ふんわりすとへようこそ! -8ページ目

ふんわりすとへようこそ!

~*~ I'm happy because I'm happy ~* ~

特に 瞑想が 好きなわけではないのですが、

なぜか さまざまな瞑想法に

ご縁がありました。

 

多くの場合、

瞑想であるとは知らずに、興味をひかれて

ひょいと 首を突っ込んでみたら、

実は それは 瞑想だった!

という 誘われ方が、多いんですけど。

 

一瞬であれ、数年かけてであれ、

いろいろ 学んでみて。

 

どうしても やる必要に迫られたもの

(コレを習得するためには 瞑想が必須!という・・・)

 

あるいは、

自分が 気持ちよくて、なんとなく

ゆるゆると 続いてきたもの。

 

これらが、いま、私の手元に 残っています。

 

 

あっちでも こっちでも、

よく 使われている技法のひとつとして

ハミングがあります。

 

そのせいか、私の中では

ハミングが 瞑想に 

直結しているらしく・・・

 

目を閉じて ハミングを するだけで、

内側が 勝手に

瞑想への準備を 始めることに、

最近 気づきました。

 

 

ハミングの生み出す バイブレーションが

内側に響くにつれ、

チカラが 抜けていって、

deep relaxation が 広がってゆく。

 

音を出す分、呼吸も 深まる。

 

アタマに上がっていた気が、

ずっしりと、下に 落ちてゆく。

 

知らず 知らずの間に

自分を縛っていた ナニカから

解き放たれて、自由になる。

 

 

 

そのプロセスが、

ハミングによって 自動的に

始まるのです。

 

瞑想のための時間を

取ることができないときでも、

ほんの少しの間 ハミングをするだけで 

リセットできて、すっきり。

 

 

私にとって ハミングは、

瞑想への扉を開く 呼び鈴

と なっているようです。

 

 

ありがとうございます。

 

 

 

 

先日も 少し書いたように、

最近 私は、日常生活の中でも

オープンアテンション的な状態に 遭遇することが

多くなっています。

 

わざわざ 時間を取って シークエンスをしなくても、

オープンアテンションは可能じゃん?

なんて 思っていました。

 

 

シークエンスとは、

コンティニュアム・ムーブメントを構成するものの

ひとつで、声や動きを組み合わせた

一連の動作・・・?

 

こんな説明で、いいのかな。

 

声といっても、

音として外にあらわれないものもあり、

動きといっても、

動きらしい動きがないときもあり・・・

 

いろいろな組み合わせが あります。

 

 
で、私、ひとりで やっているときは、
その組み合わせを よく 間違えるんです。
 
やっている最中に、
「あ、間違えていた!」ということに 気づいたり。
 
どんな声だったか 思い出せず、
そのとき 思いついた適当なもので
代用してしまったり。
 
でも、それでも、なんとなく
大丈夫な感じなんです。
私としては。
 
私にとって 大切なのは
その後のオープンアテンション
だったから。
 
 
最初の頃こそ、いつもの癖で、
教えてもらった シークエンスを
「正しく行うこと」に、
意識を取られていたんですけどね。
 
だんだん 慣れてくるにつれて、
声と声の間の、隙間の時間、なにもない時間を
大切にしたくなってきていました。
 
声を出す前の、呼吸のための時間も、
じっくりと 味わいたくなっていました。
 
ちょっとした、プチ・オープンアテンション。
 
 
正しいことに 固執して
流れや気分を 分断するよりも、
心地よい状態にあることを
優先したい。
 
ここ数週間は、そんな感じで
コンティニュアムに取り組んでいたんです。
 
せっかく 仲良くなった コンティニュアムとの
付き合いを、
堅苦しいものにしたくなかったんですもの。
 
 

ところが、前回、火曜日のzoomクラスでは、

シークエンスの奥深さを 

改めて 味わうことと なりました。

 

決められた シークエンスに従って

ふだん やらないような 動き、声の出し方をすることで、

身体の可動域が 広がるんだ!

