3. Moonlight Dance



 伸はふと立ち止まった。

 すで日没から30分が過ぎ、寒空は次第に紺青の濃さを増していた。

 足を止めてじっとそれを見つめる。やや薄緑がかったガラスの中に、人口の常春が絢爛と色彩を誇っていた。地下街の端にひっそりと店を構える花屋である。

 中でもその花はひと際鮮やかに、通りがかる者の目を引き付けた。黄金色のがくは自然光を模した照明にキラキラとまばゆく輝き、内側にびっしりと詰まった小さな花が黒水晶の質感と湛えている。

 おそらくは温室育ちであろうが、小ぶりなひまわりは春の花に囲まれて平均化されることもなく、夏の日差しを思わせる激しさで毅然とそこにあった。

 伸は目を閉じる。無意識の記憶の底で、遠い風景が揺らめく。

 その風景を知っている。その風景を知らない。

 相反する感情が、立ち止まった足を釘づけにしているのだろうか。

 たしかにそれは憧憬だった。

 まるで太陽のような花は、遼の笑顔につながっている。昼の世界の象徴として。





「ごちそうさま」

 伸はきちんと手を合わせた。

「もういいのか?」

 覗き込むように顔を見つめられ、伸は苦笑する。

「あんまり君に負担かけちゃ悪いだろ」

 遼は明らかにむっとして、視線をそらした。

「いつまでもそうしてると風邪をひくよ」 

 二の腕までたくしあげたセーターの袖を引っ張って元通りに直してやりながら伸は微笑んだ。

「伸こそ、無理するなよ」

 されるがままに腕を預け、そっぽを向いたままちらりと目だけを向けて遼はぶっきらぼうにつぶやく。

 伸は手を止めて遼の横顔を見た。

 永遠の不老不死を誇る吸血鬼にとって、最も恐れるものは陽光でも十字架でもない。滅びよりも、彼らは飢餓を恐れた。血に飢えた吸血鬼は理性の欠片すら持たない獣になり下がる。自尊心と矜持が許さなくても。

 それゆえ、伸は己を守る術を知っていた。

「大丈夫。毎日少しずつの方が身体にはいいんだ」

 そこで一度言葉を切ってにやりと笑う。

「それとも・・・そんなに僕に襲われたい?」

 伸の口調はひどく挑発的だった。遼は激昂に駆られて手を振りほどこうとする。

 立ち上がりかけてがくんと膝をついた。衝撃の源は手首だった。身体の勢いが嘘のように、手はわずかさえも動かなかった。氷の万力がつかんでいる。

 その白く上品な指を遼はじっと見据えた。掴まれた手首から先の感覚はない。

 伸は膝をそろえて座ったまま、その視線を逆にたどって遼を見上げた。口元に薄く笑みを浮かべ、手首を返す。

 力など少しも入れたようには見えず、しかし遼は伸の膝にあっさりと倒れこんでいた。

「少しはご期待に添えるよう、努力しようか?」

 屈みこんで耳元でささやく。

「伸ッ!」

 手首が自由になった瞬間に遼は跳ね起きた。こたつが背中に当たる。

 かまわず伸は顔を近づけていく。吸血の名残に甘く薫る吐息を間近に嗅いで遼は思わずかたく目を閉じた。

 こたつの木組に背中を押しつけてぎこちなく身をすくませる唇に、薔薇よりもなお赤く濡れたくちづけがそっと触れた。





 霜の降りる音さえ聞こえそうな静寂に、ふと伸は我に返った。

 暖かい布団に包まれてぐっすりと眠っている遼のまつげのやわらかな曲線の先までも、伸にははっきりと見える。

 伸にとって、漆黒の夜は生き生きと活動するのにふさわしい舞台だ。人間の平衡感覚を狂わせるほど深い闇も吸血鬼には真昼に等しい。いまや地方の農村まで不夜城と化した日本のうすら明るい夜空も、陽光さえ浴びなければ永遠の若さと端麗な容姿を保つことができる彼らの活動を妨げることなどできない。所詮人工の昼は古代より続く闇の血族の前にひれ伏すより他にないのだ。

「遼・・・」

 伸はそっと呼んだ。

 返事はない。悪夢さえ忍び寄る隙もない平穏な寝顔におもわず微笑んだ。

 その脳裏に幻の日差しがよぎる。伸は目を閉じてその色彩を追った。

 たっぷりと太陽を吸収して、あざやかにそしてやわらかくビロードのように水滴をすべらせる黄金色の花弁。繊細な短毛にびっしりと被われ光を反射させてきらきらと輝く種子の群れ。

 遠い昔に憧れたような気がする、ひまわりの残像がまぶたの裏で静かに揺れていた。意識の奥でそれは遼の笑顔と重なる。

 夜の時間の中でのみ偽りの生を許される吸血鬼にはどんなに望んでも得られない太陽の花。

 伸はしんしんと降り積もっていく闇をじっと見つめた。

 太陽をこの目で見ることはどんなに長く生きても叶わない。それが永遠の生と引き換えに課せられた不死者の定めだ。

 傍らの遼の眠りを妨げないよう細心の注意を払って立ち上がった。玄関までの襖は繊手に触れられるのを恥じたか独りでに開き、また閉じた。薄氷にさえひびのひとつも入らぬ滑るような足取りで一瞬のうちに伸は玄関に立っていた。

 奥の部屋に眠る遼を襖を見透かして振り返った。その手には鍵がすでに収まっている。質素な合金も伸の手にあれば純銀の光沢に縁どられて輝きを放つ。

 つと手が動くと、古ぼけた玄関のドアはきしみもせず闇へと開いた。合板さえ彼にひざまづくのか、無造作に手を離しても平和な眠りを破るような無様な音を立てることは決してないであろうと思わせる従順さで。





