創造の知とロジカルシンキング
またも、久しぶりに書評である。
前回に引き続き、ビジネス書となってしまった。
私としては、あまりビジネス書を取り上げたくないのですが、
今回の書籍はビジネス分野にしてはめずらしく岩波新書であり、
そしてアマゾンでこき下ろされている、ということで取り上げます。
今回の書籍はビジネス分野にしてはめずらしく岩波新書であり、
そしてアマゾンでこき下ろされている、ということで取り上げます。
アマゾーンでは、「抽象的」とか、「で、それで?」とか、「学者が語るな」
といったコメントがついているけれども、
わたしはなかなかどうして、今年一番の大当たりであった。
本書は、「宅急便」のビジネスモデルを生み出した
ヤマト運輸の二代目社長小倉昌男氏のケースが紹介されているように、
まったく新しいビジネスモデル、マーケティングコンセプトを「構想」する
ための手法論というか、着眼点というか、その力をトレーニングする方法
というか、である。
ヤマト運輸の二代目社長小倉昌男氏のケースが紹介されているように、
まったく新しいビジネスモデル、マーケティングコンセプトを「構想」する
ための手法論というか、着眼点というか、その力をトレーニングする方法
というか、である。
たしかにその辺はあいまいな部分もあるのだけれども、
しっかりと読み解いていけば、もうそれは濃密なエキスが抽出できる。
何度も読み返してしまう本であった。
しっかりと読み解いていけば、もうそれは濃密なエキスが抽出できる。
何度も読み返してしまう本であった。
本書は、経営者、起業志望者、事業開発担当、
新たなコンセプトを探しているマーケターなどには有益だろう。
それ以外には、確かに、ん?かもしれない。だって必要ないんだもの。
新たなコンセプトを探しているマーケターなどには有益だろう。
それ以外には、確かに、ん?かもしれない。だって必要ないんだもの。
しかし、抽象的だから役に立たない、という議論はあてはまらないであろう。
自分自身にそれを具体化させる力がないと告白しているようなものだ。
自分自身にそれを具体化させる力がないと告白しているようなものだ。
私自身、難解な書籍を読むとき、特に翻訳の専門書を読むと
翻訳が下手なんだ、と難癖をつけたくなるが、これは反省した。
本書では、グランドデザインを構想する瞬間が訪れる条件について
述べられているが、
述べられているが、
・常に新しいコンセプトは無いかと貪欲に考え続けていること
・抽象的理論の蓄積
・現場での経験の蓄積
・抽象的理論の蓄積
・現場での経験の蓄積
などがそろい、ある出来事がきっかけで
それらが結びつき、ビジネスモデル全体が頭の中に出現するのである。
それらが結びつき、ビジネスモデル全体が頭の中に出現するのである。
どうも、ここで、で?となるようである。
私のとっては、これだけで十分だと思ったのだけれども、
アマゾーンでは、コメントを見ている限り、で?、であるようだ。
アマゾーンでは、コメントを見ている限り、で?、であるようだ。
ビジネスを構想する。
大前研一も、今までに無いビジネスを生み出す構想力
について、よく語っているが、その構想力を鍛える方法についての
ヒントがつまっているのだ。
これはとても栄養満点だ。
について、よく語っているが、その構想力を鍛える方法についての
ヒントがつまっているのだ。
これはとても栄養満点だ。
私なりの解釈を書きたい。(今回もここからが長い)
構想力を養うには、ロジカルシンキングが重要である。
え? かもしれない。
よく、ロジカルシンキングは、誰がやっても同じ答えが出る、
とか、創造的な解は出せない、とか、ロジカルシンキングを
超えたところに、直感的な構想が生み出される、とか
言われている。
それもあるとは思う。
しかし、とんでもない、ロジカルシンキングは創造的な解のために
非常に重要なアプローチ方法の一つだ(もちろんそれ以外の方法もある)
という考えに至った。
非常に重要なアプローチ方法の一つだ(もちろんそれ以外の方法もある)
という考えに至った。
実は本書の中でも、ロジカルシンキング的な仮説検証型経営方法の
限界について述べられている。アマゾーンのコメントにもそのことに
触れられている。
そう、何と、本書の中で限界を指摘されていることなんだけれども、
その本書を読むことで、ロジカルシンキングと構想力との
結びつきを思いついてしまったのだ。
*もっとも本書の中でもロジカルシンキングそのものを
はっきりと否定しているわけではないが・・・
その本書を読むことで、ロジカルシンキングと構想力との
結びつきを思いついてしまったのだ。
*もっとも本書の中でもロジカルシンキングそのものを
はっきりと否定しているわけではないが・・・
ロジカルシンキングのベーシック。
MECEに整理された事実や論点から、帰納法的に
What is this all means ?(ここからまとめると要は何がいえるのか?)
