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ふんわりすとへようこそ!

~*~ I'm happy because I'm happy ~* ~

コンティニュアム zoomクラスでは、

2つのシークエンスを 習った後に、

ダイブに入ります。

 

だから、基本的には

同じシークエンスを 1クラスで 2回(以上)

やることになります。

 

 

同じシークエンスでも、

最初に やったときと

回数を重ねていったときとでは

受ける印象、感覚、体験が 違う、

というのは、よくあること。

 

でも、この日は、

驚愕、という言葉を 使いたくなるほど、

1回目と2回目とでは

感覚が まったく 違いました。

 

そして、次の瞬間、

深いところで 理解したのです。

 

 

1回目と2回目を 比較することは

無意味なのだ、と。

 

だって、「さっきの私」と「いまの私」は

全然 違う 存在なのだから。

 

 

最初に シークエンスを 教わり、やってみる。

 

その後、質問をしたり、

お仲間のシェアや 先生のさらなる解説を

聴いたりして、

理解を深めていく。

 

そうやって、体験と情報を重ねることで、

「私」は、短い時間の中でも

どんどん 変化していきます。

 

主体、ベースである私が、

さきほどとは 違う状態で  臨むんですもの、

同じシークエンスをしたとしても、

違う体験や感覚を得るのも、

当然ですよね。

 

だから・・・

 

「さっき」と「いま」とを 比較すること、

それ自体が、無意味なんだ。

 

「比較」することって、本当に、本当に

意味がないんだ。

 

 

アタマでは わかっていたつもりでいたことが、

このとき、ずしん、と 腑に落ちたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

生まれてから このかた、

常に 比較をしながら、されながら

生きてきたように、思います。

 

誰かと 自分を 比べたり、

なにかの基準と 比べ、

そこから 外れないようにすることで

自分の安全を 確保したり。

 

「比較」は、

生きていく上での 大きなモノサシだった

かもしれません。

 

 

だけど、それ自体に、意味が ない・・・。

 

絶対不可欠だと思っていた なにかが

崩れ落ちてしまったようで。

 

その直後は、

「比較」に関する 様々な思い出や 体験などが

次から次へと 超特急で 私の中を 駆け巡り、

10分ほど 動くことができずにいました。

 

消化する時間が、必要でした。

 

 

 

コンティニュアムでは、

同じシークエンスを 繰り返し やることを

「レイヤーを重ねる」 と 言うのだそうです。

(ちょっと うろ覚え。)

 

今回、この体験を経て、

「レイヤーを重ねること」の意味が

少し わかったように 思います。

 

 

ありがとうございます。

 

 

 

クローバーコンティニュアム・ムーブメントについて

詳しくは、 こちら を ご覧ください。

スター・サファイヤ・エナジー・ワークの

トレーニング中、

練習セッションで priority を 尋ねられると、

私の女性性・男性性、口を揃えて

「心の平安」を 1位に挙げていた時期が

ありました。

 

現実の私としては、

次から次へと出てくる問題に 翻弄され、 

「心の平安」なんぞとは ほど遠い毎日を

送っていたのに。

 

でも、そのとき ぱっと 浮かんだ言葉

「心の平安」を、

何度も 何度も、口にしていたのです。

 

実際に 優先している、というよりは、

そのとき 痛烈に 求めていたものが

口をついて出ていたのでしょう。

 

 

 

 

あれから、もう8年くらい 経つようです。

 

あのとき 求めていた「心の平安」は、

ふと 気づけば、結構な頻度で

私のそばに いてくれるようになっています。

 

そばにいる・・・って、おかしいかな。

中にあるもの・・・・のはず?
 

「心」なるものは、私の中にある。

だから、「心の平安」も 私の中にあるはず、

と、思うともなく 思っていたけれど。

 

言葉の定義が、体感にともなって

どんどん 変化していく。

 

 

ああ、じわじわと 波紋のように 広がって、

私全体を包んでいるような感じ?

 

内側から、外側から、

サンドイッチされている感じ?

 

 

それが どこに、であろうと、

心の平安らしきものの存在に 気づくたび、

懐かしく 思い出すのです。

 

ああ、あのとき、

私の女性性も、男性性も、

「心の平安」とばかり、言っていたな、と。

 

 

ありがとうございます。

 

 

 

 

前回の コンティニュアム zoomクラス

でのこと。

 

オープンアテンションをしている最中、突然、

「飽きちゃった・・・」

と 思っている自分に、気づきました。

 

それと ほぼ同時に 出てきたのは、

飽きていることに対する、罪悪感。

 

飽きっぽい= イケナイこと

という認識があるからでしょう、

「飽きた」と感じている自分を

非難がましい目で見ている、自分。

 

自分の中で、自分同士が 対立しているのを、

一瞬のうちに 感じ取りました。

 

 

でも、実際、飽きてしまっているのだし、

それが 別に悪いことでもない、

ということも、わかっているんですよね。

 

「ああ、わたし、飽きているんだなー」

 

気づいた本音を そのまま 受け入れてみると、

より、自分の芯に近づいていきます。

 

 

 

 

 

 

私たちは、「日本人」というパッケージを

インストールされて、生まれてくる。

日本人として、育てられる。

 

日本人としての価値観、

「こうあるべきである」という暗黙の了解

によって、固められ、

日本人として、出来上がっていく。

 

そして、その価値観は、

自分に 馴染み切っている分、とても 根強いから、

それらが アタリマエすぎて、

疑いを持つことすら ないままに

生きているのだけれども。

 

自分を構成している それらは、

本当に、自分のものなのか?

