鏡山次郎
坂上田村麻呂は坂上田村麿とも書かれる。
坂上田村麻呂の名がはじめて登場するのは『続日本紀』延暦4年(785)11月25日条で、安殿親王が皇太子に立ったことに関連して、田村麻呂が正六位上から従五位下に昇進したという記事が初見である。田村麻呂28歳の時で、ここから考えると後述の宝亀11年(780)の「田村麻呂の音羽山入り」は田村麻呂23歳の時であったと考えられる。
延暦5年(786)に父である苅田麻呂が死去。その喪に服して田村麻呂は一年間宮を辞すが、喪が明けて以後の田村麻呂は、次々に官を昇り、34歳の春を迎えた延暦10年には、百済王俊哲とともに蝦夷を征伐する準備のために、東海道諸国に派遣される。
そして同年7月、大伴弟麻呂を征夷大使として、桓武朝2度目の蝦夷征伐の軍が派遣されることになるが、この時田村麻呂は、他の3名とともに副使となり、以後長い間蝦夷問題に関わることとなる。
人名には時代を反映しているものが多い。律令時代の男性では「麻呂」がきわめて多い。有名な貴族の中でも蘇我石川麻呂、柿本人麻呂、藤原仲麻呂、坂上田村麻呂などがあり、「麻呂」は後に「麿」になり貴族の自称とされたが、中世には幼名の「丸」に転じて、牛若丸、
坂上田村麻呂が山科の音羽山(牛尾山)に入ったのは、蝦夷征伐の前であったと考えられる。現在でも音羽山(牛尾山)に鹿が多く生息しているが、山科の地は天智天皇の時代から、奈良時代・平安時代初期にかけて「鹿狩り」の最適の場所であった。
坂上田村麻呂の音羽山入りについて、法嚴寺(ほうごんじ・牛尾観音)の寺伝では、次のように説明している。
「寶亀十一年夏です。坂上田村麿は妊娠する高子婦人が出産豫定日を過ぎても出産しないので、唐医の診察を
要約すると、宝亀11年(780)夏(4月)、田村麻呂は妻高子の難産を治すためには牝鹿の生肝がいいということを聞き、鹿狩りに音羽山へやってきて延鎮で出会う。延鎮はそのことを聞き、殺生を諭し、ひたすら観世音に帰依して念ずるように言い、高子の安産祈祷をした。田村麻呂も自らを恥じ、鹿狩りを断念した。延鎮から観世音菩薩の御守、呪符、金生水を授与されて帰り、産場で苦しむ高子妻に今日の話をして、金生水で呪符を飲ませれば、無事安産できた。このことにより感銘を受けた田村麻呂と高子は、それから当山観世音菩薩の篤信者になったということになる。『京都府山科町誌』においても「坂上田村麿は、鹿を追ふて音羽山に分け入り、ここに始めて延鎮法師の修行するに遭い、その霊符を得て妻の病気を癒すことを得たと傳へられ・・・」(『京都府山科町誌』39ページ・山科町役場・昭和5年刊)とあり、山科では昔から有名な話として伝えられてきたと思われる。
また、この話は、東山の清水寺においても伝わっている。各種ある『清水寺縁起』でも同様の物語が語られる。むろん清水寺縁起は延鎮と田村麻呂の出会いの地は、同じ「音羽山」でも「現在の清水寺の地にある音羽山」説であるが、法嚴寺が「鹿狩りを断念」、清水寺が「射止めた鹿を埋める」など、細部の違いはあるものの、大筋は同じ話が伝えられている。(続く)