奉仕させて戴き度々、喜びで満々した熱意ある表言をされました。将軍の意中を了際なされた延鎮上人が将軍を(ツレ)て上堂して観世音宝前に入定して神通御指示を仰がれた上田村麿に告げられる様。此處音羽山は観音浄土補陀落山なれども、何分の深い山奥の僻地なれば人々が参詣致すには困難な場所故に、当山は本地行場として此儘尊嚴に保守し御指図の地へ衆生済度の教筵が開け得るなればとの事でした。依って将軍が勅許を仰がれて八坂郷の清浄地に堂宇を御建造、延鎮上人が當山で彫刻の柳木観世音菩薩像を御移しして本尊に当山(音羽山)の地名を山號に 音羽山清水寺 が建上り延鎮法師が降って初代住職に就れたのが延暦十七年で、(中略)(コレ)より当山を清水寺奥之院と云い又清水寺之行場とも稱される様に成ったのでした。延鎮上人は老後当山へ帰山隠居して誦経三昧の境涯を楽しみ暮されて、嵯峨天皇の弘仁七年六月十七日に入寂されました。」(『法嚴寺由来』)

 「餘りの不思議な大勝利で信仰心念は益々高まり深まった将軍が、報恩の為に延鎮上人の所望である所の大衆参拝の容易な場所にもう一ヶ寺建てやうと決意して、八坂の郷に建立し、上人が彫まれた観音像を御移し申して本尊佛に、此所(音羽山)の山名(ヤマノナ)を其のまま山號に、又音羽川を流れる清水より寺名が付けられたのでありました。時は延暦十七年で当寺(法巖寺)の開山より二十年後に当ります。時来は当山を清水寺の元行場と稱し、又、清水寺奥之院とも云われる様に成りました。清水寺が建立出来て初代の住職に就任の延鎮上人が老後は帰山し隠居され、誦経三昧の境涯を楽しんで日送りなされ、嵯峨天皇の弘仁七年六月十七日に入寂されました。」(『法嚴寺略伝記』)

 「坂上田村麻呂さんが東北の征伐に行かれる。時代がちょっと違うんですけれども、楽勝できたという、そのお礼に何かさせてくれという話になりまして、延鎮さんが「ここでは山奥すぎるので下にお寺がほしいな」ということをお話されたんです。そこで、北白川に皇族さんがおられて、その人のお屋敷をいただいて、東山に移築しゃはったというのが、現在の清水寺さんの始まりと言っています。それで延鎮さんの関係で、お寺の山号を音羽の山からきたお寺やさかいに、「音羽山」。金色に光る水、今はちょっと井戸になっているんですけれども、その元で清い水が流れているということで「清水寺」というのを創っていただかれたというような話になっているんです。」(田中祥雲『ふるさとの会3周年』記念講演・2010年)

 むろん、現在の清水寺は、延鎮と行叡との出会いから、延暦17年(798)の堂宇建立までを、全て(東山区)八坂郷の現・清水寺、あるいはその周辺の地で行われたという立場を取っているので、法嚴寺とは違う見解を持っている。次に、その点について述べてみたい。(続く)