 遼は物音を感じておぼろげに目を覚ました。浅い眠りに身を委ねたままそれを聞いていたが、不意に小鳥のさえずりだと気付いた。いつ眠ってしまったのか覚えていないが、もう朝だ。

 そう、伸に手首から血を与えているうちに意識を失ってしまうことは珍しくない。

 耳を澄ませば人々が行き交う表の雑踏の音が聞こえた。ぱっと目を開けて、飛び込んでくる見なれた部屋を見るともなく眺める。

 その中に、鮮やかな輝きがあった。

 カーテンを引いた室内には薄明かりしか射してはいないが、ひと際明るくそこだけが輝きを放っている。

 ごそりと布団から抜け出して起き直った。

 すぐ傍らの畳の上に緑色の炭酸飲料の空き瓶があった。その瓶の口から一輪のひまわりが毅然と天を仰いで立っている。

 台所の隅に転がしておいた瓶だ。次の資源ごみの日に出すつもりだった。

 見覚えのない季節外れの花に手を伸ばし、遼は濃い緑の葉に触れた。尖った葉のふちがやや萎れて黄色くなりかかっている。遼の方を向いた花輪もどこか寒々としていた。

 ざらざらした葉の手触りをしばらくもてあそんだ。

 そして、突然伝心に撃たれた。

 青白い稲妻にも似た幻の痛みを感じてとっさに手を引っ込める。

 そうだ。

 この花が萎れているのは、決して凍てつく冬の大気が夏の花に適さなかったからではない。

 のろのろと手を握りしめる。

 間に合わせの空き瓶の緑褐色ガラスの奥で水は静かに凍えていた。だが水分が足りなかった訳ではないのだ。ひまわりは夏の盛りに咲き誇るほどの生命力を湛えた花だ。

 理由なら一つしかなかった。

 「死」に魅入られたからだ。

 脈も打たず、血も流れず、しかし衰えることのない若さと美貌のまま偽りの永遠をさすらう夜の魔物、吸血鬼に生を脅かされたから。

 それを、おそらくは夜の明けるまで見つめていたのだろう伸の面影を、遼は胸の奥に沈めた。深く澄んだ漆黒の瞳にひまわりだけが映っている。

 どこから探してきたのだろう。

 本来冬に咲く花ではない。どこか人工の夏の楽園から入手したことは間違いない。

 その合法性は敢えて考えないことにした。

 伸ならば、あの赤い双眸で見つめるだけでどんな人間でも従わせることができる。吸血鬼の能力の一つ、邪眼と催眠術で。

 伸が少しでも触れればたちどころに萎れ、枯れ果てて砕け散ってしまうはずの生花がまだこれほど生彩を残しているのも、にわか仕立ての従者がいたからこそだろう。伸が通りすがりの人間を操ったと思うと、襲って血を吸ったわけでもないのに胸が痛んだ。

 だめだ。こんなところで、破滅という形で終わりを迎えるなんてできない。

 遼はひまわりの背後の押入れを凝視した。その闇の中に眠る伸を、偽りではない死者の眠りの底にいる耳に届くことはないと知りながら呼ばずにはいられなかった。

 なぜそこまでしてこの花を手に入れたかった?

 うっかりその腕に抱けば、つれなく滅んで醜い残骸となって伸の呪われた宿命を嘲笑っただろうに。伸がその悲しみを味わったのではないかと慮る。

 襖はすでに昇った朝日の日差しに彩られてかたくなに沈黙を守り、その白い反射を受けてひまわりは遼を見上げていた。まるで、それが太陽ででもあるかのように。





 太陽の上端が地平線に沈んだ瞬間に伸は押入れの中で目覚めた。

 偽りの生が真実を押しのけて艶然と輝きを放つ夜が始まる。人間よりもはるかに低い体温を保つ身体が何よりも正確にその到来を告げている。

 一縷の光線も射しこまないように締め切られた押入れの中で伸は小さく欠伸をした。真の闇もその目には真昼と変わらない。

 むしろ意外なことに、伸は外の黄昏の残り陽をおそれるそぶりもなく襖を開いた。

 ひたひたと夕焼けの残照が部屋を浸していく。伸は目を閉じて闇の近づく気配を聞いた。不思議と、太陽の色でありながら夕焼けは好きだった。燃えるような地平線の色は血の色にも似て、心の奥に波のように打ち寄せる。

 ゆっくりと開いた双眸は西の空を映して赤く染まっていた。

 時計を見上げる。

 たちまち瞳は深紅から色褪せた。人間のものと変わらない緑色の瞳が瞬きする。

 唇から吐息が漏れた。

「・・・何にしようかなぁ」

 あと30分もすれば遼が5限目の講義から開放されて帰ってくる。伸は夕食のメニューに頭を悩ませつつも、それを楽しんでいた。遼のために自分にできることは他には何もない。せめて遼の喜ぶ顔が見たい。

 壁際の姿身で服装をチェックし、伸は冷蔵庫のドアを開けた。





 伸はもう一度時計を見た。

 いつもならとっくに帰ってきているはずの時間だった。食卓に並んだ夕餉もそろそろ冷めかかっている。こたつに頬杖をついて伸は首をかしげた。

 その視界の端を黄色いものが横切る。

 ふと顔を上げてそちらを向いた。窓際の本棚の上に緑色のガラス瓶が載っている。

 ひまわりだった。

 昨日、いや正確には今日の早朝、駅の地下街の花屋から買ってきた花だ。深夜は無人の温室に代価はちゃんと残してきた。伸の気配を察して萎れてしまった周囲の花々の弁償分とあわせて、うっかり触れて枯れさせてしまった1本目の代金も。

