「親友がいなくなって5年」って書いてあるね↑ 10年じゃなかったね。さすがに遠野は10年も待たねェか(苦笑)。

 

『『やがて海へと届く』――詩を観ているような映画』から続き。

 

『やがて海へと届く』についてまだ言い足りないことがあるんで。

(※以下バリバリ ネタバレあり)

 

楢原の自殺の理由は描かれてないが、わかる気がする。

初老で、落ち着きと優しさに満ちた楢原は好きな音楽は実はヘヴィメタでメタリカとかを聴いていたみたいな話をする。で なんだっけ、「いつから聴かなくなったんだろう…」だっけ? なんかそんなようなことを言う。

このことについて考えた時、ある人を思い出したのだった。

テレビドラマ『ビーチボーイズ』

『映画の観方-Ⅲ ▼映画から学ぶ人間の在り方⑥‐1』

『映画の観方-Ⅲ ▼映画から学ぶ人間の在り方⑥‐2』

の民宿のオーナー、勝。

かつて勝はサーファーで、それで海辺で民宿を始めたのだが、いつしかサーフィンをしなくなり、やがて“ただの民宿のオヤジ”になって今に至る、と。「ただの民宿のオヤジになっちまってよ…なっちまったんだよな…」

勝のことを思い出した瞬間、楢原の自殺が理解できたのだった。

勝は広海と海都によって昔の自分というか本当の自分を取り戻した。(…けど、取り戻したがゆえに尊厳死を選択するのだけど。)

楢原は社会人としての日々に埋もれてかつての自分・本当の自分がどんなだったか最早わからなくなってしまったことに絶望して自殺した、

あるいは、昔の自分を思い出してしまったがゆえ、今の自分に… こうなってしまった人生・やり直そうにもとっくに歳食ってしまった自分に耐えられなくなって自殺したのかもしれない。

間違いないだろう。

自殺についてくどくど説明したりその為にわざわざ別にシーンをこしらえたりせずに、音楽に関するちょっとの会話のやり取りだけで、実はそこに彼の自殺の理由が示されてたんである。無駄がないし、それにそこを詳細にやったらかえって薄っぺらくなってたんじゃないか? 具体的に描いたらそれ以上でも以下でもなくなるが、具体的に描かなかったからこそ、楢原の失意か絶望か、は程度が規定されることがない。取りようによってはマリアナ海溝より深くなる。

(俺が心霊番組で大嫌いなのは体験者の話を再現ドラマにすること。話だけ聞いてると想像力を喚起され、想像力には際限がない(まぁ実際には無制限ではないけど)。しかし再現ドラマをやってはっきり映像で提示しちゃうとそれで描写は決定してしまい、その話の恐怖には上限が出来てしまう。具体的に描写するより、観客や視聴者の想像力に委ねた方が怖さが上がるんである。それと同じ。)

勝のサーフィンでの尊厳死と楢原の首吊り自殺はどちらも平たく言えば自死ではあるが、内実はまったく違う。やはり勝は「尊厳死」であり、楢原は「自殺」なんだよ。

…それでだ、片面云々という話でいうと、職場の従業員たちが見ていた楢原は社会人としての楢原であり、人間一個人としての楢原ではなかった。

『ビーチボーイズ』のエントリでも話したけど、ちゃんとしてる社会人と、ちゃんとしてる人間は、実は同一でもなければ連動もしない。社会的云々は精神性とか魂とはなんの関係も無いからだ。

仕事で自分の存在意義を証明しようとするのは見当違いで、むしろ自分というものが無い人が仕事に自分の価値や人生の意味を見出そうとする。

それはヒエラルキーにこだわる奴もそうで、自分が無いから序列に固執する。

だからそうした人間はリストラされてクビになったり定年退職したりすると途方に暮れる。何したらいいかわかんない。それって実は中身が空っぽだったってわけで。数十年生きてきて自分が無いって、今まで一体何してきたんだよって話。

そういう奴こそが人生に失敗した奴であってね。たとえ以前どんな偉い肩書であってもすごい金稼いでても、実はなんにもなかった奴であって。

自分が有る人は仕事は目的ではなく手段であることが解かってる。また、ナンバーワンよりオンリーワンを目指す。

楢原は店の店長だから、社会的にはまぁそれなりといえばそれなりではある。偉いというほどではなくても、少なくとも傍目には人生に失敗した敗残者というふうには見えないだろう。

