4. This Night
ぼんやりと見つめている視線をたどり、その先のテレビの画面の鮮やかな碧色に気付いて遼はようやく声をかけた。
「伸、鍋噴いてる」
ふと顔を上げて玄関に立ちつくす遼を認め、伸はにっこりと笑う。
「お帰り、遼」
伸は慌てるでもなくキッチンへと立ち、鍋の蓋をとってかき混ぜたりいつものようにてきぱきと動き出す。それを横目に見ながら、遼は促されるまま靴を脱ぎ、背中からおろしたリュックを部屋の隅に追いやりこたつの前に腰を下ろした。
「さっきのあれ、何だったんだ?」
珍しくナイフとフォークが並べられた夕食の、鰆のムニエルをつつきながら遼はふと手を止めた。
「さっきのあれっ、て?」
こたつの向かい側に座って肘をつき、にこにこと遼の食事を見守っている伸はきょとんと聞き返す。
「テレビに夢中だったろ」
その微笑みもあまりにもやわらかな瞳の色もなぜか癪に障ったので、右手で頬杖をついてにやりと遼は笑って見せた。
「・・・ああ、あれ」
伸は何かを思い出そうとしたり考え事をしたりする時に、無意識に視線を左にする癖がある。
しばらく考えて伸は不意にひどく遠い目をした。やりきれない切なさに襲われ、思わず手を伸ばして引き留めたくなる。
だがその前に伸が微笑んだ。
「---海の色ってずいぶん薄いんだね。ガラスの中に閉じ込められたような気分だったよ。マンタ、だっけ? イトマキエイが鳥みたいに羽ばたいて、飛んで行くんだ。水の中とは思えないくらい軽い動きで」
思い出す。
脳裏に湧き上がってくる霞のかなたの記憶を遼は見ていた。あれはいつのことだったろう。
伸は違和感もなく何世紀も昔からの記憶を、仮の眠りにも中断されることなく保ち続けている。だが遼は、転生する度にすべての記憶を一度は失い、時期が来れば思い出して伸を目覚めさせに行く。違う体へと生まれ変わり続ける間に、些細な記憶の断片が欠け落ちていくのか、すべてが引き継がれていくわけではないらしい。人間の運命の限界かもしれない。あるいは運命に逆らうことへの限界か。
「遼は、泳げるんだろう?」
自分に向けられた穏やかな笑顔と問いかけに遼は傷ついた。
吸血鬼は本能的に流れ水を恐れる。水自体が致命的な打撃を与えることはないが、流れ水に足を踏み入れればただでさえ低い体温はさらに下がり、打たない心臓の機能は止まり、身体を自分の意思で動かすことができなくなる。夜の闇を破る術のない人間にとってこの上ない脅威である夜の支配者はその時無防備な木偶の坊と化す。泳ぐことは、吸血鬼にとっては太陽に手を差し伸べるのと同じくらい叶わない望みだ。
だからこそ憧れるのだろうか。
「熱帯魚飼おう。大きい水槽で」
黙り込んでいた遼が突然勢い込んで話し始める。そんな遼をあっけにとられたように見守り、伸はくすりと笑った。
「夜行性の魚っているのかな?」
「いるだろ・・・たぶん。ナマズとか夜行性だったと思う」
遼は首をかしげて答える。伸は目を細め、それから大げさに顔をしかめた。
「エンゼルフィッシュとか綺麗なのがいいな。グロテスクなのはちょっと趣味にあわないよ、僕」
つられたように遼も笑う。
「俺は金魚の方が好きだな」
訳もなく伸はその鮮やかな赤を連想した。ガラスの鉢の中でゆらゆらと揺れる愛おしい尾ひれ。手が届きそうで届かないもどかしさが見る者の心を招き続ける。
「そうだ、夏になったら金魚すくい行こう。花火大会も」
伸の緑色の瞳を遼は深く見つめる。覚えている限り変わることのないそのまっすぐな視線に伸は耐えた。
「そう・・・だね」
南国の海のようなとりどりの色彩に包まれて淡いブルーの空が抱く昼の世界に生きている遼は、きっとあのマンタのようにしなやかに飛ぶように大地を駆け水さえも泳いで渡るのだろう。
「絶対だぞ、伸」
真剣に念を押す遼を見ながら伸は刹那を感じていた。確実に過ぎていく時間が自分と遼との違いをまざまざと思い知らせる。
「うん、絶対に」
けれどその言葉のはかなさを伸は知っている。
「・・・海もね」
そう付け足して、伸は空いた皿を手に立ち上がった。かちゃかちゃと音を立てる陶器を流しに置き、水道の蛇口をひねる。
遼が茫然と背中を見つめている気配を察知しながらも伸は口元をほころばせただけだった。
いつか。
滅びるべき時が来るなら。
マンタや熱帯魚の泳ぐあの海の澄んだ青色に向かって崩れ落ち、マリンスノーに紛れて静かに降り積りたい。伸を今までつなぎとめてきた牢獄の地下室や死に絶えた鉛色の礼拝堂の床の上ではなく、遼の手で、あの遠い楽園に。
伸はひそかに願った。そしてそれ以上に、遼と平穏に暮らせる今この時の継続を。
(第5章につづく)