を考えること。
What is this all means ?(ここからまとめると要は何がいえるのか?)
を考えること。
そして、一つの事実や仮説、理論から、演繹的に
So what ? (だからここから具体的にどう言えるのか?)
を考えること。
So what ? (だからここから具体的にどう言えるのか?)
を考えること。
これはどの教科書にも書いてある。
つまり具体的な経験や事象から、
一般的、汎用的な法則や抽象的理論(自論)を導き出す。
一般的、汎用的な法則や抽象的理論(自論)を導き出す。
極端に言えば、確かなファクトから、正確に導き出せたことであれば、
それも一つのファクトとして扱っても良いということでもある。
それも一つのファクトとして扱っても良いということでもある。
そして抽象的、一般的な理論から、具体的事象に当てはめて
カスタマイズして考えられる。
カスタマイズして考えられる。
具体から抽象、水平展開して、抽象から具体へ
これがロジカルシンキングである(はずだ!)
これがロジカルシンキングである(はずだ!)
さて、本書の中では、例えば小倉昌男氏は、
経営者としての新しい突破口を探し出そうとする問題意識、
様々な現場での知見の積み重ね、
そして自らも様々なセミナーに参加して経営学を学び、
理論の蓄積をされている。
そして日々ああでもない、こうでもないと
具体から抽象へ、抽象から具体へと結び付けていることで、
NYでのある経験、ほんの小さな経験で、ハッとすべてがつながるのである。
小倉氏は、NYの路上の一角で、UPS(United Parcel Service Inc.)という
運輸会社の配送車が4台固まって止まっているという、
「具体的な事象」に出会うわけである。
そこからその事象が意味するところ、その背後にあるメカニズムに
気がつくわけである。(詳しくは本書にゆずる)
つまり具体的事象から、一般化をしたわけである。
そしてその一般化した法則を、水平展開して、
自分のヤマト運輸で構想しているビジネスに当てはめて
見たわけである。一般法則の具体化である。
そして、日ごろ考えていたビジネスが、こういう方法をとればいける!
と確信を持てるビジネスモデルへとなったわけである。
どうでしょうか。
見事に、具体⇒抽象⇒水平展開⇒具体の流れができていますね。
これはロジカルシンキングのベーシックです。
さて、本書に書かれている内容だけでは、心もとないでしょう。
そうは言っても、アマゾンでこきおろされているじゃねえか、
とおっしゃる方も大変多くございましょう。
私が直接話を聞いた事例。
高級ホテル専門の予約サイト「一休.com」を運営する
株式会社一休の森正文社長が、一休の原型をひらめいた瞬間の話。
森氏は、思い余って?起業したものの、とくにやることも無く、
お金ばかりが無くなっていく毎日。
(ここもなかなか聞かせどころだけれども、今回は割愛)
当時アメリカで流行っていたオークションサイトを
日本でも始めようと悪戦苦闘していた。
あるとき、夜の新宿を歩いていたら、ホテルの明かりがついていない部屋
を見て、ハッと来たわけである。
「これこそ究極の在庫だ」というわけである。
また、当人がかつてNYに駐在していたときに、
友人が訪問してくる際にホテルを予約したら、