 

あれ?

「◯◯でなければいけない」

と 思い込んでいたから、

そのように ふるまっていたし、

自分は ◯◯な人、だと思っていたけれど、

本当は、わたし、◯◯ではない・・・よね?

 

最近、そんなふうに 気づくことが、

とても多いのです。

 

 

コンティニュアムをしていて 飽きてしまった 私に

そのとき ふっと 思い浮かんだのが、

「日本人というパッケージ」という言葉、

なんだか あいまいなもの、でした。

 

でも、たぶん それは、

なんにでも 言い換えられるのでしょう。

 

「女の子なんだから」

「長女だから」

「親の期待に副うように」

「◯◯として」

「◯◯に恥じないように」

・・・etc.

 

それらの皮を 何重にも まとって、

生きている。

それが自分、だと 思っている。

 

けれども、なにかを きっかけとして

1枚、1枚、剥がれていくうちに、

実は 全然違う自分が 見えてくることも、

あるんです。

 

 

自分の中の本音、本心に 気づき、

「まぁ、それも そうだよね、それでもいいよね」

と、自分で その存在を 認めると・・・

 

それまで まとっていた 皮が

ひらっと 落ちていって、

より、自分に 深く入っていくのを、

感じます。

 

もしかしたら、コンティニュアムで使われる

 ‘声’の振動が、

それを助けてくれているのかもしれません。

 

 

ありがとうございます。

 

 

 

クローバーコンティニュアム・ムーブメントについて

詳しくは、 こちら を ご覧ください。

 

 

 

 

 

幸せが、訪ねてくる。

いらっしゃい、と 招き入れる。

 

幸せが、友達を連れてくる。

あら、こんな幸せもあるのね、

と、一緒に 過ごす。

 

すっかり忘れていた幸せも、

姿を見せている。

あら、久しぶり、懐かしいわね、

と、手を取り合う。

 

 

いつのまにか 幸せが たくさん

集まっている。

部屋が いっぱいになっている。

 

 

 

 

そんなもので、いいのかもしれない。

 

幸せに限らず、何事も、

そんなものなのかもしれない。

 

 

ありがとうございます。

 

 

 

 

おととい・・だったかな。

 

幸せという大気 が いつでも そこにある、

ということに 気づいたとき、

なんとなく 感じたことが もう1つ、

ありました。

 

「これ、ちゅぅちゃんかもしれない。。。」

 

 

 

 

 

昨年末、コンティニュアムのクラス中に

ある体験をしたんです。

 

「私が ‘悲しみ’と 位置づけていたのと

よく似た ある感覚は、実は、

私の中に居場所を移した ちゅぅちゃん

なのかもしれない.

 

そして、その感覚は、

いまは ‘悲しみ’のような 姿かたちで

私の中に 存在しているけれど、

いつか それは、

‘喜び’に似た雰囲気の感覚に

変わることも、 あるのかもしれない。」

 

そのとき、そんなふうに、思いました。

 

(参考記事 : 感覚に姿を変えて

 

 

 

 

おととい、

幸せは いつでも そこにあるものだったんだ、

と、気づいたとき。

 

私は、あのときのことを 思い出し、

「あ、この、私の周りに漂っている

幸せのような、心地のよい大気は、

ちゅぅちゃんなのかもしれないな」

と、感じたのでした。

 

 

いま、ちゅぅちゃんは、

私の中にも いれば、私の外にも、いる。

 

どこにも いない、とも言えるし

(実際、カタチ=カラダとしては、「いない」。)

どこにでも いる、とも言える。

 

そういう存在だと思うんです。

 

 

それが 本当かどうか? なんて、

いまの私には とうてい

確かめようもないことだけど。

 

ちゅぅちゃんは、

‘悲しみ’のような顔をした感覚として

私の中にも いれば、

‘幸せ’のような感触の大気として

私を包んでくれても、いる。

 

ちゅぅちゃんは、いま、

あっちにも、こっちにも、いっぱい

いるんだ。

 

あっちにも こっちにも、

というよりは、全体に広がっている、

全体を包んでいる、

という感じかもしれないけれど。

 

 

ちゅぅちゃんが いなくなって

来月で、もう1年になります。

 

まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ

悲しい。

 

いつも すぐそばに いてくれていることは、

わかっているんだけどね。

 

 

ちゅぅちゃんが、

時間をかけて、ゆっくりと、じっくりと

とても大切なことを 教えてくれているような、

そんな気がしています。

 

 

ありがとうございます。