 枯らすまいと精一杯苦心して持ち帰った一輪のひまわりが、葉もがくも先端から枯れかけて黄色く縮れ、萎れていた。

 できるかぎり近づかないように注意した。この腕に包みたいと思う気持ちを無理に押し殺して、遠くから見つめるだけで決して触れはしなかったのに。

 植物は栽培する人間の感情を察知して成長にその影響が現れるという。吸血鬼に見つめられればその死気を感じて枯渇していくというのだろうか。

 伸は一途にひまわりを見上げ続けた。

「---ただいま」

 玄関の鍵が回る音がし、勢いよく遼がドアを開けた。

「・・・遼」

「ちょっと用事があって遅くなった」

 遼は言い訳がましく告げながらぎこちなく靴を脱ぐ。後ろ手に何か持っているのには気づいていた。

「ご飯、---」

 できてるよ。遼が隠そうとするものには敢えて触れず、伸は微笑んで言いかけた。

 それを遮るように、遼は後ろ手のものを伸に突き出す。

 反射的に伸は受け取っていた。

「あ・・・」

 びくっと伸は手を震わせた。腕から落ちそうになったそれを遼が再び掴む。

 花は萎れず、枯れなかった。

 はちみつ色の花弁がきらきらと伸の腕の中で輝き続けていた。驚きに目を見張り、伸はひまわりの花束を抱きしめた。そっと腕を広げ、まじまじと見つめる。

 花は依然として精彩を放っている。

「---よくできてるだろ?」

 遼は伸の顔を見て微笑んだ。

 ひまわりが、触れても枯れないと分かって喜びに輝いた伸の表情は、何度も繰り返した転生の中でも見たことがないほどまぶしかった。

 合成樹脂でできた造花の葉を撫でた。ざらざらした感触は実物に見紛うほどだ。

「・・・そうだね」

 伸はそっと笑った。

 作り物の花だと知って狂喜は静まっていた。

 でも、と心の中でつぶやく。

 ひまわりを腕にしっかりと抱えてみたいと願ったのだった。たちまち朽ち果てる生花ならばどれほど哀しくなるだろう。遼の思いやりが分かるからこそ、伸はそのひまわりをじっと見つめた。

 決して枯れることのない、生なき造花。人工の花弁と葉をつけて腐りもせずに咲き続ける偽りの命。そう、まるで不死者の象徴のように。

「・・・何だよ」

 遼は照れ臭そうに目を逸らした。

 くすりと伸は笑う。

「ありがとう。・・・折角のディナーが冷たくなっちゃったね。すぐ温め直すから、座っててよ」

 朗らかな伸の言葉に、遼はにっこりとうなずいた。

 その笑顔をしっかり脳裏に刻んで、伸は皿を手に台所へ向かった。

 ひまわりなど、偽物しか手に入らなくてもいい。触れれば枯れてしまう脆弱な花など求めない。

 触れても枯れない輝きが食卓代わりのこたつで伸を待っていた。

 伸にとって、たったひとつの何よりも大切な、太陽を象徴する光。

 忘れもしない、呪われた偽りの生でも伸が生き続ける理由のその人が。




                                                       (第4章につづく)   




