5. Freeze Moon
「真田、おい、5限---」
背中に投げかけられた友人の言葉に、
「代返頼む!」
遼はドアを押し開きながら肩越しに振り返りざまそう答えて、リュックサックを片肩にかけたまま階段を2段飛ばしに駆け下りていった。さっきまで熟睡をむさぼっていた講義机から飛び起きたばかりとは信じられない勢いで。
「代返・・・って、小レポートだったらどうすんだよ、おい、真田っ! 代筆なんかできねーの知ってんだろ!?」
ぽかんと聞いていた方も、ついさっき肩にかけた手を握りこぶしにしてあわてて叫ぶ。
が、呼ばれた背中はとうに階段の踊り場を回って廊下に消えた後だった。
かたく唇を一文字に結んで、遼は自転車をこいでいた。棒ハンドルを握りしめた腕の時計を厳しい表情で見つめる。
午後4時を少し回ったところだ。まだ陽は沈まない。けれども少しずつ確実に足元の影は長く伸びて色あせていく。
5限目の講義をさぼったことはとっくに心から追い出されていた。必修の単位がかかっていようと、今、心を占める水銀のような不安に取って代わるには絶対的に質量が不足している。朝からの講義も徹夜明けの頭には灰色の騒音でしかなく、さっさと諦めてほとんどの時間をもっぱら睡眠不足の解消に充てたおかげで、頭の回転は朝よりどうにか少しはマシになってきた。
『夜』が始まるまでにあの部屋に帰りつかなくてはならない。あの押入れの前に。
今はそこに誰もいないけれど。
伸が姿を消したのは昨日の夜のことだった。
姿を消したと遼が気付いたのは、というべきか。
帰宅してドアを開けようとしたら鍵がかかっていた。深く考えず、ポケットから鍵を出してドアを開け、部屋に入る。
いつものように日没と同時に目覚めて夕食を作り帰りを待っているはずの伸の姿が見えず、遼は寒々と薄暗い部屋に電気を点してから押入れの襖を開けた。
中が空だったことにはそれほど驚かなかった。料理の材料が何か足りなくて近所のスーパーにでも買い出しに行ったのだろう。
きっとすぐ帰ってくるさ、と遼は暢気に考えた。
電気ストーブのスイッチを入れ、今日のメニューは何かなとぼんやり期待しながら、こたつ机にプリントと講義ノートを広げて提出期限間近のレポートを考え始める。
かちり、と時計の針のかすかな音が思いがけず大きく聞こえた。
遼は手を止め掛け時計を見上げた。いつの間にこんなに時間が経ったのか、もう8時を過ぎていた。
伸はまだ帰らない。
空腹を覚えて遼は卓上をほったらかしたまま冷蔵庫へのろのろと這って行った。
無造作に扉を開けると、がちゃりとびん類が一斉に音を立てた。冷蔵庫の中の影を蛍光灯が白く浮かび上がらせる。どこかよそよそしい冷気がひやりと鼻先をかすめて流れ出す。
朝食の残りの炊き合わせの小鉢に手を伸ばしかけ、ふと振り返る。だが幻聴にも素知らぬ顔で玄関のドアは静まり返っていた。
(どこで何してるんだ、伸)
そのときはまだ、ただいつもの時間より遅れたことを不思議に思っただけだったのだ。
残りものでいつもより遅い夕食を済ませ、再びレポートの続きを並べてはみたものの、レポートとまだ帰らない伸の間を行ったり来たりで集中できない自分に気づいてとうとうシャーペンを投げ出した。時計に目をやればもう10時を過ぎている。
どうしたんだ、と遼は目を見張った。何があった? 今どこにいる、伸。
「まさか」
思わず声に出してつぶやいた。外で事故に遭ったんじゃないだろうな。
吸血鬼の苦手とするものは意外に多い。たとえば、十字架。それから、讃美歌、聖書。聖水、聖体。ニンニク。流れ水。
近所には教会もないし、讃美歌が歌われるようなサークルもない。ニンニクや流れ水なら伸が迂闊に近づくはずもない。
夜だから太陽光は関係ないだろうし、と思いかけて嫌な想像が頭をよぎる。そんなの分からない。昼の間に誰か--たとえば泥棒とか、大家とか--がこの部屋に入って、窓と押入れを開けたとしたら?
