毎日放送が作ったこのドキュメンタリー番組の中では、和歌山県の旧日高町と旧日置川町(白浜町となった)に持ち上がった原発建設計画に反対運動をした人達のことが印象的でした。

住民が推進派と反対派に分かれ、子供達のスクールバスの座席さえ分かれていたそうです。

ダムや飛行場の場合も、建設計画が持ち上がると、地元住民が賛成派と反対派
に分かれ、兄弟でも血を見るような争いになることもあり、そのしこりはなかなか消えないと県のオンブズマンAさんから聞いたことがあります。


漁師さんや民宿を経営する人達は、建設に反対し続け、ついに議会での建設承認を阻止したのでした。

勝てた理由を尋ねられた反対派の人は、「こちらは“命懸け”だったが、推進派はそうではなかったということかな?」と話していました。


小出先生と今中先生は、愛媛県の「『伊方原発』設置許可取り消し訴訟」の原告弁護団に証人として協力し、研究者の立場から反原発を支持して、和歌山にも何度もビラ配りに訪れたそうです、


原発建設阻止を勝ち取った地元の人達は仲間が経営する民宿に、毎年「熊取六人衆」の先生方と集まって、「原発が出来なくて、良かった!」「ホントに良かった!」と言いながらお酒を酌み交わすのだそうです。

それは、中越地震で柏崎刈羽原発が事故を起こした後の映像なので、今回の福島原発の大事故を見て、もっと感慨深いに違いありません。


小出先生の論は明快で、「機械は時々壊れ、人は時々誤りを犯す。人の動かす原発が壊れるのは当然。原発は壊れると破局をもたらす」と。

福島の事故は小出先生にとって「想定内」だったのでしょう。

先月、京都「生活クラブ」主催の学習会でお話を聴いた小林先生も、「いずれ原発で大事故が起きるんではないかと思っていた」と話されました。

世間は、ずっと原発の安全神話に支配され、「私のような意見はすべて無視され続けた」と小出先生は言われ、今は原発を止められなかった 自分を責めておられるそうですが、国民の「だまされた責任」もあると言われます。


小出先生の職場「京都大学原子炉実験所」は京都市内ではなく、もうすぐ和歌山という大阪の南の端熊取町にあり、それは「原子炉」があって、都会には建てられないからだと小出先生は言います。


そこで反原発を唱える研究者達は「熊取六人衆」とも呼ばれました。


2008年、彼らのことを毎日放送が深夜のドキュメンタリー番組で放送しました。

家から自転車で通い、研究室にエアコンもつけず、最低限の明かりで研究を続ける小出先生と、広島出身の今中先生が原発の問題点や「国策」として原発を推進してきた人達とその仕組み等を語り、最後の部分で、推進派の学者達の意見も出てきました。


この番組が放送されると、深夜で、視聴者も多くないと思われましたが、「関西電力」が苦情を言ってきたそうです。

原発に反対する人達の意見が主で、賛成する人達の意見が少ないと。

最後の場面で、推進派の意見もきちんと紹介し、対比させているとテレビ局側は説明したそうですが、「関西電力」は納得せず、みなさんが誤解しないようにとテレビ局員達に原発についてレクチャーした、小出先生達が講演に出かけると、関電社員らしき人に尾行されたこともあったと、「週刊現代」に書いてありました。


この番組を録画して、「あすのわ」の仲間がDVDにしたものと「高速増殖炉もんじゅ」の問題点を述べたDVDを学習会の資料として、私達は5月に上映会を開催しました。


朝からの強い雨のためか、期待していた若いお母さん達の参加は少なかったですが、年配の男性や女性達がたくさん見に来てくれました。
京都大学原子炉実験所の小出裕章氏は、ずっと以前から原発の危険性を訴えてこられましたが、今回の事故で注目されるようになり、“ニュース・ステーション”や朝のワイドショー“モーニング・バード”等にも度々出演されるようになりました。


先日は、参議院の委員会に呼ばれ、厳しいコメントをされたそうですが、その前のインタビューで、「国が私の意見を聞いてくれるなんて、これまでは考えられなかった」と言っておられました。


毎日新聞の記事から紹介します。

小出先生は1949年東京生まれ、原子力は未来のエネルギーと信じ、原爆のものすごいエネルギーを平和利用したいと東北大学で学びましたが、女川原発建設反対運動に直面し、「原発は都会では引き受けられない危険なもので、送電線を敷くコストをかけても過疎地に建てる。それに気づいたら、選択肢は一つ。そんなものは許せない」と思い、反原発に転じました。


「原子力の学問の中にいながら、原子力が抱える問題を指摘し続けるのが自分の歩む道」と決断したそうです。

偶然大学院の掲示板で、京大原子炉実験所が助手を募集していることを知り、74年春採用されました。

そこには、反原発を唱える助手が4人もいて、原発関連の訴訟を支援し、後に加わった今中哲二助教と共に「反原発の六人組」と呼ばれました。中国の文化大革命を主導した4人組になぞらえての揶揄で、「反国家的な存在」とも囁かれたとか。