でも当の本人は私はどんな人間だったのか―― あるいはこんなはずじゃなかった… と思ったわけだ。

それが長らく悩んでた果てに自殺したのか、なんか急にそのことについてふっと思ったら止まらなくなってやってしまったのかはわからない。

でも社会人としての自分と本質の自分は違うってことは事実で、『ビーチボーイズ』のエントリでも言ったけど、

「何を目指してるかって質問に対して、職業を答える人が圧倒的に多いよね。あれ、おかしいぞ。端から仕事に生きる動機があると思い込んでる、あるいは思い込もうとしてる、もしくは見出そうとしている。それは違うな。

お前じゃなくてもやれる奴はいくらでもいる、お前の代わりはいくらでもいる、そんなものは「俺の(あたしの)何か」じゃねーんだよ。」

楢原は定職に就いてるし定収入もあるし肩書もあるし、世間体も問題ないだろうし、やがて退職金も出るし年金も支給される。

しかし近代以前ではない人間にとって生きてるってそういうことじゃないだろう。ただ生きてるだけ(肉体が生命活動を続けてるだけ)なら、昆虫や稼働し続ける機械と何が違うんだ。

好きなもの、本当にやりたいこと、信念、個性、そういった自分が自分で在る何かしらが無いのなら、生きてる意味などあるのか。(近代以前の人間にはそういう概念はなかったらしいけど、我々はもうそういう概念があることを知っている。あるいは進化の中でそういう概念を生み出したというべきなのか。)

…社会の歯車としてだけ生きてる人は社会的には存在意義はあるんだけど、まぁ楢原の場合、世の中の人にとって飲食店は必要であり、店に店長は必要だからね。

でも楢原個人の存在意義が無い。事実楢原が亡くなったら、本社?から別の社員が送られてきて店長はすげ替えられて店は存続してくわけで、そんなものは「俺の(あたしの)何か」ではない。

仕事と自分の魂はイコールではない。

(イコールである職業も少ないけど存在する。そうだなぁ…例えば才能や表現力やテーマ性のある物書きとか音楽家とかプロレスラーとか映画作家とか… そういうのは仕事と自分の魂がイコールなケース。でも世の中の大半の職業は代替がきくものであって自分固有の何かではない。)

バカは社会的な居場所と自分の存在価値をイコールだとカン違いしてるからそんなこと気にしない(気づかない)んだけどね、

でも楢原はそのことに思い悩んでいた、あるいはそのことに気づいてしまった。

従業員たちは店長・楢原しか知らず、一個人としての楢原を知らないから、突然自殺したように見える。それが「世界の片側しか見えてない」ってやつなんだろう。

 

なんで震災が出てくるのかわからないと言ってる奴が結構いるようだが、

テーマは死んでしまった人あるいは突然いなくなってしまった人への心の持ち方、なのだろう。だから「行方不明者」も「自殺した人」も「災害で亡くなった人たち」も等価なのだ。

自殺者と災害で亡くなった人はある意味正反対なんだけどね、生き続けていたかったのに突然命を奪われた人と自ら命を絶った人は真逆といえるんだけど、「死んでしまった人あるいは突然いなくなってしまった人への心の持ち方」を描くんだから正反対ではなく等価にみる。

この3つ以外のケース、病気で亡くなったとか大往生などは不条理さがなく周囲が受け入れやすい亡くなり方なので除かれる。

あと「殺害された人」「人災で死んだ人(意図的な殺人ではないが車に轢かれてとか…福知山線脱線事故とか… 挙げたらキリないけど人災といえる死に方)」というケースがあるのだけど、これを入れなかったのは軸がブレるからじゃないか? これらのケースは別のテーマ性やドラマを孕んでしまう。あとギスギスしたものは入れたくなかったんだろうね。優しく穏やかに死に向き合うあたたかな映画にしたかったのだろう。

「人災ではない事故で亡くなった人」というケースもあるが、これは「災害で亡くなった人たち」のケースに集約してると思う。「行方不明者」のすみれと「自殺した人」の楢原は個的であり、それでは扱うケースがこじんまりとなる。ここに「災害で亡くなった人たち」を並列すると個的な死のドラマに収まらずもっと広く全般的になる。個的な死だけだとテーマ性が矮小化されてしまいかねず、これまた軸がブレる。これは個人的な範疇ではなく、生きとし生ける者すべてに向けて作りたかった映画なのではないか? すみれと楢原と単一の「人災ではない事故で亡くなった人」だと個的なドラマとして見て済ませてしまう観客が多いだろう。

