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ふんわりすとへようこそ!

~*~ I'm happy because I'm happy ~* ~

今朝の、コンティニュアムのzoomクラス。

 

入室してみると、

なんと 生徒は 私ひとりでした!

 

今日は みなさん、ご都合が悪かったみたいです。

 

たったひとりのためのクラスだなんて、

ありがたいやら、申し訳ないやら。

 

けれども、ひとりクラスならではのメリットも。

 

 

以前のクラスで 教わった

口をすぼめていく O(オー)の声。

 

今日は ミュートなしで やってみたところ

先生のところまで 届いたようで、

微妙な違いの ご指摘を受け、

私が 間違って覚えていたことが

判明しました。

 

実際、やってみますと、

口をすぼめた後の 最後の口の形の

ほんの少しの違いで、

身体の内部への響き方が

全然 違うんです。

 

わかって、よかった。

 

 

まあ、いつも 遠慮しているわけでも

ないのですが、

今日は 気兼ねなく 随時 口を挟んで

質問をしたり、

ある話題について 

2人で 深掘りすることとなったり。

 

いつもとは違った感じのzoomクラスを

楽しむことが できました。

 

個人セッションを 格安で 受けた

みたいになっちゃった。

 

 

コンティニュアムには 興味があるけれど、

みんなで 集まって やるのは 恥ずかしいし

ちょっと 気後れする・・・

 

初めてだから、できるかどうか、心配・・・

 

そんな方のために?

個人セッションも 用意されているようです。

 

 

 

 

ありがとうございます。

 

 

 

今月初めだったでしょうか。

とあるトーク番組に ゲストとして出演された

ある俳優さんが、

こんなようなことを おっしゃっていました。

 

舞台上で(人前で) ただ立つ、というのが

どれだけ怖いことか?

セリフや動きなど やるべきことがあれば  いいけれど、

ただ 立っている。

‘立っている風’ではなく、ただ 立っている。

これ、深いな、と。

 

いまでも、それが出来ると思っていないんですよ。

「出来る」と思った時点で、

それは  「ただ立って」はいないんです。

哲学的なことになりますけど。

 

いまでも 僕は、ただ‘立っている風’だと思うんです。

ただ立とうとしているだけの人間。

 

それで、ただ立って、ただ居ることができたら、

それこそ どんな役だって できるんじゃないか、って。

 

なにもしないことが 一番強い。

そして それが出来ない、っていう・・・。

 

 

そのとき 私、観ていた録画を 一時止めて、

やってみたんです。

‘ただ 立っている’というのを。

 

舞台上でも 人前でもなく、

部屋の中で ひとり

 立ってみただけなんですけど。

 

・・・怖かった。

 

 

その俳優さんが おっしゃっていたのと

同じ意味の怖さではないのかもしれません。

(たぶん、突き詰めていけば 同じなのでしょうけど。)

 

私が感じた その怖さは、

瞑想中に、なにも つかまるものが なく

ひとりで 深いところへ  落ちていくような・・・

あの、怖さ。

 

(↑ これ、何年か前に、書いていました。

参考記事:落ちていく・・・

 

あれに似た 怖さが、

‘ただ 立っている’というのを 試みた瞬間、

襲ってきたのでした。

 

 

なんか 変なんですけど、それ以来、

私も、その‘ただ 立っている’というのを

妙に 気に入ってしまいましてね。

 

ふと 思い出すたびに、やってみる。

ただ 立ってみる。

 

そのたびに、あの、

真っ暗な宇宙の中に ひとり 放り出されたか

のような 感覚に、包まれる。

 

 

だけど、イヤではないんです。

 

正確に言えば、いまは それを

 ‘怖い’とは 感じていない。

 

その感覚に ‘怖い’という名前を

付けていない。

 

どちらかと言えば

自分の芯に触れるような、

自分が剥き出しになるような、

感覚。

 

いまの私にとっては

心地良さすら 感じるものなんです。

 

 

そして、この数週間、

この‘ただ 立っている’のを

折に触れて やっていましたら・・・

 

それに関連して、

また新しい感覚と 出会うような 出来事が

ありました。

 

長くなるので、それに関しては、

また後日、

気が向いたら 書くことにします。

 

 

あ、その俳優さんは、

この‘ただ 立っている’ことを

‘棒立ち’と 呼んでいました。

 

 

ありがとうございます。

 

 

 

コンティニュアムのzoomクラスでは、

クラス終了後、先生が、

その日のシークエンスの説明を 文書にして

送ってくださいます。

 

後日 ひとりで やるときには

すっかり 忘れていることも 多いので、

説明書があると、とっても 助かります。

 

 

その回の文書の中には、補足として

こんな一文がありました。

 

 

「コンティニュアムをしているときに、

防衛の鎧が緩み、身体が自然のリズムに近くなり、

ひらかれた受容的な状態であるときに、

周囲の“情報”=“愛”を取り入れ、

またこちらからも与えている状態になる」

と言う、科学的には説明できない エミリー独自の

理論があります。

 

エミリー の言うところの“愛”は、

人間同士の愛などよりも、もっと大きな意味での

普遍的で偏在する愛
大気のようなもの、と 話していました)

を 示します。

 

※ エミリー=コンティニュアム・ムーヴメントの創始者

 

(必要な部分だけを抜粋&一部編集しているので、

これだけでは 意味がわからないかもしれません。

ごめんなさい。)

 

 

ああ、あの日、あの部屋から 伝わってきたのは、

"愛"だったんだ・・・。

 