ということを、体感したのです。

 

広がるのは、身体の動きだけではありません。

感覚=‘感じ方’も、開発される。

 

シークエンスが‘誘い水’となって、

オープンアテンションでの 身体とエネルギーが

どんどん 広がり、さらに深くなっていく・・・

 

実は、シークエンスって、

それを可能とする 最も効果的な組み合わせに

なっているのかもしれません。

 

 

創始者である エミリーさんが、

「シークエンスは ‘準備運動’のようなもの」

と おっしゃっていたそうなんですけど、

まさに その通り。

 

今回の体験を通し、

いままでとは 違った意味で、その言葉を

理解したのでした。

 

 

その後のダイブでは、

最近は ちょっと 軽く見ていた(ごめんなさい!)

シークエンスを、

いつもよりも じっくりと 味わいながら

やってみました。

 

またしても、コンティニュアムの

新しい醍醐味に、

出会うことができたようです。

 

 

 

いま、私、自分自身の OS(Operation System)を

入れ替えている最中なんですけどね。

 

コンティニュアムが、ちょうど良いタイミングで

お手伝いをしてくれているみたいです。

 

 

クローバーコンティニュアム・ムーブメントについて

詳しくは、こちら

 

 

ありがとうございます。

 

 

 

 

もう 一生、私には 100%の幸せは あり得ない。

 

「100% 幸せだ」と 言い切れるようには、

絶対に、ならない。

 

ちゅぅちゃんが いなくなってから、ずっと、

そう 思っていました。

 

 

いま、私、おおむね 心穏やかで

結構 幸せな毎日を

送っているはずなんですよ。

 

だけど、「幸せである」 ということを

認めない、認められない 自分が、

いるんです。

 

だって、ちゅぅちゃんが、いないから。

 

ちゅぅちゃんのいない生活が、

幸せであるわけがない。

 

 

ああ、ちゅぅちゃんが ここに

いてくれたら、

わたしの幸せは完成するのに。

 

ちゅぅちゃんが いるうちから

こんなふうに 暮らしていれば、

ちゅぅちゃんは もっと 長生きできたのに。

 

いつも、そう 思っていました。

 

 

だけど、最近、じわり じわりと

わかってきたんです。

 

私が 幸せであることと、

ちゅぅちゃんが ここに いる・いないということは、

いまは、別の次元にあるのだ、

ということ。

 

そして、むしろ、

私が 幸せでいる = 幸せの波動の中に在る方が

ちゅぅちゃんと近くいられているのだ、

ということ。

 

 

 

 

ちゅぅちゃんが いなくなってからも、

私たちは、ことあるごとに、

そのとき そのときに 見合った、いくつもの

新しい関係を、築いてきました。

 

たぶん、それが、ちゅぅちゃんの言っていた

‘続き’ということなのでしょう。

 

ルートは、いくつも あるんです。

 

 

いまでも、ちゅぅちゃんのことを 考えると

涙が 出てくるし、

私の中に空いた この穴は、たぶん 一生

埋まることはないだろうけど。

 

それと、これとは、別。

 

そういうことが、なんとなく

わかり始めてきた・・・

受け入れられるようになってきました。

 

 

ありがとうございます。

 

 

 

昨年の11月から、

かなりの間 お休みしていた 無極功を

再開しました。

 

なんとなく 思い出して、やってみたら、

すごく 気持ちよかったんです。

 

 

東 → 北 → 西 → 南 と 同時に

南 → 西 → 北 → 東 へと

くるくる回りながら・・・

 

四方八方から、‘気’を

取り入れていくんですけどね。

 

体中が クレンジングされていくのが

実感できる、というか、

本当に 気の巡りが 良くなって

(たぶん、血液などの循環も良くなっていると思う)

とっても 気持ちがいいんです。

 

ああ、こうして 無極功について

書いているだけでも、

カラダが 感覚を 思い出して、

気持ちよくなってきた!(笑)

 

たぶん、私に合っているのでしょうね。

 

 

