怨霊の記事に入る前に、一体どのようにして「怨霊」というものが意識されていくようになったのか、その歴史をご紹介したいと思います(^^)
タイトルにもある「御霊」とは亡くなった人の魂の美称で、「御霊信仰」とは悲運のうちに命を落とした人の霊魂の祟りに対し、その霊魂の怒りを丁重に慰めることで平穏を回復しようとする信仰をいいます。
「祟り」とは元々は神様の意思で、疫病という形で現れると考えられており、その祟りを鎮めるお祭りや、禊などで疫神の侵入を防ぐことが行われてきました。
それがだんだんと神観念も変化し、非業の死を遂げた人の霊魂(御霊)が荒れすさぶことで、疫病や天変地異などの祟りをなすと考えられるようになっていったのです。
そしてそれらの御霊を鎮魂し慰撫するためのお祭り「御霊会」がしばしば行われるようになりました。
初めての御霊会は貞観5年(863)。
京都の神泉苑で行われました。
この御霊会はなんと庶民の見物が許されていたそうで、大勢の人々が参加し熱狂。
この民衆の熱狂と舞楽などの芸能が御霊を鎮め、疫病や災厄を退散させる力になると信じられていたのです。
この時の御霊会では6柱の御霊「六所御霊」が祀られました。
崇道天皇(早良親王)
伊予親王
藤原夫人(藤原吉子)
橘大夫(橘逸勢)
文大夫(文室宮田麻呂)
観察使(藤原仲成もしくは藤原広嗣)
ちなみにこの6柱に2柱の御霊
吉備聖霊(吉備大臣)
火雷神(菅原道真とすることが多い)
を追加した「八所御霊」が、京都の上御霊神社・下御霊神社に祀られています。
そして伊予親王と観察使に代わり、井上大皇后(井上内親王)・他戸親王が祀られています。
それ以降、御霊会はしばしば行われていくのですが、御霊の中には神社のご祭神として恒常的に祀られるケースも出てくるように。
代表的なものが牛頭天王を祭る祇園御霊会で、天禄元年(970)に始まり、数ある御霊会の中では大規模の祭礼として展開、「祇園祭」として発展しました。
怨霊というのはだいたい天皇か、それに近い皇族が多いです。
代表的なのが
崇徳院・平将門・菅原道真
でしょうか。
昔は少しでも怪しいと思ったらすぐに祀っていましたから、怨霊とされた貴人の数はとても多いです。
皆さん本当に怨霊だったのか?
ということは置いておいて、あくまで歴史主体で記事を書いていこうと思います(^^)
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