時期によって同じホテルでも価格が違っていたという経験をしていた。
さらに、早速ホテルをたずねると、担当から、寿司は生ものでも
冷蔵庫にしまえるが、ホテルは今日売れ残ったら、在庫にならない
「究極の生もの」である、という話を聞かされる。
ホテルは固定費産業だから、部屋が空いていようが
いまいが、固定費がかかってしまう。
つまり、どうせ空き部屋にするならば、1円でもいいから
入れてしまった方が、利益になるということだ。
そこから、ホテルのオークションが始まり、
その後、ホテル側の要望を取り込み、
現在の予約サイトへと移行していった。
以下のサイトと本人の話を参考
森氏も、小倉氏と同じく、毎日何か無いか、
どうすればよいかを、考え続けていた。
それがあるとき、ホテルの部屋の明かりを見て思いついた。
ホテルの部屋の明かりという具体的な光景から、
それが意味するところを、抽象化させた。
そこにNYでの経験が、結びつき、
ホテルの担当者の話を聞くことで、確信となり、
その場で営業をして商談を成立させた。
具体化⇒抽象化⇒水平展開⇒具体化の流れが
森氏にも見られる。
私が本書を読んで、とてもよい学びが得られたのも、
ビジネススクールのスタッフという職業柄、森氏のような成功創業者の話を
山ほど聞いていて(具体的事象)、そこから頭の中でパターン化されていたから(抽象化)、
それが今回の本書を読む(具体的)ことで、
本書の意味するところ(抽象)を考えることで、
結びつき理解の支えとなったのだろう。
恵まれた立場である。ありがたやありがたや。
構想とは、もちろん直感の部分もあるだろうけれど、
日々、時間をかけて、様々な経験、理論を抽象⇔具体と
かき混ぜ続けることで、生み出される確立が高まるのだ!
だ!
だ!
日々、時間をかけて、様々な経験、理論を抽象⇔具体と
かき混ぜ続けることで、生み出される確立が高まるのだ!
だ!
だ!
つまりロジカルシンキングをしっかりと身につけ
実践することが、新たなビジネスを構想する上で
大きな武器となる、ロジカルシンキングが直感の支えとなる
というのが、私の結論だ。
このことに気づかされただけでも、
本書は大当たりだ、というわけである。
※実はこれ以外にも本当に学ぶことが多い書籍であった。
本書は大当たりだ、というわけである。
※実はこれ以外にも本当に学ぶことが多い書籍であった。
アマゾーンにもありますけれど、
確かに本書は抽象的過ぎる。。。
じゃあ具体的事例を書いてみたら???
これは大企業にしかあてはあまらない
経営者にしかあてはまらない
特定の業界の話だ
成功者の後付だ
経営者にしかあてはまらない
特定の業界の話だ
成功者の後付だ
具体的事例がすべての事例で当てはまるわけではない。
そこから一般化しないと!法則を導き出さないと!
抽象的で、理解できないということなので、
具体的に書いてみると、個別のケースにしか当てはまらない内容なので
自分自身にあてはめることができない。
抽象⇔具体の行き来は、本書を読む中でも
重要かもしれない。
成功者はそれをできたから、成功できた?
ロジカルシンキングが万能とは決して思わないけれど、
しかしロジカルシンキングは考えている以上に奥深いとは思う。
しかしロジカルシンキングは考えている以上に奥深いとは思う。
古典的名著を読む!30年間クセを作れていましたか?