2. 真夜中のルーレット



「こんなもんかなぁ・・・」

 伸はひとり言をこぼして、もう一度玉杓子で鍋をかき混ぜると、小皿に少しだけ味見用に取った。鼻に近づけ、くん、と嗅いでから舌を出して舐めてみる。

 小皿を片手に、もう片手に玉杓子を持ったまま、伸は何度目かのため息をついた。

 両手のものをコンロの脇に置いてエプロンの紐をほどく。肩越しに時計を見ると、もうすぐ6時になるところだった。

「あ」

 エプロンを首からぶら下げたまま、食器棚へ行って器を探す。茶碗と湯のみはすぐに見つかったが、スープ皿が分からなくて戸惑う。

「んー」

 食器棚の前に座り込んで考えていると、玄関の鍵がかちゃりと回る音がした。

 束の間、そちらを見て動きを止める。それから伸は急いで立ち上がった。今にもドアは開かれようとしている。

 ドアを開ければ、彼には伸が見えるだろう。ごくありきたりな学生下宿用アパートの例にもれず、ここも玄関と台所の間取りはつながっている。

「お帰り」

 彼は出迎えなどまったく期待していなかったのだろう。無言でかがみこんで靴の紐をほどいていた。その前に膝をついて、伸は微笑みながら声をかけた。

 遼がはっと顔を上げる。

「---起きてて大丈夫なのか!?」

 第一声はそれだった。

「もう6時だよ」

 伸はくすりと笑って見せた。

 ゆっくり立ち上がった遼の顔から驚きの表情は失せ、代わりにどこか悲しげな微笑みが浮かぶ。

「・・・そっか。もう日は沈んだんだな」

 それから遼は初めて伸のいでたちに目を留めた。

「なんだよ、その格好」

「ああ、これ?」

 伸はエプロンを両手で広げた。

「料理してたんだ。スープ皿が分からなくて悩んでたとこ」

 よいしょと腰を上げて再び食器棚に向かう。遼は手早く靴を脱ぎ捨てると、こじんまりとした台所を大股に突っ切って伸の隣に来た。

「どれでも使えよ。別に決めてないから」

 そお? と伸はどこか不服そうだ。それでも適当な深鉢を手に取り、それに決めた。茶碗と湯のみを奥の畳の部屋に運び、食卓代わりのこたつに並べる。

「へえ、伸が作ったのか」

 遼はコンロに乗っている鍋を覗き込んだ。蓋をしていないのでいくらか冷めかかっているが、それでも湯気とともにほんわかとおいしそうな香りが漂っている。

「ありあわせで適当に作ったから、口に合うか分からないけど」

 スープ用の深鉢を手に戻ってきた伸は控えめにそう言うが、遼は心底感心していた。

 冷蔵庫の中身のお粗末なことと言ったら我ながら感心するほどだ。一人分の食事を作るのはわびしくもあり、不経済でもあり、そして何より時間がないので、ほとんどを外食かコンビニの弁当に頼りっきりだった。料理の本も、一人暮らしを始めるにあたって何冊かそろえたものの、眺めるだけで実際に役立てたことなどない。どうやらそれを伸はどこからか引っ張り出したらしい。

「そんなことない」

「分からないよ? 味見する?」

 伸は微笑んで小皿を差し出した。遠慮もためらいもなく受け取って、スープを玉杓子で静かにかき回す。少量を取って、ぐいと飲み干す遼を、伸はいつになく真剣なおもざしで見守る。

「・・・うまい!」

「ほんと?」

 遼の笑顔に、伸も安心したように笑い返す。

「よかった。ちょっと、心配だったんだ」

 うれしそうに伸はそのスープを深皿に注いだ。

「立ってないで座りなよ。これじゃまるで君の方がお客さんだよ」

 いつもの軽口をたたいて伸はさっさと奥の部屋の食卓のこたつにスープを運び、エプロンを外して先に席に着いた。

「お客さんだろ? だって帰ってきて、すぐいただきますってさ」

 遼も冗談を言いながら席に着こうとした。

「あれ、伸は食わないのか?」

 気付いて、ほんの軽い気持ちで遼は尋ねた。

 一人分のスープを、伸は自分の前ではなく遼の席に置いた。それきりにこにこと遼を見ている。

 一人分の量しかないわけではない。まだスープは鍋に余っている。野菜と肉の炒め物らしいおかずも、茶碗も、すべて一人分。遼の席にそろえられている。伸の前には何一つない。

「うん・・・あんまり味分からないしね」

 わずかに俯いて伸は静かに微笑む。遼は自分の迂闊さを悔いた。

 伸には分からない。人間の好む美味を理解することはできない。

 なぜなら、人間ではないから。

 伸はずっと、いつからかさえ忘れるほどの昔から、遼の血だけを飲んで生き続けてきた。

「・・・ごめん」

 遼は伸の前に手をついた。

「いいよ。僕もあとで栄養とらせてもらうから。いつも悪いね」

 伸はなんでもないように答える。悪いね、と口では言いながら、済まながる素振りはない。

「いいけど、あんまり調子に乗って吸いすぎるなよ。貧血になっちまう」

 こたつに足を突っ込んで、伸が差し出す茶碗を受け取りながら遼はわざとらしくため息をつく。

 いつからスイッチを入れてあるのか、ほどよく暖まっている。遼のためにだけ用意しておいたのだろう。台所の電気ストーブは使った形跡がなかった。遼はそのことに気がつかないふりを続けた。

「そりゃ大変だ、明日からレバーとホウレンソウ山盛りにしなくちゃ」

 料理の本から仕入れたのだろう、伸は大げさに慌てるふりをした。

 それを見ていて思いつく。

「そうだ、伸、買い物行こう」

「へえ、どこの店?」

 意外そうに聞き返す伸を見て、遼はくすりと笑った。

 きっと伸は驚くだろう。伸がほんのひと眠りしている間に、人間の世界では世代が交代して、今では24時間開いているのはコンビニに限らず、生鮮品の並ぶスーパーでも珍しくはない。現代のことをまだほとんど知らない伸は、夜中まで開いてるなんてきっとロクでもないところだと思っていることだろう。