この無極功、おととしくらいまでは、

太陽の高い時間帯に、青空の下で

川原で 風を感じながら やることが

多かったんですけど。

 

いまは、時間帯に関係なく、

気が向いたときに、瞑想部屋で ひとり、

くるくると やっています。

 

やっぱり、朝、

窓から入る 日の光を受けながら やるのが

いちばん 気持ちいいかな。

 

でも、なにかに 煮詰まったときなどに

気分転換を兼ねて 無極功を やってみると、

すっきりして、リセットされるのが

わかります。

 

 

いま、極力、

自分に なにかを 強いることを

避けていましてね。

 

やりたくないことは、できるだけ、

やらない。

 

やりたいことがあれば、できる範囲で、

自分のために、それを やる。

 

だから、無極功も、

「続けよう」という意思は なかったものの

あまりに 気持ちがいいものだから、

結果として ほぼ 毎日、

続いています。

 

 

そして、昨年末くらいからは、自然と、

無極功 → コンティニュアム → 短い間、坐って瞑想

という流れに なってきました。

 

もちろん、そのときの気分で、

ひとつしか やらなかったり、

全部 お休みしたりする日も、あるけれど。

 

それぞれの メソッドが、

お互いに 良い影響を 与えあっている

ようです。

 

 

ああ、わたし、本当は

こういう生活が したかったんだなー。

 

毎日、さまざまなものを 噛みしめて

生きています。

 

 

ありがとうございます。

 

 

 

コンティニュアム・ムーブメントでは、

シークエンスの後に

オープンアテンションという時間を

取ります。

 

流れ星  オープンアテンションとは?

 

 

あくまでも 私の解釈なのですが、

この、オープンアテンションって、

コンティニュアムを やっているときに限らず、

いつでも どこでも 出来るし、

実際、自然と 起こっていることも、

よく あります。

 

私にとっては、

Yesのガイド瞑想や ラティハンなどとも

通じるところがあるような、

親しみ深い感覚のあるものなんです。

 

 

オープンアテンションをする、

というよりも、

オープンアテンションとなる、

オープンアテンションでいる、

という方が しっくりくる、

というか・・・

 

‘する’ものではなく、‘(そうで)ある’もの、

‘動作’ではなく ‘状態’である。

 

そんな感じでしょうか。

 

 

昨年の12月から zoomクラスが始まり、

週に1度のペースで 参加するようになってから、

コンティニュアムに触れる機会が

格段に 増えました。

 

日常生活の中にも、

だいぶ コンティニュアムが

浸透してきたようです。

 

いまも、かなり長い時間

PCに向かって 集中作業をしていたのですが、

ふと 気づけば

自分の内側では オープンアテンションが

起こっていました。


身体の動きが 伴っていないわけですから、

正確には、

コンティニュアムにおける オープンアテンション

とは異なるものなのかもしれませんが。

 

 

私の外側・表面・身体の動きは、

‘いまやるべきこと’に従っているのだけれども、

内側は とても オープンで、自由。

 

そんな軽やかさが 嬉しくて、

ほんの少しだけ、身体にも オープンアテンションを

許してみました。

 

すると、身体も、すぐ その気になって(笑)

ついてくる、動きだす!

 

ほんの数十秒だけでしたが、

心も 身体も、とても 軽くなり、

自由な、幸せな気分に なりました。

 

ううん。

オープンアテンションによって

幸せであることを 確認する、

と言った方が、正しいのかもしれません。

 

 

余談ですが、

オープンアテンション中、

私の中に よく 湧きおこってくる歌が、

あります。

 

音符 幸せって、なんだっけ なんだっけ

旨い 醤油のある家(ウチ)さ。

 

さんまさんが ポン酢のCMで 歌っていらした

あの歌です。

 

 

なぜか わからないけれど、この歌が、

オープンアテンションのときに

浮かんでくる・・・。

 

まあ、それだけ 私が

オープンアテンションのときに 幸せを感じている

ということなのでしょうね。

 

 

クローバーコンティニュアム・ムーブメントについて

詳しくは、こちら

 

 

ありがとうございます。