日本と中国〜日出ずる処の天子〜 | ゆだぽんの♬虹色オーラ♬ブログ

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お寺や神社巡りで感じた事や、不思議な話・オーラについて…などなど書いています。

昨日は「目黒学園カルチャースクール」の日✨
関裕二先生の講座を受講してまいりました♬

『日本と中国』
〜第3回 日本は小中華を目指したのか〜




大陸国家の文化と発想を理解する必要性
朝鮮半島の歴史のキーポイントは新羅
倭国に送り込まれる人質
裴世清と小野妹子
日出処天子の意味とは
古代日本は中国文明に憧れていたのか⁇
などなど♪ 

個人的には「人質」という言葉に心惹かれました♡
人質とされたたくさんの人たちのそれぞれの人生に興味が湧きました。

人質になって引き渡されてみたい
とか妄想したり♪




講座の内容の一部を関先生の講座の資料より、ちょこっとだけご紹介いたします。


『日出ずる処の天子』

飛鳥時代の607年、聖徳太子が小野妹子を隋に派遣し、翌年に煬帝に謁見します。この時に小野妹子は、聖徳太子が煬帝にあてた国書を提出するのですが、この国書にはあの有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや」という文が書かれていたため、煬帝は不快になったといいます。

ですが遣隋使の目的の一つが仏教興隆ということ、高句麗との関係が不安定という状況もあって、煬帝も追い返すことはしませんでした。小野妹子が帰国する際には、裴世清(はいせいせい)を日本への使節として派遣しました。裴世清は歓待を受けました 

裴世清の帰国に際して、小野妹子が再び隋に派遣されることになるのですが、この時に高向玄理や僧旻・南淵請安などの錚々たるメンバーが同行し多くを学び、帰国後に大いに活躍することになるのです。

講座では
なぜヤマトは「日出ずる処の天子」と国書に書いたのか?について諸説交えながらのお話をお聴きすることができました。

ー関裕二先生の講座資料を参考にしていますー




3回にわたる「日本と中国」のご講義。
まとめとして最後にお話しされた内容を、老若男女多くの人に知って欲しいなとあらためて思いました☆







☆本日は占いサロン「青琴会」 

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