「ちょっと遠いけど、すぐそこだよ」

 この説明って矛盾してるなと自分でも思いつつ、箸で肉をぐさりと突き刺して口に放り込み、付け加える。

「肉とか野菜とかいろいろ買ってこよう。楽しみだな、伸の料理」

 行儀悪いな、と伸が苦笑する。

 遼はふと思った。まるで平穏な普通の生活のようだ、と。

「いいけど、ニンニクはパスね」

 苦笑のまま伸が言う。何気ない言い方だったが、内容が現実に引き戻す。

「えー、スタミナつくんだぜ」

 いまさら隠しても、伸には分かっているだろう。遼はわざと明るく返す。

「あ、ニンニクと聞いただけでもめまいがする」

 わざとらしく伸がこめかみに手をやる。

「マジかよ。当分ギョウザも焼き肉も食べられないな」

「我慢するんだね」

 涼しい顔で伸は笑う。

「ま、いいや。伸の手料理が食べられるしな」

 スープの最後の一口を飲み干して、遼は頬杖をついてにやりと笑った。

「そういうこと」

 言いながら、伸は空いた食器を持って台所へ立つ。

「片付けは後にして、先に買い物行こう」

 遼は押入れからコートを引っぱり出しながら言った。伸が半分だけ振り返って遼を睨む。

「だめ。人間、けじめは大事だよ」

「・・・参ったな」

 遼は苦笑した。伸が言うといかにももっともらしく聞こえる。そんじょそこらの「人間」が言うよりも。

「手伝おうか?」

 コートを玄関に置いて伸の傍らに戻った。

「いいよ、水が冷たいからね」

 ガス湯沸かし器がついているにもかかわらず水で洗いながら伸が答える。

「冷たいならお湯使えよ」

 点火スイッチに伸ばしかけた手を伸に止められた。

「君が、だよ。僕は平気だから」

 緑色の目が穏やかに笑っている。

 もっと人間らしくふるまえばいいのに。現実逃避や自己満足かもしれないけど、せめて忘れさせてほしい。今だけでも。

「はい、おしまい。行こうか」

 じっと立ち尽くす遼の表情にも内心にも気付いた様子もなく、伸は手を拭いて戸締りとガスの元栓を確認している。

「・・・ああ」

 短く答えて遼は玄関のドアを開けた。コートを着ながら、当たり前のように呼び掛ける。

「伸の、そこに置いてるから」

 寒くないなんて言うな。僕は人間じゃないから、なんて言うな。

 伸の返事を聞かずに外へ出た。とっぷりと暮れた闇に吐息が白い。ラバーソールで踏むコンクリートがひしひしとかんそうした音を立てるのを聞きながら、階段下の駐輪場からさっき乗って帰ったばかりの自転車を引っぱり出す。ハンドルが痛いほどに冷たかった。

「鍵閉めるよ」

「ついでに持っといてくれ」

 自転車を押して玄関先で伸を待った。鍵をコートのポケットに入れた伸が足音も立てずに歩いてくる。

「お待たせ」

「後ろ乗れよ」

 遼はサドルにまたがって促す。伸は素直に荷台に乗った。

 よいしょ、と一足目のペダルを踏み込む。思いのほかそれは軽かった。人ひとり乗せているとは思えないほどに。

 そう、知ってはいる。吸血鬼の体重は外見を大きく裏切る。
 じきに国道脇の歩行者自転車ゾーンに出た。

「・・・ずいぶん明るいね」

 驚いたように伸が後ろで声を上げる。

「大丈夫か?」

 遼はとっさに自転車を止めた。片足をついて伸を振り返る。つい、いつもの道を通りかけた。伸のことなど考えずに。

「平気だよ。夜だからね」

 伸は逆にそんな遼に驚いたように笑う。

「人工照明は何ともないよ。ほんとに大丈夫だって。行こう、こんなところで止まってちゃ交通の妨げだよ」

 歩道の真ん中で人通りの邪魔になりかかっていることに気を取られて伸は遼を促す。

「あ、ああ」

 遼はどうにか発車させた。

「もう日も暮れたのにずいぶんたくさん人がいるんだね」

 伸は遼の腰に軽くつかまったまま新鮮そうにあちこちを眺めているらしい。遼はわずかに苦笑した。

「まあな、帰宅ラッシュだろうな。昼間より夕方の方が人通りが多いんだ。ここらは通りぬけ道だし」

 言葉通り、道路は帰宅を急ぐ勤め人やら大学生やらの車で埋まっている。もっとも、大学生に関しては帰宅ばかりとも言い切れない。これから遊びに出かけたり、夕食を兼ねて飲み会へ繰り出したりするのかもしれない。

 赤信号の下にずらっと列を作っているテールランプの群れは信号が変わってもそれほど進む様子もない。今日も渋滞はひどいようだ。

 いつものありふれた光景だが伸にはもの珍しいのだろう。遼の下宿に移ってから外に出るのは初めてではないにしても。
 歩道にも人はあふれていた。自転車も歩行者も気のせいか忙しなくすれ違っていく。混雑の中を無灯火で走り抜ける高校生らしき自転車もいる。

「・・・今の、カップルだった?」

 突然伸が遼の背中をつついた。すれ違った二人乗りの自転車のことらしい。

「そうだろ」

「自転車こいでるの、女の子の方だったよ?」

 伸はさも大変のものを見たとばかり勢い込んで遼の背中をたたく。

「よくあるって。珍しくないよ」

 自転車でも自動車でも、運転してるのは女の子で彼氏はちょこんと乗っているだけ。そんなカップルなんてはいて捨てるほど見掛ける。高校生の二人乗りなんて、男の方は彼女の肩に手の置いて立ち乗りだ。

 遼が答えると、伸は憮然とつぶやいた。

「・・・世の中間違ってる」

 吹き出してしまって、ハンドルがふらついた。ガードレールにぶつかりそうになって慌てて遼はブレーキをかける。

「危ないじゃないか、遼」

「・・・サイコー、それ」

 電信柱に手をついて自分を支え、どうにか笑いを収めた遼が涙を指で拭く。

「何がそんなにおかしいのさ」

「バイト先の子どもがさ、口癖なんだよ、それ。親の受け売りなんだろうな。二言目には世の中間違ってるよ、って言うんだぜ」

 話しているうちに落ち着いたらしい。

「こぐの代わるよ」

 笑いすぎて腹筋が痛いらしい遼に、伸はどこか面白くなさそうに荷台から降りた。

「もう着いた、そこだ」

 遼も自転車から降りて押して歩く。

 すぐ目の前が大きなスーパーだ。煌煌と照明が駐車場の隅までもさながら真昼のように照らし、仕事帰りに夕食の買い物を済ませる人々でごった返している。駐車場からでも、ガラスの向こうのレジに長蛇の列ができているのが見て取れる。

