なにば
先日、蓮如上人にまつわる地を訪ねて、ぶらぶらと山科歩きをしました。蓮如上人は当時さびれていた本願寺を継ぎ、親鸞聖人の教えに立ち返り、精力的に布教活動を行った方です。そのため、浄土真宗の中興の祖と呼ばれています。その後、浄土真宗の広がりを懸念した比叡山の僧兵に襲撃され、諸国を転々としながら布教活動を続けました。
1478~1482年に山科に本願寺が再興され、大きな寺内町ができました。寺内町は栄えましたが、1532年に焼亡し、その繁栄はわずか50年ほどだったとのことです。現在その名残が見られるのは山科中央公園にある土塁跡です。土塁の下にはお濠があり、城壁のように寺内町を守っていたようです。公園内の土塁跡には上ることもできるので、ちょっとした散歩コースにもなります。
蓮如上人は85歳でその生涯を終えられました。山科中央公園の近くに厳重に守られた蓮如上人御廟所があります。今は西本願寺と東本願寺が共同で管理しています。蓮如上人が西と東の絆を結んでいるのかと感慨深く思いました。
西御坊と東御坊の間にある草むらの中に突如石を積み上げた巨大なオブジェが出現して、私たちを驚かせました。草むらの中の現代アートかと思いきや、実は1934年に建てられた蓮如上人像の台座なのです。銅像だったため、戦争の時に供出され、蓮如上人像は失われてしまい、現在は台座だけが残っているのです。台座の裏には高村光雲の名もありました。台座だけでも一種のアートに見えますから、蓮如上人像の建立は大仕事だったのではないかと思われます。また、台座だけになってもそれを残したいという人々の強い想いも感じられました。
蓮如上人が隠居し、余生を過ごされたところは南殿と呼ばれています。音羽伊勢宿町には南殿の跡に建てられたという光照寺と南殿幼稚園があります。ここにも土塁跡が見られ、お寺が城のように守られていたことがわかります。
西野広見町には西宗寺(さいしゅうじ)というお寺があり、境内には鳥かごから放した鶯を見上げる蓮如の座像があり、お寺の山号は放鶯山(ほうおうざん)です。蓮如上人が「鶯でさえ、法を聞け(ホーホケキョ)と鳴く」と言ったという故事に由来するとのことです。なんだか駄洒落のようでもあり、ありがたくもクスッと笑えるようなお話です。お寺の近くには立派な長屋門の古民家があり、今も敷地内にある旧本願寺の土塁を守っておられるそうです。
短時間の散策でしたが、蓮如上人の時代やその後の人々の思いを垣間見たような気がしました。