【「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」と山科】(2) | ふるさと会のブログ

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山科の魅力を山科の歴史を通じて記録しようと思います。

 鏡山次郎

『清水寺史』による考証によれば、次のように記されている。

田村麻呂の観音信仰
 坂上田村麻呂は京都盆地の東山山中で僧賢心と出会い、観世音菩薩を本尊とする清水寺建立の檀越となった。この出会いを、『清水寺縁起』や『今昔物語集』など多くの縁起類は宝亀11年(780)、彼の二三歳の折、妻の出産のため薬猟の途中のことと述べる。もしそれが正しいのなら、彼の観音信仰への帰依は、賢心という僧への人間的傾倒が主たる理由であったことになる。しかし、奈良時代の観音信仰が多分に鎮護国家的な色彩を色濃くもっており、藤原広嗣の乱などの反乱に際して観世音菩薩への祈念が修されたことなどを考慮に入れるなら、やはり田村麻呂の観音信仰もまた蝦夷征伐への進攻と関係づけて考えるのが妥当なような気がする。ただ、後に第五節で記すように、宝亀11年当時の田村麻呂は近衛府の将監に任じられたばかりであった。武門の家に生まれ、父苅田麻呂が陸奥鎮守将軍に任命されて東北への進軍が将来自分に課せられることは想像にあったとしても、この時点では、将来の奥州征伐と観音信仰を結びつけるには若干早いようにも思われる。
 一方、『扶桑略記』が記すように、その賢心との出会いを延暦17年(798)とするなら、すでに田村麻呂は征夷大将軍に任じられていた41歳のこととなり、清水寺の創建は、奈良時代に観世音菩薩に託されていた反乱鎮圧の信仰の延長線上に位置付けられることとなる。いずれにしてもこの節はその議論をするのが目的ではないので別に譲ることとしたいが、観音信仰の浸透の流れの中で、奈良時代の観音信仰の性格を考える時、田村麻呂の観音に対する信仰の意味が、浮かび上かってくることだけは確かといえよう。 
(*『清水寺史』148~149ページ)

 「蝦夷」は、かつては異民族だのアイヌの祖先などと言われたことがあったが、今はそんな旧説は通用しない。だいたい7世紀中頃ぐらいまでは、大和政権の貴族達は、関東北部から北陸東北部の人たちをも含めて蝦夷と呼んでいた。文化の相や人種的な違いも全くないが、ただ大和を中心とする西日本に対して、社会的発展に遅れを取っていたという点だけが違っていたに過ぎない。自然的条件や、地理的に離れているなどから、農業への移行が遅れ、狩猟や漁猟に頼る生活を捨てられない人たちも多くいたし、そういう人たちとは言葉も通じにくくなっていた。
 しかし、こうした点を大和政権の貴族達は「未開異習」の人々と捉え、しだいに中国の中華思想を真似て、「東方の(えびす)」と認識し、「蝦夷」と差別的に呼んだ。そして、7世紀中頃から大和政権は、本格的に蝦夷に進出することになる。この背景は、「白村江の戦」の失敗などで、朝鮮半島への進出を諦めざるを得なくなった朝廷が、新たな進出先を求め出したからであった。とりわけ、八世紀になってからは、活発化し、その歴史的背景の中で坂上田村麻呂の「活躍」があった。
 観音菩薩の篤信者となった坂上田村麻呂は、その後、征夷大将軍となって蝦夷征討に活躍することとなる。
 桓武天皇の大きな業績の一つは、長岡京や平安京の造営であるが、同時に「蝦夷征討」に見られる東北地方の平定ということも大きな事業であった。その大きな期待を担い、かつまた「成果」を挙げたのが坂上田村麻呂であったと言えよう。
 元号が「延暦」と改元されてから、遠征は3度行われているが、1度目(延暦8年)は紀古佐美(きこさみ)を征夷大将軍として行われるが、敗北。2度目(延暦10年)は、大伴弟麻呂を征夷大使として行われ、その時田村麻呂は「副使」となる。戦いは勝利するが、その時、実際の指揮を執っていたのは田村麻呂であるとされている。そして3度目(延暦21年~22年)が田村麻呂を征夷大将軍にして行われ、敵将大墓公阿弖流為(たものきみあてるい)盤具公母礼等(ばくのきみもれと)が配下の500名を連れて降伏。敵将「阿弖流為」と「母礼(等)」を連れ、平安京に凱旋することとなる。阿弖流為は、古くから蝦夷地に勢力を持っていた酋長で、朝廷軍を「釘貫(くぎぬき)戦法」と呼ばれるゲリラ戦法で悩ましたとされている。田村麻呂の助命嘆願むなしく、公卿たちの命によりこの2人は河内国杜山(もりやま)で斬殺される。(続く)