「・・・約束、破るなよ」

 遼はひとり言のようにつぶやいた。伸がそちらを見る前に、さっさと自転車を押して駐車場の奥へと入っていく。

 伸も慌てて遼を追った。うっかりしていると人ごみに撒かれて迷子になりかねない。

「遼、待って」

 買い物かごを提げて野菜売り場を通り抜けようとしていた遼は、呼ばれてくるりと振り向いた。

「何だよ」

 見れば伸はどうにか野菜売り場へさしかかった辺りで、肩で息をしながらよろめいていた。

「伸、具合悪いのかっ!?」

 駆け寄って肩を掴んで支える。

「・・・そうじゃないよ、あんまり人が多くて・・・ああ、死ぬかと思った」

 伸ははあっとため息をついた。

「すまない」

 どうやら出入り口付近の混雑に巻き込まれてもみくちゃにされたらしい。

「・・・笑い事じゃないよ、まったく」

 伸の大げさな言葉がおかしくて、つい遼は笑った。伸はまた眉をしかめる。

「世の中すっかり変わっちゃって。遼は心配するけどさ、こっちが襲われそうだよ」

 すっかりげんなりしている伸には悪いが、笑わずにはいられなかった。

 思ったより大声で笑ってしまったらしく、周囲の人がじろじろと二人を眺める。伸は視線に気づき、慌てて遼を引っ張って人ごみに紛れこんだ。

「もう、何やってんだよ」

 半分だけ振り返ってあきれたように怒ってみせる伸にどんどん引っ張られながら、遼は愉快だった。

「ああ、ごめん」

 伸がぴたりと足を止めた。

「わっ、ごめん、マジで反省---」

「いけない、大根買うの忘れてた」

 伸はくるりと向きを変えて人ごみの中を器用に逆行する。ぐるんと半円に振り回されて、遼はそのまま伸に引っ張られていった。伸はすいすいと人ごみをかわしていくが、引きずられている遼はそうはいかず、すれ違いざまにぶつかってしまっては謝ることの繰り返しだった。

「伸、手離してくれよ」

 背中に頼む。

 身体ごと伸は振り返った。必死だった顔が、遼を顧みた瞬間だけぽかんと目を見張る。それはすぐ笑みに代わっていった。

「・・・この手はね、一生離れないんだよ」

 声を呑んだ遼に、伸はわずかに俯いてくすりと笑った。

「ウソだよ」

 遼は硬直して立ち尽くす。伸は何もなかったようにまた人並みを逆行し始める。

 老婦人にぶつかりそうになって危うく正気に返った遼は、辛くもかわしてつないだ手を頼りに伸に追いつく。

「・・・今の、何なんだ?」

 後ろ姿に問いかける。

「え? あ、あれね。さっき料理しながらテレビ見てたんだ」

 振り返らない背中が答える。そうか、と遼はつぶやいた。

「・・・本当にそうなら、いいのにな」

「何か言った?」

 伸が聞き咎める。振り返らない伸の横顔を遼は肩越しに見つめた。

 あのCMのように、見知らぬ街角を二人で歩く日が来るだろうか。雑踏のざわめきは想像上の街角を吹き抜ける風のようだった。

「何でもない」

 握られた手をぎゅっと握り返して遼は答えた。

 嘘のように温かい手だった。




                                                      (第3章へつづく)

 





     長い長い眠りから目覚める。


     この時をどれほど待っただろう---








1. Twilight Herat




「ん・・・」

 光がまぶしくて手を上げた。

 何だろう。ずいぶん長い夢を見ていたような気もするけど、思い出せない。
 誰かが僕の名前を、呼んでいたような気がする。

「やっと起きたな、伸」

 青白い光の下に。

 漆黒の瞳と髪の若者がいた。

 誰だろう、伸って。

 ゆっくりと身体を起こす。横たわっていたのは、コンクリートが打ちっぱなしの床から30センチと段差のない低いベッドだった。正面に見えていた青白い光が頭上に回る。ありふれた蛍光灯らしかった。

 やけに幅の狭い、長さだって僕の身長ぎりぎりしかないベッドに起き直って床に足を投げ出す。

 どこか魂の奥深くから、じわりと滲むように記憶が浮かんできた。

 ああ、そうだ。

 伸とは僕の名前。ここは僕の寝室。

 そして彼は・・・よく知っている・・・ずっと僕と一緒に・・・。

 そこで記憶は途切れていた。手繰り寄せようにもふっつりとその先はない。

「君、は・・・」

 壁にもたれて僕を見下ろしている彼に投げかけてみる。

「また寝ぼけてるのか」

 彼は少し眉を寄せる。怒ってはないみたいだ。困惑しているというのでもない。そう、彼はただ苦笑している。

「・・・僕、そんなに寝起きが悪かった?」

 いつも目覚めるたびに彼を苦笑させていただろうか。覚えていない。思い出せない。いつもどうだっただろう?

「今日はひどい」

 彼はそう答えて声をたてて笑った。花に似ている。色鮮やかな夏の花に。

「腹へってるだろ」

 ぼんやり彼を見ていた。言われるまで気がつかなかった。そういえば、空腹だ。

 違う。

 これは。

 この飢餓感は、渇きだ。

「うん・・・喉が渇いてるんだ。飲み物、あるかな?」

「今持ってくる」

 言い残して彼はすっと隣室に消えた。

 なんだろう。僕の返事を待っていたように感じたけど。見間違いでなければ、喉が渇いたという答えに彼はぴくりと身体を震わせた。

 もしかして、言ってはいけなかったのだろうか。僕はその言葉を。でも、いつも彼にそう言っていたような気がする。

 ふと気付いた。

 何か匂いがする。ひどく鼻先につく、けれど決して嫌悪の対象ではない匂い。懐かしくて、そして哀しい。どちらかの記憶とつながっている・・・いや、彼だ。彼を思い起こさせる。

「ほら」

 目をあけると、彼が右手で大きなグラスを差し出していた。すぐそこに立っている彼からその匂いがする。いや、これはグラスの?