久しぶりのブログである。
久しぶりすぎて、ブログのログインパスワードを忘れてしまうぐらいだ。
さて久しぶりの今回取り上げる書籍は、
ビジネス書である。
基本的にここでは、ビジネス書以外を取り上げて、
ビジネスに(それ以外の分野にも)応用できる読み方について
紹介している。
しかし、今回は、正統派のビジネス書だ。
『マッキンゼー 現代の経営戦略』
(大前研一編著 プレジデント社)
本書の編著者である大前研一は、
30年以上前に『企業参謀』という本を書き、
世界中でヒットをさせた。
同書は世界中でいまだに教科書として使われている。
今回紹介する本書は、その『企業参謀』の内容を
さらにトップマネジメント向けにした内容だ。
PPM(Product Portfolio Management)や
SFM(Sales Force Management)など、
現代的経営戦略に必須のマネジメント手法を丁寧に解説している。
企業戦略に関わる人間としては、必須の内容であろう。
と、実はこれは、30年前の書籍である。
30年前に発刊されたものが、一度絶版になり、
つい先月に復刊されたのである。
それまではアマゾンでは中古価格で6万円もの値がついていた。
それだけ価値が認められた書籍なのだ。
それが1,890円で読めるとは、プレジデント社も粋な計らいである。
さて、30年前に発刊されたものであるが、
内容は今でも色あせていない。
この混迷の時代にこそ求められている手法である。
30年も前にこれほどまでの手法を紹介しているとは
驚きである。
アマゾンの書評でも大絶賛である。
と、ばかり言っていてはいけない。
ここで大事なのは、30年たってもなお、
なぜここで紹介されている手法が、企業に役に立つのか、
ということである。
30年も前から企業は進化していないのだろうか?
ここを解き明かさないと、さらに30年たっても
変わらぬまま、という事態になりそうである。
本書の中では、6つの戦略手法が紹介されている。
そして、それを導入するには、定着させ習慣化させなくてはならないが、
そのためには数年の時間を要する、という主旨の記述が本文中にある。
すなわち、これらの手法は、企業文化として、いわば、「クセ」としなくては
いけないのだろう。
収益性改善プログラム PIP(Profit Improvement Prgram)にしても、
収益性を意識する、というクセをつけてこそ、
初めて意義のあるものとなる
間接費削減アプローチ OVA(Overhead Value Analysis)にしても、
コスト意識がクセになってこそ、意義が出てくる。
紹介されている中でもっとも有名であろう
PPM(Product Portfolio Management)でも、
投資は効果的にする、資源は全体最適したい
という姿勢をクセにすることが大事だろう。
これらの手法をまさに「ツール」と考えていたのでは、
結局一時的効果に終わり、成果を挙げぬままになってしまう。
それをクセにまでして、企業文化に定着させて
長期的な繁栄を手にするはずだ。
ダイエットでもそうだ。
太るのは、カロリーを摂取(キャッシュを手にする)してばかりで
排出(株主還元、設備投資、内部留保、適切な人件費)をせず、
体内に溜め込んでいる(無駄な経費、原価、無駄な人件費)ことが、
原因である。
それを改善するには、体内に溜め込まず、適切に代謝を
できる体質を作らないといけない。
そのためには、日々の生活習慣を見直し、
運動をする癖をつけ、代謝量を増やさなければ、ならない。
これすなわち、クセ作り、である。
一時的に断食して、体重を急激に増やしても
すぐにリバウンドしてしまうはずである。
なぜならそれは、体重コントロールのクセがついていないからである。
つまり、本書は、企業戦略のツールを紹介しているのではなく、
企業の体質改善のためのクセ作りの方法を紹介しているのである。
クセを作らないでいると、、、30年後にまた同じセリフを言っていることであろう!
