騒乱の日本古代史〜白村江の戦いと粛慎〜 | ゆだぽんの♬虹色オーラ♬ブログ

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お寺や神社巡りで感じた事や、不思議な話・オーラについて…などなど書いています。

先週の土曜日は新潮講座の日✨


🍀歴史作家『関裕二』先生🍀

第2回 騒乱の古代日本史

〜白村江の戦いと壬申の乱〜


を受講してまいりました❗️





2回目は「白村江の戦いと壬申の乱」について

伽耶の国とは?

乙巳の変のカラクリ

なぜ白村江の戦いが起こったのか

百済・新羅・唐それぞれの事情

白村江の戦いの後の状況

保身が得意な天智天皇

などなど♪



個人的には、なかなか頭に入りにくい当時のアジア情勢…特に伽耶とはどんな国でどのような役割があったのか、いつ栄えていつ滅んだのかなど、とても分かりやすいお話で、少し理解が進んだ気がして頭がスッキリいたしました!初めて聞く粛慎(みしはせ)のお話も面白かったです。





講座のお話の中から

「粛慎(みしはせ)」

についてご紹介いたします。


関先生の資料を参考にさせていただいております。

欽明天皇と斉明天皇の部分は自分で調べました。


粛慎については、恥ずかしながらこの日の講座で初めて耳にしました。


粛慎とは日本書紀や続日本紀に記述が見られる民族です。斉明4年(658)に粛慎の人々(中国東北地方とロシア沿岸部の人々)が東北の日本海側に出現し、蝦夷たちがヤマト政権に救援を要請。阿倍臣が成敗しています。


日本での最も古い記録は

欽明天皇5年(544)12月に佐渡島に粛慎が漂着した、というものです。


越(こし:現在の北陸地方)の国からの報告によれば、佐渡島の北の御名部(みなべ)の海岸に粛慎人がおり、船に乗って来て留まっている。春夏は魚をとって食料にしている。かの島の人は人間ではないと言っている。また鬼であるとも言って、島民はあえてこれ(粛慎人)に近づかない。


斉明天皇の時代には、蝦夷を支配下に置こうとした政策が行われ、越の国の国主であった安倍臣が征討しています。


この粛慎は白村江の戦いの直前に、日本海側へやって来ていますが果たしてその意味とは⁇





来月はいよいよ新潮講座の最終回⭐️


ご講義も楽しみですが。。。

ウルウル〜な回になりそうです💖




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