翌朝、まだ暗いうちに起きました。
雲海が見られると聞いていたからです。
なるほど足元から見はるかす目路の崖までほの白い雲の世界です。
「俺の文化生活は山の上よ。」旦って兄の云った云葉を思い出しました。
高層ビルやマンションの中には兄の文化生活はない、常識と逆の場に文化を見る兄。
運界の上に独り住む兄。
近くには中国の繪に見るような天を指して細長く突き出した山がある。私は他にこんな形の山を見たことがない。
戦前にはこの辺一帯、狩人しか入らない山で鹿や猪や猿、むじな、狐の天国であった処である。
ネムの大木が多く、髪飾りのような淡紅の花が眠るように垂れ咲いていて、秋、山全体をすすきの銀穂紅穂が覆いかくし、その幽幻の風光に只一度私は呆然と立尽くしたことを覚えている。
私は大きく深呼吸をしました。
とたんに頭がすーッと軽くなり何かが吹切れたように感じました。
少し空が白みかけて来ました。
眼下にあるはずの山山はまだ見えません。
目地の崖に一本の線が現はれました。
力強い壮大な縦の線。
続いて横の線その上に又横の線。
そして縦の線、その間に墨色の線。
灰色がかった黄色の線、褐色の線、次次と現れる線、それ等は少しづつ変化しながら抽象雲となって空中に描かれたのです。
戦時中毎日空を見上げて雲を見ていた私でしたが、こんな雲は初めてです。壮大な抽象雲。片時も同じ形ではない雲は変化、変化を続けつつ何時も此処に在り続け、魅了された私も又何時までも立ち続け、生きている抽象画に感動するのでした。呆然と佇む私の中を数数の繪が走り続けました。
今は亡き彼の繪です。
晩年は抽象画を描き続けた彼。
上野の美術館に掲げられた繪。
この目前の雲の抽象は昇天した彼の繪の展開ではないのか。
雲海の上を舞う無数の蝶の幻。
幻の蝶は彼の繪から飛び立ったもののように乱舞し続ける。
「蝶と樹氷」美大二年の時初入選した独立美術展。
旦つての日気の遠くなるような北満の平原を蟻のように行軍した彼。
洞庭湖のほとりを歩いたという長足の健脚。
にょきにょき奇怪な形の南支の山の山裾を銃を肩に行軍、戦争とは歩くことであったと云った彼。
中国の草花や雲、雷雲のスケッチを送ってくれた彼。
死の際までベッドに仰向けで描いていた彼。
生涯の友達であった蝶のように華から華へ遊んだ人、幸せな人であったと思う。
幻の蝶、夢の蝶よ。
何時消えたのか抽象雲は暁の晴晴とした空に変じ、線の山山が頭を並べて居りました。
物音一つなく、兄はまだ眠っているらしい。