さて、ちなみに、経営破たんした某老舗企業のターンアラウンドのために
CEOに就任した経験のある、マッキンゼー出身の方に直接お話を伺ったが、
企業再生のときには、OVAは時間がかかるので使わない、ということであった。
あたりをつけて、ここだと思った部分をすぐに大胆に切り捨てる、とのこと。
たしかに経営破綻時は、いわば怪我をした緊急時である。
まずはすぐに止血をして、手術が必要だ、
そんなときに時間のかかるリハビリだの体質改善だのを
している場合ではないのだろう。
確かにそこは一律的に考えるべきではない。
今回のポイントをまとめる
●まず「なぜ」を考える
●本書の本質はクセ作りのためのプログラムである
●クセができていないから、30年たった今でも使えそう!となる。
今回、30年前の書籍、ということで取り上げてみた。
本書に限らず、古典と呼ばれるものの本質について
考えるきっかけになれば、幸いである。
パラダイムを維持することで利益を得る人
孔子は、はじめから偉大な存在であったのではなく、
儒教が生き残ったからこそ、偉大なのです。
私は、かつてより儒教や孔子、論語に興味を持ち、
1年半ほど論語を学ぶ私塾に通っていたこともありました。
そこで感じたのは、「論語は、面白い!」ということです。
それは、よくある通俗的な人生訓や道徳話としてでは、決してなく、
文化人類学、思想史、民俗学、文献学、文字など、
学際的に読み解くことで、実に豊かな世界観、人間観が見えてきます。
論語について学ぶ中で、今回取り上げる本は
何度か手に取る機会がありました。
論語を学び続けるにあたって、
その折々で私に色々な示唆を与えてくれる書の
一冊となってくれたのです。
『儒教-ルサンチマンの宗教 』(浅野裕一、平凡社新書)
本書は、儒教の歴史をおった内容なのですが、
儒教の研究書としては、かなり異色のものといえるでしょう。
儒教というのは、もともとは祭祀の儀礼を
体系化させた教えです。
孔子の生きた時代というのは、紀元前5~6世紀で、
春秋時代と呼ばれていました。
『封神演戯』でもよく知られる殷の紂王を討伐し、
打ち立てられたのが、周王朝です。
その周王朝初期の武王や文王の時代が
理想の時代と呼ばれていました。
孔子は、その後、周王朝の衰退によって散逸してしまった
古今の儀礼をまとめた、といわれています。
各地の周王朝の末裔をたずね、伝承を聞き
それをまとめた、と孔子自身が論語の中で述べています。
このことを、後世の儒学者や、“孔子好き”は
孔子の儀礼への博識をたたえたり、勉強熱心、と評するわけです。
しかし、本書では、出自の怪しい(巫女の私生児?)孔子が、
本来、王や貴族のものであった祭祀儀礼について
知るわけはない、と断じています。
「それはあたかも、密林に分け入ってインディオの古老から
古伝承を聞き出し、彼らのおぼろげな記憶から、
インカ帝国全盛時の王朝儀礼を復元しようとするのに似ている」
と本書では述べられています。
その通りでしょう。
孔子のいた時代と、孔子がその伝承を受け継いだといっている
文王・武王の時代は数百年も隔たりがあります。
儒教のパラダイムの中で見ると、孔子の言行は
聖人の行いとして評価されますが、
いったんパラダイムの外から見てみると、
また違った面が見えてきます。
本書は、孔子素王説の成立を歴史的に解明していきます。
孔子は出自は低かったが、生まれながらにして、
王者の素質を備えていた。本来は王者になるべき人物であった
=素王説を広めることで、
儒教の地位も高めようと、儒学者が画策していきます。
儒教の泣き所は、孔子が王者になれなかった点にあります。
徳を備えている人物は、王者になる、と孔子自身が
唱えているのに、その孔子が王者になれなかった・・・
この儒教の根本を覆す矛盾を、孔子素王説によって
補完しようとしたのです。
これが、儒教パラダイム成立の基になっていきます。
「私は、儒学者じゃないから、パラダイムの外にいる」
といっても、そうはいきません。
なぜなら、日本は、江戸時代から確立した儒学教育の
影響下にあるから、儒教に詳しくない人でも
知らず知らずのうちに、パラダイムの中にいるのです。
それどころか、パラダイムの正統的な教育を受けたからこそ、
論語を古臭く、説教くさい退屈なもの、と感じて遠ざけてしまい、
ますます論語や孔子への理解がなくなってきてしまいます。