「・・・いらないのか?」

 彼が低い声で尋ねる。

「ありがとう」

 あわててグラスを受け取った。それはどうやら彼の期待に反したらしかった。グラスを離した手はしばらくそのままの形で目の前にあった。どこかがっかりした、半ば諦めた顔をしているのをまともに見られない。でも、これは渇きを癒やすためにどうしても必要なんだ。

 どうしても? このジュースは何だろう? なぜ僕はこんなにも執着している?

 分からなくなってつい彼を見た。グラスの液体と同じ匂いがする・・・もっと濃厚に。

「---怪我してるじゃないか!」

 彼の手首の包帯に気付いた。顔色が悪いのは蛍光灯の色のせいではなく、きっとこの怪我のせい。

 彼の左手を取った。手首の傷はかなり深い。深紅の色が滲んでいる。

「どうしたの、これ。早く手当てを---」

 ふと緊張を感じて彼の顔を見上げた。

「伸」

 青ざめた唇を噛んで彼は僕を遮る。はっと胸を突かれた。

 彼はなぜこんなに苦しんでいるのだろう。

 哀しい。

 悲しまないでほしい。

 何かが記憶の中に浮かびかけた。分からない。今、何を僕は考えていた? あれは・・・

 彼がそっと手首の包帯をほどき始める。次第に強くなるあの匂い。まだ片手に持ったままだったグラスを思い出した。そうだ、喉が渇いてるんだった。

 でも、彼の手首から目が離せない。手首の傷から、今もまだあふれ続けている真紅の・・・
 最後の包帯が外される。

 あらわになったそこへ、狂おしく唇を寄せた。

 欲しい。

 君の、血が。

 深く刻まれた亀裂からじっとりと湧きあがってくるそれにそっと舌を這わせる。手のひらに伝い落ちていく滴の一つもこぼさぬように。

 なんという甘露。君の血は。そう、君の・・・

「遼」

 赤く染まった唇で彼の名を呼ぶ。

 彼は・・・遼は安堵とも落胆ともとれる溜息をついた。

「伸。これ以上吸われたら倒れちまう」

 手首からの出血は止まりそうにない。このままでは失血死してしまう。

 傷に人差し指をあてて軽くなぞった。すうっと皮膚が癒合していき傷の跡すらもなくなる。今まで傷があったあたりの、肌に残る血をきれいになめとって、僕はようやく顔を上げた。

「大丈夫かい、遼」

 遼はやっと笑った。

「ああ」

 笑顔にやつれが見える。僕は眼を伏せた。

「復活の儀式にだいぶ使っただろう? それなのにまたこんなに・・・」

 俯いたままグラスを揺らした。新鮮な血液のかぐわしい香りが鼻孔をくすぐる。一息で飲んでしまうには惜しい。

「大丈夫だ。輸血してるから」

 科学が進歩したとはいえ、血の出し入れは人間の肉体にとっては随分な苦痛を伴うだろうに。

「・・・ありがとう」

 ほかには何も言えなくて、そうつぶやいた。グラスに口をつけ、ゆっくりと飲み干す。

「いいって」

 遼がそっけなく返す。その横顔を見つめた。

 変わらない。変わっていない。黒曜石のような瞳も、小麦色に灼けた肌も。変わっていないはずはないのだけれど。

 そうとも、変わっていないはずはない。この間僕が眠りについた時、遼は青年期を終えるぐらいだった。

 仮の眠りと、転生。

 あれから何年経ったのだろう。服の材質もデザインも僕が知っているものとはかなり違う。

 転生してから記憶が戻るまで、どれぐらいかかったのだろう。僕が今回の眠りにつく前の遼は、もっと幼いころから僕のそばにいた。

「今、何時?」

 時の流れからはみ出したこの地下室に時を刻むものはない。遼を除いては。

「3時過ぎだ」

 遼は傍らの腕時計を見もせず答える。ちょうどそれくらいになるだろう。午前0時から儀式に取り掛かったとすれば。

 ということは今日僕が起きていられるのはあと3時間くらいか。

「真冬だから日の出は7時過ぎだ。あと4時間くらい起きていられるな」

 僕の気持ちを見透かしたように、遼はそう言ってちょっとだけ笑った。

 そうか、今は冬か。夜が、遼と一緒に過ごせる時間が一番長い季節。地下室は冷え冷えとしている。僕は別に寒さを感じないからいいけど、遼にはまるで冷凍庫だろう。

 遼の顔には血の気がない。さっきのグラスの分と、手首の分だけで・・・少なく見ても、400。儀式に使った量は? ・・・あまりにも無茶だ。一時に抜くには多すぎる。地下室の冷え込みも重なって、このままでは倒れてしまいかねない。

「出かけよう。ここは寒すぎるよ」

 立ち上がった僕を、遼がわずかに見上げる。ああ、僕の方が頭半分ほど高い。僕が思うほど、まだ成長してはいないのかもしれない。

「伸。・・・約束、覚えてるよな?」

 ポケットに手を入れて、半歩下がって遼は僕を見る。泣き出しそうにすら見える、悲愴な顔で。

「・・・覚えてる」

 忘れる訳がない。

 うなずいて、続けた。

「遼以外の血を吸わない。人間を襲わない。昼の世界を脅かさない」

 この約束があるから、僕は眠りの中で待ち続けていた。遼が再び僕を目覚めさせに来るまで。

 ポケットの中のこぶしから力が抜けていくのが見えた。こわばっていた肩からも力が抜けて遼の顔に微笑みが戻る。

「忘れるなよ」

「君もね」

 笑ってそう答えた。

「約束だったね、遼。僕がもし約束を破ったら・・・君が僕を滅ぼす」

「・・・分かってる」

 遼は目をそらして早口につぶやいた。

「行こう」

 そう言ってから、靴をどこにしまったかな?と悩んだ。どう見ても素足だった。服は、何着てたっけ? やっといつもの調子を取り戻してきた頭で考えながら、壁際の戸棚を開いて、扉の内側のはめ込み鏡に全身を映してみる。

