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万葉集の歌とともにご紹介いたします![](https://emoji.ameba.jp/img/user/ha/hare-wataame0918v/2492.gif)
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第37代斉明天皇は、第35代皇極天皇の重祚ちょうそです。重祚とは、いったん退位した天皇が再び即位することで、大化改新後に即位した孝徳天皇の崩御を受けてのことでした。
ちなみに。。。
歴史上で重祚したのは2人だけで、この皇極天皇(斉明天皇)が最初の例です。
もう1人は、この時代の後半に登場してくる孝謙天皇(称徳天皇)です。
通常であれば皇太子の中大兄皇子か、孝徳天皇の息子である有間皇子が皇位を継ぐところなのですが、中大兄皇子はみずから天皇になることはせず、皇位を退いていた母の皇極上皇を推して再び皇位に就かせ、斉明天皇としたのです。
中大兄皇子はなぜすぐに即位しなかったのか…ですが、これは過去記事でも触れた通り、孝徳天皇の妃の間人皇后、つまりは実の妹とタブーな関係にあったからではないか、ともいわれています。
そんなわけで、政治の実権は中大兄皇子に集中し、孝徳天皇は生前とても不本意な思いを強いられたとも…その死もなんだかダークな感じがしないでもないですが…
そんな様子を見て育った有間皇子は、父の崩御後は政治的に孤立状態に。。。
身の危険を感じていたのか、日本書紀によれば、有間皇子は狂人を装って暮らしていた、とあります。
そんな努力もむなしく、有間皇子は結局は皇位継承がらみの血なまぐさい陰謀からは逃れることが出来ませんでした。
斉明天皇3年(657)の9月、紀伊の牟婁むろの湯(現在の和歌山県白浜温泉)へ療養に出かけた有間皇子は、帰京後にその地の素晴らしさと病が癒された旨を、伯母である斉明天皇に伝えると天皇はとても喜び、翌年に中大兄皇子を引き連れて牟婁の湯に行幸しました。
過去記事でご紹介した額田王の難訓歌も、この時に詠まれたものと伝えられています。
そしてこの斉明天皇御一行の行幸の最中に、後世「有間皇子の変」と呼ばれることになる事件が起こるのです。
有間皇子は、留守官として残った蘇我赤兄に巧妙な謀略を仕掛けられ、謀反を企てた罪に問われることに…
もちろん蘇我赤兄は、中大兄皇子の意を受けて有間皇子に近づいたのは間違いないと思われます。
囚われの身となった有間皇子は、中大兄皇子の尋問を受けるために牟婁に連行されました。
この途中、岩代(現在の和歌山県日高郡みなべ町)で有間皇子が詠んだ二首の歌が、万葉集に遺されています。
有間皇子自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首
岩代の 浜松が枝を 引き結び
ま幸(さき)くあらば またかへり見む
(岩代の浜松の枝を引き結んで無事を祈る。幸い無事でいられたら、また立ち帰って見ることもあろう)
家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕
旅にしあれば 椎の葉に盛る
(家にいたなら器に盛る飯を、草を枕とする旅にあるので椎の葉に盛ることだ)
最初の歌にある、木の枝を結ぶ行為は、そこに自分の魂を結び込めて無事を祈るという、旅の手向けの呪術です。
二番歌も、岩代の神に神饌を供えて身の安全を歌ったとされ、有間皇子の不安な心情が伝わってきますね。
その願いもむなしく、尋問の翌々日、大和へ送還される途中、有間皇子は藤白の坂(現在の和歌山県海南市藤白)で絞首刑に処せられます。
19歳という若さでした。
牟婁に到着後の中大兄皇子の尋問の際に、有間皇子は
「全ては天と蘇我赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」
と答えたといわれています。
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