いや「災害で亡くなった人たち」もそれぞれは個的なケースじゃないのか?と言われそうだが、ここでポイントなのはすみれと楢原は真奈の関係者だが、東日本大震災の被害者は真奈にとっては赤の他人であることだ。

知ってる人の死や失踪を想うのは当たり前だが、本作はそこに収まってない。知ってる人の死だから想うのではなく、人の死そのものについて想う。

だから「災害で亡くなった人」のケースは必要なのだ。

(今繰り広げられてる真っ最中であるロシアがウクライナに仕掛けた戦争(というかテロというか…)の被害者たちに対して、世界中で心を痛めてる人がいて、俺も赤の他人であるけど海を隔て8000km以上も離れたここ日本からいろいろ思うところがあるわけだよ、人として。

ただ、(本作製作時にまだこの戦争は起きてなかったというのはちょっと置いといて)3つ目のケースにこういうケースを据えられるかというと、「殺害された人」「人災で死んだ人」のケースと同様の理由によって戦争ではなく、やはり震災の被害者を据えただろう。)

で、等価でみるにはそれぞれを並べないとならない。

…押井守の『イノセンス』は肉体というものに対する意識について描いた映画で、ある事件の捜査の過程でサイボーグと動物と人形が並列されるように展開してく。というか並列してみせることこそテーマというか表現で、事件の捜査という物語性は観る人が入りやすいように付けた外枠というか順路というか、に過ぎない。物語がないと見れない奴が多いし。

それと似たようなもんだと思うんだよね。

「死んでしまった人あるいは突然いなくなってしまった人への心の持ち方」を描くにあたって、真奈をナビゲーターに、あるいは真奈を観客の代理として、消息不明になった親友すみれから始まって自殺した職場の良き上司楢原、そして楢原の死をきっかけにすみれが最期に居た可能性のある宮城県沿岸部へ行って震災で亡くなった人(の近親者)が登場、と展開する。

物語で見てると「並列」という概念がみえてこないんだよ。基本的に物語というのは始まりから結末へ向かって1方向に進んで1つの着地点に向かうものだから。客もそれを求めるし。

しかし映画はそもそも物語をやるのに適してないし(物語が展開してる時映画は停止している、映画が展開してる時物語は停止している、ってやつよ)、『イノセンス』は3つのケースを並べて“あなたはどれを選ぶ?” “あなたはどう思う?”と観客に問いかけるものであり、『やがて海へと届く』は3つのケースを通過した果てに心があるところに辿り着く=「並列」を経てないとこの結論に行き着かない。

それでいったら『魔法少女まどかマギカ』もそう。まどかは他のコたちと違って複数の魔法少女たちの死に様をみてきたからこそ それを咀嚼・検討したうえで自分の結論を出し、最後あのクライマックス~ラストと相成る。マミのことしか知らなかったらあぁいう答えはまず出してない。マミ・さやか・杏子・ほむらのそれぞれのケースを見てきた(=並列)からこその、あの結論。

…『やがて海へと届く』に戻って、おそらく死んでなくても突然アタシあるいは僕の前からいなくなった人も並列の中に含まれると思われる。これは例えば友達だと思ってたのに突然ブロックされたとか配偶者から予期せずいきなり離婚を切り出されたとか… そういうケース。これも「私たちには、世界の片面しか見えてないと思うんだよね」に該当する。

だからすみれは震災で亡くなったのかどうなのかがハッキリしない描かれ方なのではないか? (そして構成上、海を見に行ってたことが災害で命を絶たれた人のケースに繋げることが出来る。)

本作は『イノセンス』と違い着地点があるんだけど、この着地点は普通の一方向展開で帰結する物語とは違って「並列」の概念がないと辿り着かない結末・結論なんだよ。

 

ネットで本作の感想見ると腹立たしいものが多いのだが、その中にあって珍しく俺が“なるほど”と思ったのは(100件程度読んだ中で)1つだけ、「人によって必要な時間は異なる。母や遠野くんはただ真奈より早かっただけで国木田さんはおそらく既に誰かを喪失していただけの事なのだと思う。というか、家まで行くぐらいだからそれも初めてでは無かったのかもしれないし」(←Filmarksのレビューの中にある)と書いてる人がいて、なるほどなーと思ったのだった。