遼ははじかれたように立ち上がってもう一度押入れを開けた。
電灯の光のもとで食い入るように見つめる。
無防備に眠る伸に害が及ぼされた痕跡はなかった。一つまみの灰も、わだかまる汚液も。ここで伸が陽光に滅ぼされた証拠は見出せなかった。
そうだ。伸は滅んだりしない。
ほっとして遼は玄関の方を見た。それなら伸は出かけたのだ。どこかで何かのハプニングに巻き込まれて帰れなくなってしまったに違いない。
出て行ったという表現を無意識に避けた自分に、遼は気付かなかった。
見守るうち、すうっと滑らかに秒針は目盛りをめぐり、長針がこちりと音を立ててまた一つ進んだ。
何も手につかず、かといってあてもなく外へ飛び出すこともできず、毛布にくるまりひたすら息を殺して夜の静寂の中で伸を待っていた。
わざとカーテンを引かなかった窓の外が明るくなり始めたのを見て遼は強く唇を噛んだ。
1時間前の漆黒の闇がまるで嘘のように紺瑠璃の空が東から薄らいで白んでいく。夜明けまであと30分もないのだろう。しんしんと凍えるほどの冷気が身に沁みる。ほの白い空の色がそのまま霜になって降ってきそうだ。
太陽の上端が地平線から顔を出すより早く休息所に戻り一縷の光線も差し込まないようにぴったりと扉を閉ざして闇を確保しなければ伸は滅んでしまう。太陽光を浴びた不死者は自然の摂理に従い塵となって崩れる宿命なのだ。塵になってしまえば多分二度と伸は甦れない。人間にとって「死」が絶対のものであるように。
街角で背中から伝わる圧迫感に何気なく振り返り、ビルの間から差し込んだ一条の陽光に貫かれ、ミラーガラスの壁面に映る幾千もの太陽の反射に灼かれて指の先からさらさらと崩れていく伸の姿が大写しとなって脳裏に広がった。ぞっと背筋を悪寒が抜ける。
まだだ。まだ、こんなところで終わるわけにはいかない。遼は強く手を握りしめ、唇を噛んだ。
狭い講義室に詰め込まれ硬い机にうつぶせて、途切れ途切れに短いながらも遼は熟睡した。朝まで一睡もせずに伸を待っていたのだ。昼間の眠りは疲れのせいか悪夢さえも寄せ付けず、むしろ優しく中有の闇は遼を包み込んだ。
目覚めた瞬間にきらりと浮かんだ閃きは伸のことだった。うっかりだらしなく眠ってしまった自分に腹立ちすら覚えた。
早く伸のところに帰らなければ。
いてもたってもいられなかった。伸は今この瞬間にも、あの部屋の押し入れで、まるで時間が始まった太古からずっとそうだったかのように呼吸もせず静かに眠っている、そんな気がした。
アパートの敷地にたどりつくなりサドルから飛び降り、乱暴に自転車を階段の下に投げ出すように突っ込んだ。アスファルトにスニーカーのかかとをきゅっと鳴らしてくるりとターンを決め、遼は3歩で玄関のドアに駆け寄った。つかんだノブがひやりと手のひらに吸いつく。たそがれ始めた木枯らしの中を全速力で帰ってくる間は焦りの方が強く、それほど寒さを感じなかったが、急に身も切れそうな冷気が沁みた。
せっかちにがちゃがちゃとノブを回し、鍵がかかっていることに気づいてあわててポケットに手を突っ込んで探した。もどかしく思いながら鍵穴に差し込み、ぐるりと回す。解錠をろくに確かめもせず力任せにドアを開いた。
暗赤色に陰り始めた日差しが奥の畳にまで長細く流れ込み押入れの襖にくっきりと人影が落ちた。自分のそれさえ伸の姿と見誤りそうな脆弱さにぎょっとする。