本書はこのパラダイムを見事に打ち壊してくれることでしょう。
それでは、本書で怪しいと断言されてしまった孔子が
なぜ偉大な聖人と呼ばれているのでしょう。
それは、漢王朝以降、儒教が体制に取り込まれ、国教となり
儒教の地位が安定的に確立したからです。
以降、儒教と孔子の地位のアップダウンの歴史が書かれていますが、
基本的には右肩上がりといっていいでしょう。
歴代王朝の皇帝も、儒教、孔子の前に屈服してしまったのです。
それは、かつて、権力によって弾圧されていた
キリスト教が、後世「カノッサの屈辱」によって
権力を跪かせたことと、重なります。
それでは、そもそも、なぜ、儒教は漢代で国教となりえたのでしょうか。
孔子の死後、弟子たちによってその教えは広まってきました。
諸子百家の時代を向かえ、儒家のほか、墨家、
法家、道家など、さまざまな学派が生まれました。
儒教は、その一学派に過ぎませんでした。
それどころか、秦の時代には、有名な焚書坑儒によって
儒家が弾圧されてしまいます。
この冬の時代をどのように乗り越えて、
その後に隆盛を誇るようになったのでしょうか。
諸説あります。
漢王朝の前の秦は、戦国時代から続く諸侯で、
王宮の儀礼についても、先祖伝来のものがあります。
しかし、漢王朝は、一役人出身の劉邦が打ち立てたものであるため、
儀礼の伝統がなく、儀礼のノウハウを持つ儒学者を重用するようになった、
というものが、私の納得するストーリーです。
儒教が、国教となったからこそ、孔子は偉大な存在となりました。
もし、儒教が、国教とならなかったら、焚書坑儒によって消えてしまったら・・・
私たちは、普段、パラダイムの中にいることは、
気がつかずに生活をしているものです。
そしてそのパラダイムは、様々な思惑によって
成立していることがあります。
パラダイムが維持されることで、利益を得る人もいます。
ある時、ふと、私たちは、そのパラダイムに疑問を持つことがあります。
しかし、パラダイムから利益を得る人からの必死の説得、抵抗、脅迫により、
その疑問を捨て去ることを強要されてしまいます。
まず、そのパラダイムがなくなったら、どうなるだろうか、
そう考えることから、第一歩となるかもしれません。
パラダイムは所詮、人間が作り出したもの。
そのパラダイムがあることが、人間の幸せを妨害するのであれば、
パラダイムは変えてしまえばいい、ともいえるでしょう。
本書では、儒教パラダイムがどのように確立されてきたか、
を見ることが出来ます。
現代の私たちの儒教に対する見方は、
このパラダイムの影響下にあります。
このパラダイムから脱却することから、
真の儒教理解が始まるといってもいいかもしれません。
そして、私は、このパラダイムの外から見ても、なお、
この人類最初期の思想家である孔子は偉大であり、
儒教は面白い!と断言いたします。
儒教が生き残ったからこそ、偉大なのです。
私は、かつてより儒教や孔子、論語に興味を持ち、
1年半ほど論語を学ぶ私塾に通っていたこともありました。
そこで感じたのは、「論語は、面白い!」ということです。
それは、よくある通俗的な人生訓や道徳話としてでは、
文化人類学、思想史、民俗学、文献学、文字など、
学際的に読み解くことで、実に豊かな世界観、
論語について学ぶ中で、今回取り上げる本は
何度か手に取る機会がありました。
論語を学び続けるにあたって、
その折々で私に色々な示唆を与えてくれる書の
一冊となってくれたのです。
『儒教-ルサンチマンの宗教 』(浅野裕一、平凡社新書)
本書は、儒教の歴史をおった内容なのですが、
儒教の研究書としては、かなり異色のものといえるでしょう。
儒教というのは、もともとは祭祀の儀礼を
体系化させた教えです。
孔子の生きた時代というのは、紀元前5~6世紀で、
春秋時代と呼ばれていました。
『封神演戯』でもよく知られる殷の紂王を討伐し、
打ち立てられたのが、周王朝です。
その周王朝初期の武王や文王の時代が
理想の時代と呼ばれていました。
孔子は、その後、周王朝の衰退によって散逸してしまった
古今の儀礼をまとめた、といわれています。
各地の周王朝の末裔をたずね、伝承を聞き
それをまとめた、と孔子自身が論語の中で述べています。
このことを、後世の儒学者や、“孔子好き”は
孔子の儀礼への博識をたたえたり、勉強熱心、と評するわけです。
