コンフォートゾーン
個人の成長のためには、
自分のコンフォートゾーンから脱出すべきだ・・・
何度か耳にしている言葉だが、
以前から気になっていたフレーズだ。
コンフォートゾーンとは、文字通り、
コンフォートゾーンとは、文字通り、
居心地のよい場所という意味だが、
居心地のよい場所(たとえば職場)に
居続けると人間は成長しないから、
その良い環境に甘んじないで脱出
すべきだと一般的に説明されている。
だが、コンフォートゾーンに居続けると
だが、コンフォートゾーンに居続けると
本当に成長を阻害するものか?
このことを一般的なサラリーマンに
あてはめた場合、このコンフォートゾーン
といわれる環境から抜け出すきっかけは、
人事異動か転職ということになる。
特定の部署で長く同じような仕事に
ついている場合、その仕事に慣れてしまい
マンネリ化する。
そのマンネリ化した環境がコンフォート
ゾーンだということと認識されるため
通常は人事異動で組織を活性化する目的
以外にも、異動する本人の成長の機会として
異動を行うという大義名分が与えられる。
これにより、今までとは別の部署や別の職種を
担当させることによって本人の成長の機会を
与えるということだ。
もちろん、人事異動は本人がコンフォートゾーンの
もちろん、人事異動は本人がコンフォートゾーンの
環境ではない場合でも、さまざまな要因によって
行われるものだ。
このことを逆に考えてみると、
長く人事異動の無い場合、あるいは別の仕事
などに変わって新たな挑戦をしていないなどの場合
には成長の機会を失っていると言えるのだろうか?
そうなると、たとえばサラリーマンであっても
そうなると、たとえばサラリーマンであっても
中小企業に勤務していて人事異動を行えない
小さな組織に属する人、特定の職務についている人、
あるいは弁護士や医師、大学教授のような専門職種や
研究を続けている人などは高度に専門的な仕事
であるがゆえに成長の機会が無いということ、
いや機会を失っているということになってしまう。
以前、社内で自らの職場を企画、構築、運用し、
そこで数年の時を過ごしてきたことがある。
そこでの一定期間が経過した後、
自分はコンフォートゾーンにいるのではないかと
何度も考え、自分自身の成長と将来に不安を
抱いた記憶がある。その後、人事異動になり、
いわゆるコンフォートゾーンから脱出する
ことになったのだが、実はそのことが自身の成長の
きかっけになったのかどうかを現時点では結論
づけることができない。
先の弁護士や医師、大学教授などの
先の弁護士や医師、大学教授などの
仕事や研究は、人事異動や転職によって別の
職業や職種に変わることはほとんどなく、
その専門分野における知識や技術、能力を
極めていくものだ。
だからといって、そのことが本人の成長を
阻害していることにはならないだろう。
なぜなら、ある特定の分野における職務や
研究を深くつきつめていくことも相当な努力を
要することであるし、その努力がその業績や
技術の成果とともに個人の成長に繋がると
思うからだ。
また、たとえば放送局のアナウンサーが
また、たとえば放送局のアナウンサーが
アナウンス技術に磨きをかけて成長しようとする
努力は本人にとって成長であるし、制作局や
営業に異動することによって別の種類の経験を
させることだけが成長であるとも言えないだろう。
思うに、
思うに、
一般に「コンフォートゾーンからの脱出による成長」
という場合、「成長」についての定義が曖昧のまま
「コンフォートゾーンからの脱出」そのものが
単純に良いこととして盲目的に理解されている
ような気がしてならない。
特定の専門分野を極める研究を続けることも
成長に繋がると考えられるし、一般事務職を
含めた現在の職務をより精緻かつ創意工夫を
凝らし仕事のやり方を進化させたり、
その置かれた環境のもとで仕事の幅を広げて
いくことも本人の成長に繋がることになるはずだ。
つまり、「成長」とは単に人事異動や転職によって
つまり、「成長」とは単に人事異動や転職によって
違った職業や職務を経験することや、その経験
による別の役職等の立場から多角的な視点で
物事を俯瞰すること、あるいは多様な考え方を
持つことだと一方的に押し付けるものではない。
このコンフォートゾーンからの脱出でいう
「成長」には、まず最初に本人がどのような
成長をすべきかを明らかにすることが重要であり、
その成長の定義によって脱出すべきか、
居続けるべきかを判断すべきものだろう。
また、そもそも自分がいまコンフォートゾーンに
また、そもそも自分がいまコンフォートゾーンに
いるのかを正しく認識し、それを正しく判断する
ことは難しい。
自己評価は他人からの評価の40%増と
言われるように、人間は自分の置かれている
環境を客観的に認識することは
たやすいことではない。
それに、例えば極端に自己評価の低い傾向の人
それに、例えば極端に自己評価の低い傾向の人
であれば、少し負荷がかかっただけでもすぐに
パニックになってしまい、いま自分はコンフォート
ゾーンにはいない、という間違った自己認識を
してしまうだろう。
人生いろいろ、男もいろいろ、女だっていろいろ・・・
世間には無数の幸せの形があるように、
人生いろいろ、男もいろいろ、女だっていろいろ・・・
世間には無数の幸せの形があるように、
個人の成長の姿にもいろいろな形がある。
多種多様な姿を持つ成長のためには、
多種多様な姿を持つ成長のためには、
「コンフォートゾーンから脱出すべき」という
安易で、曖昧で、単純で、無責任な、
日本特有の押し付けで強制しようとする
ものではなく、それは本人の成長したいという
意思と努力とそして偶然による結果に委ねる
ことが賢明だ。
そして、その個人の成長の定義について深く
そして、その個人の成長の定義について深く
考え抜くことを完全に放棄して、安定した
コンフォートゾーンという共同体から離れ、
つかみどころのない成長神話に踏み出すことの
リスクを疑わない無責任な態度は、
まるで先の大戦に国民全体で突入していった
民族に特徴的な集団思想に取りつかれた
愚かな態度と何ら変わりはなく、
そこからは未だ成長の欠片も見ることが
できない。
世の中は常に変化している。それならば、
「成長とは絶対的に良いことだ」と無自覚に
認めるのではなく、同じように変化するはずの
成長に対する考え方も改め、必ずやリスクも
存在する成長のスローガンの良し悪しを
見極めることのできる知性が求められている。