ひどくのろのろと遼はスニーカーを脱いだ。期待が裏切られる既視感が不意に何倍にも疲労を募らせる。
玄関の板間にどさりと肩から落ちたリュックサックも鍵もそのままに夕陽の道を遼は押し入れに向かって重い脚を引きずるように進んだ。
手をかけ、息を吸って、覚悟したように勢いをつけて引いた。
束の間滞った時間が再び滑らかに流れ始める。
伸の姿はそこにはなかった。
遼は膝を折ったままじっと空虚な押入れの薄闇を見つめた。膝の上で握りしめた手のひらに爪が食い込む。痛みで絶叫を抑え込もうとしているかのように。
かちりと音がした。
目を上げず耳だけを澄ますと、壁掛け時計の秒針が次々に時刻を書き換えているのだった。
一点を見つめたままゆらりと立ち上がる。
そっと襖を閉め、遼は決意に唇をかんで背を向けた。
膝を曲げずに上体をかがめて鍵を拾い上げ、リュックサックには見向きもせず靴を履き、後ろ手に玄関のドアを閉めた。おざなりに鍵をかけ自転車を引きずり出して跨る。
遼の眼はここではない遠い場所を見ていた。
伸が休息をとることのできるもうひとつの場所。
狭いその部屋の真下の土だけが不死者に安らぎに満ちた仮初めの深い眠りを与える故郷。
間違いなく、伸はあの地下室にいる。
遼は無言でペダルを踏み込んだ。
伸は底のない闇の中に横たわっていた。
遠くとも近くともつかないどこかから、誰かが自分を呼んでいる。
だが、目を見張っても闇は透かせずどこまでも深く広がってはぐらかすばかりだった。
・・・僕はここにいる。
思考が言葉の形になってこぽりと意識の表層に昇ってきた。それと同時にすさまじい勢いで身体が浮遊の闇から上昇を始める。
漆黒の闇が色褪せ見えざる排出口に吸い込まれていき、直に黎明がとって代わった。
開いた目に灰色の壁が映る。
ゆっくりと起き上がり伸は二、三度瞬いた。大理石の彫像のように冷たく輝いていた無表情な頬に薄く肌色が注し、瞳から真紅が褪せて濃い緑に変わっていく。人間と同じ色に落ち着いた目で伸はあたりを見まわした。
灰色の壁を見るまでもなく、ここが遼の部屋でないことを思い出して伸は苦笑ともとれる表情を浮かべた。すぐに戻るつもりでいたのに、とうとう遼に一言もなく一晩留守にしてしまった。心配しているだろうか。
ふとその視線が一点で止まった。
薄茶色の埃が積もるコンクリートの床に生々しく鮮やかなイエローオーカーのがくを散らしてひまわりが一輪落ちていた。
あまりにも瑞々しくしかしそれゆえ不自然に、大輪のひまわりは咲ききらぬ短い生を断ち切った者への傲慢な呪詛のように、凍えた露の玉を青い花芯にとどめて輝いていた。
伸は気付いていたのかもしれない。
不意に薄闇の中から現れたスニーカーのかかとが激しくその花を踏みにじった。硬い茎が葉がコンクリートに擦りつけられて激しく軋み身を捩るかに打ち震える。
スニーカーはすぐに激情を去らせ、ひまわりに飽いた。
あっさり離れた靴底はひまわりの樹液に湿り鈍く反射した。顧みられず捨てられた無残な花の残骸は足首から上へと続く脚とその身体によって伸の視界から遮られる。
「・・・遼」
脳裏に焼きついた閃光の残像が繰り返す明滅にめまいに似た感覚を覚えながら伸はその名を呼んだ。自分の言葉につられて差し伸べかけた手を行き場もなく止める。
ジャンパーのポケットに両手を突っ込んだまま遼は無言で伸を見下ろしている。
その目に冷たい何かが揺れたように見えた。