しかし、本書では、出自の怪しい(巫女の私生児?)孔子が、
本来、王や貴族のものであった祭祀儀礼について
知るわけはない、と断じています。
「それはあたかも、密林に分け入ってインディオの古老から
古伝承を聞き出し、彼らのおぼろげな記憶から、
インカ帝国全盛時の王朝儀礼を復元しようとするのに似ている」
と本書では述べられています。
その通りでしょう。
孔子のいた時代と、孔子がその伝承を受け継いだといっている
文王・武王の時代は数百年も隔たりがあります。
儒教のパラダイムの中で見ると、孔子の言行は
聖人の行いとして評価されますが、
いったんパラダイムの外から見てみると、
また違った面が見えてきます。
本書は、孔子素王説の成立を歴史的に解明していきます。
孔子は出自は低かったが、生まれながらにして、
王者の素質を備えていた。本来は王者になるべき人物であった
=素王説を広めることで、
儒教の地位も高めようと、儒学者が画策していきます。
儒教の泣き所は、孔子が王者になれなかった点にあります。
徳を備えている人物は、王者になる、と孔子自身が
唱えているのに、その孔子が王者になれなかった・・・
この儒教の根本を覆す矛盾を、孔子素王説によって
補完しようとしたのです。
これが、儒教パラダイム成立の基になっていきます。
「私は、儒学者じゃないから、パラダイムの外にいる」
といっても、そうはいきません。
なぜなら、日本は、江戸時代から確立した儒学教育の
影響下にあるから、儒教に詳しくない人でも
知らず知らずのうちに、パラダイムの中にいるのです。
それどころか、パラダイムの正統的な教育を受けたからこそ、
論語を古臭く、説教くさい退屈なもの、と感じて遠ざけてしまい、
ますます論語や孔子への理解がなくなってきてしまいます。
本書はこのパラダイムを見事に打ち壊してくれることでしょう。
それでは、本書で怪しいと断言されてしまった孔子が
なぜ偉大な聖人と呼ばれているのでしょう。
それは、漢王朝以降、儒教が体制に取り込まれ、国教となり
儒教の地位が安定的に確立したからです。
以降、
基本的には右肩上がりといっていいでしょう。
歴代王朝の皇帝も、儒教、孔子の前に屈服してしまったのです。
それは、かつて、権力によって弾圧されていた
キリスト教が、後世「カノッサの屈辱」によって
権力を跪かせたことと、重なります。
それでは、そもそも、なぜ、儒教は漢代で国教となりえたのでしょうか。
孔子の死後、弟子たちによってその教えは広まってきました。
諸子百家の時代を向かえ、儒家のほか、墨家、
法家、道家など、さまざまな学派が生まれました。
儒教は、その一学派に過ぎませんでした。
それどころか、秦の時代には、有名な焚書坑儒によって
儒家が弾圧されてしまいます。
この冬の時代をどのように乗り越えて、
その後に隆盛を誇るようになったのでしょうか。
諸説あります。
漢王朝の前の秦は、戦国時代から続く諸侯で、
王宮の儀礼についても、先祖伝来のものがあります。
しかし、漢王朝は、
儀礼の伝統がなく、儀礼の
というものが、私の納得するストーリーです。
儒教が、国教となったからこそ、孔子は偉大な存在となりました。
もし、儒教が、国教とならなかったら、
私たちは、普段、パラダイムの中にいることは、
気がつかずに生活をしているものです。
そしてそのパラダイムは、様々な思惑によって
成立していることがあります。
パラダイムが維持されることで、利益を得る人もいます。
ある時、ふと、私たちは、
しかし、パラダイムから利益を得る人からの必死の説得、抵抗、
その疑問を捨て去ることを強要されてしまいます。
まず、そのパラダイムがなくなったら、どうなるだろうか、
そう考えることから、第一歩となるかもしれません。
パラダイムは所詮、人間が作り出したもの。
そのパラダイムがあることが、人間の幸せを妨害するのであれば、
パラダイムは変えてしまえばいい、ともいえるでしょう。
本書では、儒教パラダイムがどのように確立されてきたか、
を見ることが出来ます。
現代の私たちの儒教に対する見方は、
このパラダイムの影響下にあります。
このパラダイムから脱却することから、
真の儒教理解が始まるといってもいいかもしれません。
そして、私は、このパラダイムの外から見ても、なお、
この人類最初期の思想家である孔子は偉大であり、
儒教は面白い!と断言いたします。