埃でも積もったのか薄蒼黒いカッターとスラックス姿だった。

 普通、死者は鏡には映らない。

 僕だって気を抜けば映らなくなってしまうから意識しなくてはならないが、吸血鬼が特権階級なのはこんな能力のせいもあるのかもしれない。そう、正確にいえば吸血鬼は死者ではなく不死者だ。死んだ者ではなく、死ねなかった者。

 戸棚の奥の方で、かつて僕の服だったものがぼろきれになっていた。身につけていない衣服は正しく時間の流れに沈む。

「着替え持ってきてるぜ」

 鏡越しに遼が笑う。

 紙袋から差し出されたネルのシャツとセーターとジーンズに着替えながら

「・・・どこに行こうか?」

 なんとなく尋ねる。

 こんな夜中に営業しているところといったらあまりまともなところではないだろうけど、それでもこの陰気な地下室よりはずっとましだ。いざとなったら催眠術でも邪眼(イーブル・アイ)でも使って一夜の宿を探そう。遼のために、少しでも暖かくて居心地のいい場所を。

「おれの部屋に来いよ。夜が明けても大丈夫だから」

 遼の家に招かれたことはほとんどない。いずれまた死んでは生まれ変わる仮初の縁でも、遼にとってその一生で出会った大切な家族には違いない。だから僕はできる限り接触しないように注意を払っていた。

「いいの?」

「一人暮らしなんだ」

 遼はあっけらかんと答えた。

「でも」

 ふと真剣な顔をして僕を見る。

「なに?」

 手を止めて遼を見守る。何か不都合でも思い出したのかな。僕なら大丈夫、あまり期待はしていない。

「・・・なんて顔してんだ。伸が来たら二人暮らしになる、って思っただけだ」

 怒ったように答える遼に、つい笑った。

「伸、早く。夜が明けたら明日までお預けだぞ」

「それは大変だ」

 慌てたふりでおどけて、急いでセーターを頭から被った。少し丈が短いかなぁ。

「・・・伸の服、買いに行かなくちゃな」

 着替えが終わるのをドアのところで待っていた遼は、ジャケットを羽織って靴をはく僕を見て目で笑った。さては君の服か。

 遼には内緒で買いそろえておこう。いや、待てよ、一緒に買いに行くってのもありか。

「行くぞ」

 遼がドアノブに手をかけるのを見て、思わず身構えた。大丈夫だ、まだ夜は明けない。理性では分かっている。

「大丈夫だって」

 ドアを開きかけ、遼は振り返って笑った。まぶしい笑顔が記憶の残像とだぶる。

 ああ、遼は変わっていない。僕はもうためらわず、遼に続いた。

 狭い螺旋階段を上がって通路を進む。やがて、突き当たりのドアの前に僕たちは立った。

 このドアを開ければ、外だ。そこには遼の住む世界の夜が広がっている。

 なかなか感慨深いものがあった。このドアから出るのは何十年振りだろう。いつかはまたここへ戻ってこなければならないとしても。

 長く暗い廊下を振り返りもせず、無言でドアノブをつかんだ遼の手を押さえた。

 代わってノブを回す。

 軽い軋みをたててドアは外へと開く。

 しばらくそのまま立ち尽くしていた。

 外はなんて明るいのだろう。夜空には星さえ輝いている。僕にとってはこれこそが活動の時間、真昼だ。

「伸、こっちだ」

 遼にとっては、真夜中でも。

 僕の脇を抜けて先に出た遼が手招く。運命の差に少しだけ寂しさを感じながら、第一歩を踏み出した。

 今は、遼と暮らすことだけを考えよう。そう、また遼と同じ時代を生きていける。・・・そう、なるべく早く仕事を探さなくては。先立つものはやはり金だと思う。邪眼を使えば詐欺まがいのことも楽勝だけど、遼に対して疚しくない正当なお金を手に入れたい。夜の仕事はたいてい稼ぎがいいから、夜の住人にはありがたい。

「おーい」

 いつの間にか遼の姿はかなり遠くなっている。考えるのやめて慌てて駆け出した。

「待ってよ、遼」

「置いてくぞ」

 遼が笑っている。僕も笑いながら追いかけた。

「暗くって迷子になりそう。手つないでよ」

「ばか。言ってろ」

 追いついた僕に遼は呆れ顔で返す。手の内はばれてるか。

「君がもっと弱ってると思って、心配してゆっくり歩いてたのに」

「ウソつけ。さっき血を止めるのに力使ったろ。知ってるぞ」

 ばれてたのか。僕も半分無意識にやってたから、気付かれてないと思ってたのに。生気を逆流させるとでもいうべき能力の発動のことだ。

「ウソついたら十字架だからな」

 笑いながら僕を睨む遼の瞳。きっとこの輝きは太陽に似ている。

「ごめんごめん」

 手を合わせて遼を拝み倒す。

「ま、いいや。気温よりは温かいよな」

 どちらからともなく手を握る。末端冷え性かな、遼の手は冷え切っている。

「伸の手、やっぱり冷たいな」

「遼こそ、冷え切ってるよ。でも、手の冷たい人は心が温かいっていうじゃないか」

 遼は声を上げて笑った。

「早く帰ってこたつ入ろうぜ」

「うん」

 永遠を信じるほど無邪気にはなれないけれど。

 帰ろう、僕たちの家に。




                                                           (第2章へつづく)