つかのまの不安を振り払うように伸は微笑みを浮かべる。
今度は確信に満ちて伸ばされた腕から、遼は一歩下がった。戯れか拒否か真意をはかりかねて動きを止める伸にも遼はどこか見下すような硬い表情を崩さない。
「どうして帰ってこなかった?」
非難の言葉を遼は口にした。疑問文の形をとってはいるがその意味を持たないことは明らかな響きだった。
伸は急に渇きを覚えた。今目の前にいる遼に初めてここで逢った夜の記憶が湧き上がるように鮮やかに甦り伸を包み込む。
「遼」
その一言に欲望を伝える意志を込めて遼の目を見上げた。黒い瞳が瞬く。だがそれはガラスのように、伸の染まり始めた赤い双眸を映して見せただけだった。
「渇いたのか」
唐突に遼はそう言って笑った。
( I thirst. )
伸は答える代わりに肯いた。脳裏に閃いたその言葉に戸惑いながら。
ポケットの中で握りしめていた手を遼はゆっくりと抜き出し、伸の前に突きつけた。
見るよりも早く、伸は固く目を閉じた。差し伸べた手が我が身を庇うように身体の前でそれを遮る。意識しない咄嗟の動作だった。他の証よりは怖くないはずのそれが網膜に焼き付いて残像にすら胸が苦しい。
鈍く銀色に輝く十字架。そこに刻まれたかの人の姿。
息苦しさに伸は喘いだ。
「触れるな」
幾分和らいだ閃光に耐えて伸は手を下し、うっすらと目を開けた。緊張に張りつめた遼の顔が青白い陰をたたえているのが見える。
何故と問うことも忘れて伸は威光の城砦に守られた遼を見上げていた。
いつの時代も遼は終わることなく生まれ変わって伸を守り続け、生なき命を支えるために血を捧げ続けてきたはずだった。
けれど、十字架を突き付けて滅びを迫り運命を呪う思いつめた表情を伸は知っている。それこそ、何度も。
遼が血を与えることを拒んだら、と考えると不思議な感情が背筋を駆け抜けた。
不死者は自分の意志で滅びることはできない。遼の血を得られないならば、他者の血を求めることになるだろう。
渇きがひときわ激しく感じられた。限界を迎えて理性のコントロールを失う前に渇きを癒さなくてはならない。遼以外の人間の血を吸うことを考えるとじんと熱く脳髄がしびれた。甘く芳しい誘惑に本能が歓喜と眩暈を感じる。
それとも、恐怖か。
無意識に伸は立ち上がり、予備動作もなく後ろへ跳んだ。人間には不可能にして不可視の跳躍。今まで腰かけていた固い灰色の寝台を一瞬にして飛び越え壁際の棺の上に立つ。本能が理性の支配を食い破ろうとする今、伝統の黒づくめの衣装はなくとも高みから淡い表情で見下ろす伸の姿には魔の本性が濃く立ち昇っていた。
大人に成りきらない未然形の、現代に生きる青年二人の姿で凍てつく地下室は奇妙な劇場と化しつつあった。茶色がかったやわらかな前髪の下、時間の滞った虚ろな瞳が深紅を帯び始め、鋭い犬歯を覗かせる薄赤い唇が吐く息は万物を死の冷気に凍えさせる。
見えない糸に引かれて伸はふらりと一歩進んだ。その足が棺の端を離れても引力はためらった。ふわりと静かにコンクリートの床に着地し、伸はざらつく床を滑るように遼へと進む。
遼は唇で笑った。
こうなることは分かっていたのだ。他に伸にはどうしようもないのだから。吸血鬼として生まれたその時から、遼の血だけを糧にしてきた。最後には、どんなに拒まれても蔑まれても遼の許に戻ってくるしかない哀れな虜。
その伸が十字架にさえ目もくれず傍らをすり抜けようとしたことに遼は驚愕した。