楢原が来ないからといって、なぜ国木田は楢原の家まで確認しに行ったのか? 国木田には同様のケースの経験がすでにあったのではないか?というのである。

「母や遠野くんはただ真奈より早かっただけ」なのかどうかはともかく(すみれの母や遠野の心の決着の仕方と真奈の心の決着の仕方は違くないか?)、国木田についての推察には非常に合点がいったのだった。

あと他の人で「続けば続くほど、物語りが深く深く掘り下げられてゆく。気がつけば、凄いところに着地。」とか「コポコポと真奈(岸井ゆきの)の心の奥底に潜っていくような感覚…」という感想もいい感想だと思ったけど。

 

 

 

先日引退した東京女子プロレスの女子レスラー・天満のどかの引退式のコメントが泣けたと書いたが、時に笑いを挟み、時に泣きそうになりながら、ユーモラスで可愛らしい声音と話し方で、こう言ったのだった。

(文章で読むと早く読んでしまうが、実際の語り口調はゆっくりでしみじみしている。映像はYouTubeの東京女子プロレス公式チャンネルで『みんなの愛がギュっと詰まったセレモニー!約6年2ヶ月、東京女子プロレスを明るく照らしてくれてありがとう!天満のどか卒業記念大会 3.26大手町三井ホール』というタイトルでアップされているので、読むより映像で見てほしいんだけど…)

「もうすぐ2年くらい経つんですけど、ちょうど2年前の新型コロナが流行り始めた頃、東京女子プロレスをずっと応援してくれているファンの方が、突然亡くなっちゃいました。その人は私とかマリカとか、もう1人同期で優宇ってのがいるんですけど、私たちのこともずっと練習生の時から応援してくれてて、人一倍声援を出して会場を盛り上げてくれる人でした。

…今でもその人が、なんかこういう時だったらこういうふうに声出してくれるんだろうなとか、こういうこと言うんだろうなっていうのが、選手のみんなは、たぶん頭に流れるように、そんな体になってるんです。

あの…私メチャクチャおじいちゃんっ子で、メッチャおじいちゃんが好きだったんですけど、おじいちゃんメッチャ仕事はできるけど、んーと、ちょっとスケベで(会場・笑)、家じゃどうしようもない感じのじいちゃんだったんですけど、けど大好きで、でもそのじいちゃんは退職してボケて、最期はステーキを喉に詰まらせて死んじゃったんです。大好きなステーキだったから、それもそれでいいのかなって思うけど、今でもステーキ食べる時おじいちゃんのこと思い出すし、この映画おじいちゃん観たかったんだろうなっていうのもいまだに思い出すし、今プロレスラーやってんだって いやもう卒業なんですけど、プロレスラーなんだって言ったらイジられるんだろうなって思いながら、

なんか、そんな感じでこう ふとした時に突然いなくなった人のことをやっぱり思い出しちゃうんですよね。

なんか、こう、後悔しないように生きようと思っても、ちょっとした後悔とかあるじゃん、なんかこう、あんなふうに言わなきゃよかったとか、ごはん少なめって言えばよかったとか(観客・笑)、…なんかそういうひとつひとつが、いつ言えなくなるかわからないし、いつありがとうって言えなくなるかわからないし、いつごめんねって言えなくなるかもわからないから、東京女子の子たちには出来るだけありがとうとか、ワシめっちゃいい人みたいにみんな書いててくれたけど、ありがとうとかごめんねとかあんまり素直に言えないタイプだったから、東京女子で言えるようになったと思ってるし、みんなにだったらそういうところ見せられるなって、思ってた、ほんとに大切な仲間たちです。

…みんなが応援してくれた天満のどかという時間と、のどかおねえさんという時間と(※「天満のどか」の前に「のどかおねえさん」というキャラでやってた)、本当に、ありがとうが言いきれなかったんだけど、一生この時間を宝物にして、東京女子の仲間も宝物にして、これから違う道ではありますけれども、みんなのことを今度はお客さんみたいに、いっぱい応援したいなって思ってます。

…皆さんは、言える時に、言いたい気持ちとかは言って、やりたいこともやって、会いたい人には、できるだけ会って、皆さん…長生きしてくださいっ ありがとうございました!」