瞑想部屋で 無極功をしているとき、

ふいに 部屋全体から

「みんな 味方だよ」 と 言われたかのような

感覚に包まれたことがありました。

(参考記事: みんな味方 )

 

それは、情報=愛を 取り入れた、

ということだったようです。

 

 

エミリーさんのおっしゃるところの

"普遍的で偏在する愛"というものが、

私の認識しているものと 同じなのかどうかは

わかりません。

 

けれども、その愛を 大気のようなもの、

と表現されている感覚は、

なんとなく わかるような気がするのです。

 

 

ときおり 訪れる

私が ‘理由のない幸せ’と呼んでいる、

あの感覚。

 

それに包まれているとき、たしかに 

それは 大気のようである

と言えます。

 

 

また、これまで

自分の内側、自分の中心で 知覚していた、

あの感覚。

(その感覚を示す適切な言葉が 見当たりません)

 

自分の内側に存在するはずの

その感覚を、

最近は、自分の外側にも 認識するように

なっていました。

 

常に、ではないけれど、ふと 気づくと、

その感覚に 包まれている。

 

 

その感覚の状態 あるいは 形状を、

なにか 近い言葉で あらわすならば、

そう、「大気」なんです。

 

・・・私の感じる ソレは、いまのところ、

大気よりも もっと 限られた範囲のものでは

あるけれど。

 

 

 

このごろ、なにかにつけて、

その、名前のつけられない感覚の存在に

気づくことが 多かったものですから。

 

(普遍的で偏在する)愛=大気のようなもの

という エミリーさんの表現に、

「ああ、あれは 愛というものだったのか」

と、妙に 納得したのでした。

 

 

ちなみに、"愛"という大気は、

存在のしかたとしては

‘静寂の音’と よく似ています。

 

いつも、そこに ある。

意識を向ければ、いつでも 

触れることが できる。

 

ああ、オープンアテンション

というのは、

その “情報”=“愛” と 交流している時間

なのではないでしょうか。

 

 

私には 見えないけれど、

いわゆる「見えるひと」に 見えているのは、

もしかしたら この、愛という大気

なのかもしれません。

 

 

ありがとうございます。

 

 

 

クローバーコンティニュアム・ムーブメントについて

詳しくは こちら を ご覧ください。

 

 

 

4月最初のコンティニュアムのzoomクラスで、

先生が、こんなようなことを おっしゃっていました。

 

 

エミリー(コンティニュアムの創始者)は、

よく 身体のことを system と 言っていた。

 

人間の身体には

皮膚という最初の境界線があるが、

もっと やんわりとした境界線は

身体の外にも 広がっており、

私たちの感覚は その部分にも 及んでいる。

 

そこまでを含んだ部分が

エミリーの言う身体(= system )であり、

その systemは、さらにその外側と、

いろいろな形で やり取りをしている。

 

 

 

それを聞いて 思い出したのは、

1ヶ月くらい前の、ある体験のこと。

 

ひとりで 無極功をしている最中に、

「ああ、この部屋、みんな、私の味方だ・・・」

と 感じたことが、あったんです。

 

 

数年前まで セッションルームとして 使っていた、

この部屋。

 

もともとは ちゅぅちゃんのお昼寝部屋であり、

彼女が最期を迎えた場所でもある、

この部屋。

 

いまは 瞑想部屋となっていて、

コンティニュアムも、ここで しています。

 

 

その、この部屋の空間全体

(そのへんに積み上げてある ガラクタも含め)

すべてが、私の味方でいてくれている・・・

 

そのとき、ふいに そんなふうに 感じたことを、

思い出したのです。

 

 

私は もともと、

動物、植物は もちろんのこと

車、電化製品など、いわゆる‘モノ’とも、

普通に日本語で会話します。

 

車で出かけるときは

「これから ◯◯へ行くからね、よろしくね。」

 

タイマーが鳴れば、

「ハイハイ、ありがとう。」

 

洋服を捨てるときは、

「ごめんなさいね。いままで ありがとね。」

 

ついでに言うと、

突発的な危険から 偶然 逃れることができたときにも、

「どなたか存じませんが、ありがとうございました。」

と、とりあえず 頭を下げておきます。

 

目には見えない誰かが

私を 力尽くで 引っ張って 避けさせてくれたのだ、

と、思うから。

 

 

ただ、20年以上 住んでいる 

この家、この部屋、という空間との交流を

意識的に図ったことは、

これまで なかったように 思います。

 

それでも・・・

私が 意識を向けることがなくとも、

いままで ずっと、この部屋は、

私のことを 見守ってくれていたのでしょう。

 

 

そんな、この部屋の意識 ~‘気持ち’のようなもの

が、あのとき、

はっきりと 伝わってきて。

 

空間なるものとの明確な交流は それが初めてで

驚きはしたものの、

それと同時に 泣いてしまいそうにも

なったのでした。

 

 

 

 

 

 

あのときの あれも また、

いろいろな形でのやり取り  のひとつなのかな。

 

先生のお話から、そんなことを 思い出し、

妙に納得していましたら・・・

 

後日、先生からいただいた

その日のシークエンスの説明文書を読んで、

さらに腑に落ちる体験が重なりました。

 

 

長くなるので、それについては また 今度、

気が向いたら 書くことにします。

 

 

ありがとうございます。

 

 

 

クローバーコンティニュアム・ムーブメントについて

詳しくは こちら を ご覧ください。