「止まれ!」
十字架をかざして伸の前に回り込む。
「俺以外の人間に触れたら殺す! 俺以外の血を吸ったら滅ぼす、そういう約束だろう、伸!」
のろのろと伸が振り返る。突き出された十字架から伸は飛び下がった。その脚に触れた石の台が弾かれ、奥の壁に激突する。
「ひざまずけ」
幾分腰をかがめた伸に遼は一歩踏み出して十字架を高くさし上げた。
「喉が渇いたんだろ? 血が欲しいんだろう?」
ドアの前に立ちはだかり遼はかすれる声で尋ねながら、左手でもどかしく右のポケットをさぐりナイフを引きずり出す。
「見ろ、伸」
十字架をかざす右手のジャンパーの袖を邪険に払い、左手の中でひらいた刃を手首に当てる。すっと引くと朱線が入り、そこから見る間に鮮やかな紅の珠が湧き上がる。ナイフを引く痛みに一瞬ひるみながらも遼はひたすらに伸の顔を見ていた。
十字架を握る指は少しずつ透き通るように白くなり朱線はぱっくりと開いた。深紅がどっと溢れ出し、肘へと伝わり流れ落ちていく。
それを見た伸に表情が戻った。赤みを残したままの瞳が遼をはっきりと映している。
「近づくな!」
血に釣られて近づいてくる伸を見て、遼は脱力感と戦いながら笑みを浮かべた。血まみれの右腕で十字架をなおもかざす。
「この血が欲しいだろう、伸」
差し伸べられた手から一歩下がって遼は高く笑った。
「---二度と俺以外の人間に興味を持たないと誓え!」
遼の目に涙があふれた。
伸は膝を折って、頤からしたたるその滴に手を差し出す。ぽたりと手のひらに落ちた冷たさが生き血の熱さとの落差で伸を驚かせた。
十字架を額に突き付けられ伸は目を閉じた。遼は目を閉じず伸を見つめている。泣いているのではない。それでも流れる涙の理由を伸は感じていた。
伸のためにだけずっと無理に繰り返され続ける転生。何度も繰り返される眠りと目覚めの中で伸もまたその苦しみを見守ってきた。思い出さなければ平穏に生きられるのに。だが結局遼はいつもこの地下室に眠る伸を思い出し、目覚めさせに来るのだ。
今ここですべてを終わらせられるなら。
閉ざされたメビウスの輪を断ち切ることができるなら、どんなに。伸はふと希望に似た諦めを感じた。
その鼻先に香る手首を突き付けられる。
はっと目を見張り、脈打つたび赤く溢れる血潮を見た瞬間、伸はすべてを忘れた。
「誓え」
傲慢に投げかけられた問いに、伸はその手を取った。
「・・・君しか見えない。君としか、生きられない」
すがるように見上げる。
「遼・・・」
強張っていた遼の指から力が抜けていく。からんと音を立てて十字架が床に転がった。だらりと垂れた腕はすでに半分ほど赤く染まり、ぽたりぽたりと赤い染みが床に広がっていく。
牙を剥き出しにして伸は待ち詫びたそれに唇を寄せた。じっとりと傷に舌を這わせ奥をなぞるように吸い上げる。腕に伝い流れた分も唇を肌に這わせてすすり舐めとっていく。
はあ、と吐息を漏らして遼はゆっくりと崩れ膝をついた。瞼さえ重く呼吸するのも気だるい。たくしあげていた袖ももうとっくにずり下がっていて、それを伸の白い指がまた押し上げ、袖口を濡らした分を惜しむようにその間際を丹念に舌でなぞる。
「・・・あ、---」
くらりと大地が回った。蛍光灯の青白さが吐き気を催すほど眩しくて遼は力なく目を閉じる。
馨しく熱い吐息が喉にかかった。
「遼」
