コンティニュアムのクラスで
新しいシークエンスを やるときには、
かすかな緊張が 走ります。
これで、いいのかな。
正しく できてているかな。
このやり方で、間違っていないかな。
そんな不安が あるからでしょう。
間違ったからといって、
別に 先生に怒られるわけでも
コンティニュアムが成立しないわけでも
なんでもないんですけどね。
簡単なものであれば 2回目には、
そして 難しいと感じたものでも
何度か繰り返していくうちに、
スムーズに できるようになります。
カタチに 注意を注ぐ必要がなくなると、
安心して、思う存分 自分自身へと
潜っていくことが、できるようになります。
コンティニュアムで
自分に 緊張が走っているのに
気づくたび、
自分が どれだけ ‘正しくあること’に
縛られているか?
ということを、目の当たりにします。
逆に言えば、
‘正しくあること’だけの世界から
抜け出そうとしているのでしょう。
これまで‘正しくあること’が 当然であり
それに副うべく努めるのを 最優先にして
生きてきたから。
そして、自分が そうしていることに
気づいてすらいなかったから。
それ以外の世界がある、
ということを おぼろげながら 知り、
そちらへ 踏み出そうと
しているところなのでしょう。
ああ、もちろん、
‘正しさ’を求めることが 悪いわけでは
なくてね。
それが すべてではないよ、
‘正解’が 存在しない領域も あるんだよ、
ということなのですが。
両方の世界を 行き来できるように
なれば、
いつでも そのとき ふさわしい方を
選ぶことが できますものね。
これが いまの私のテーマなのか、
最近、やたらと「‘正解’のない」類いのものに
ぶち当たります。
「‘正解’が、ない」ということに、
私は 最初 驚きました。
‘正解’がないなら、なにが ゴールなの?
どこを的として、矢を射ればいいの?
・・・と。
目指すべきゴール(合わせるべき焦点)が、
限られた1点のみ、ではなく、
‘このへん’という範囲であるのなら、
そこに当てるのは 楽なはず、
なんですけどね。
かえって 難しく 感じるのですよ。
的が ぼやけてしまって。
次から 次へと 形を変えて、
新しいものが、やってくる。
無意識のうちに 正解を 求めて
突っ走っては、
方向感覚を失い、道に迷った挙句に、
石に躓いて 転ぶ。
ああ、ここも また
正解のない世界だったか、
と 気づき、立ち上がる。
その繰り返しです。
迷路の中を 歩くと 同時に
空から 全体を見ることも できれば、
楽なのにね。
あーだ こーだと 言いながら
迷い、転ぶのも、また
楽しんでいるんだろうな。
ありがとうございます。