かすかな塩の味と甘みをたたえた伸の唇が赤いぬめりを残したまま遼の肌に触れる。狂おしく求められた口づけに遼は応じた。
時折かすめるように伸の牙が唇に触れる。地下室の凍えた床の上で抱き合いながら、右袖が冷たくなっていくのを遼は感じていた。
壁に叩きつけられて砕けた伸の寝台の破片に紛れてあのひまわりの残骸がくだけたことも知らず、しんしんと更けていく晩冬の肌を切る冷たさもそれほど感じないまま、理性の束縛を振り切った身体を伸に預けて。
窓の外の物音に、不意に意識は覚醒水準を上げたらしく、遼はおぼろげに感覚で自分の身体に気がついた。明るくなってきた室内から背けるように眼前にかざした手を見て、それが氷のように感じられた夜のことを思い出す。
額にそっとおろしても手の甲は寝起きの人肌らしくほのかに温かい。もう一度目を閉じて遼は不思議だと思った。まだほんの数時間前でしかないのに、濡れて凍えていたはずの手はパジャマの袖に包まれてすべては夢だと笑っているようだ。朝の光にかざせば指の股近くの皮膚が透けて濃い赤みの橙色に見える。
ああ、と遼はつぶやく。
また伸は不死者の力を逆流させて遼の傷を癒したに違いない。
いつも通りに自分の部屋で布団にパジャマで朝を迎えた自分に遼は少しだけ微笑んだ。昨夜あの地下室で遼が意識を失ってから、伸は遼と自転車を抱えてこの部屋まで戻ってきたのだ。袖をかなり濡らしてしまったあのジャンパーはどうしたのだろう。遼はパジャマの袖をめくって傷ひとつない手首を指でなぞりながら考えた。
ゆっくりと首をめぐらせて押入れを見やる。
相変わらずその襖は隙間もなく固く閉ざされていた。唇だけで声にせずその名を呼ぶ。
伸は遼以外の誰に心を移したわけでもなかったのだと思う。ただ、あの棺の土を求めて地下室へ戻ったのだ。
(本当に?)
遼は無意識に自問した。
昨日は偶然だったのだとしたら。
不意に押入れに駆け寄り襖を開け放ちたい衝動に駆られた。
伸が、もし、自分以外の誰かに興味を持ったら。
あのとき十字架の呪縛から逃げおおせていたら、伸は見知らぬ行きずりの人間を襲って吸血の欲望を満たしていたかもしれない。
伸を失うくらいなら、今ここでこの手で伸を滅ぼしてしまいたい。
いつだって不安で仕方がなかった。転生の儀式に伴う苦痛。生まれ変わるたび失われる記憶。何も知らず幸せなはずの幼年期も欠落感に苛まれて必死に思い出そうとした。わけもわからないまま、早く早くと焦燥にどれほど身をよじったか。
一月前、初めてあの地下室の扉の前に立った時、遼は恐れた。伸はもうここにはいないのではないかと。扉を開けて、眠り続ける伸を見てもその不安は消えなかった。伸のために手首を切ることぐらいなんでもなかったが、目覚めさせに来るのが遅すぎて二度と目を開かないのではないかと剃刀を握る手の震えが止まらなかった。
もう自分の意思では伸を失うことができない。今更にそんな心に気づいて遼は喘いだ。
「伸・・・」
答えは返らないと知りつつその名を呼ばずにはいられない自分に、遼はゆるく唇をかんだ。ありもしない手首の傷から止まらない想いが血のように脈打つたび溢れ出す。
「俺から目をそらすなんて許さない」
活気づき始めた街の景色の中で襖の陰の闇だけが時間を止めて眠っている。
握りしめた拳を力なく叩きつけて絞り出すように遼はつぶやいた。
過去世で何百回となく繰り返してきた、血を吐く思いの懇願を。
(最終章につづく)
