3. Moonlight Dance



 伸はふと立ち止まった。

 すで日没から30分が過ぎ、寒空は次第に紺青の濃さを増していた。

 足を止めてじっとそれを見つめる。やや薄緑がかったガラスの中に、人口の常春が絢爛と色彩を誇っていた。地下街の端にひっそりと店を構える花屋である。

 中でもその花はひと際鮮やかに、通りがかる者の目を引き付けた。黄金色のがくは自然光を模した照明にキラキラとまばゆく輝き、内側にびっしりと詰まった小さな花が黒水晶の質感と湛えている。

 おそらくは温室育ちであろうが、小ぶりなひまわりは春の花に囲まれて平均化されることもなく、夏の日差しを思わせる激しさで毅然とそこにあった。

 伸は目を閉じる。無意識の記憶の底で、遠い風景が揺らめく。

 その風景を知っている。その風景を知らない。

 相反する感情が、立ち止まった足を釘づけにしているのだろうか。

 たしかにそれは憧憬だった。

 まるで太陽のような花は、遼の笑顔につながっている。昼の世界の象徴として。





「ごちそうさま」

 伸はきちんと手を合わせた。

「もういいのか?」

 覗き込むように顔を見つめられ、伸は苦笑する。

「あんまり君に負担かけちゃ悪いだろ」

 遼は明らかにむっとして、視線をそらした。

「いつまでもそうしてると風邪をひくよ」 

 二の腕までたくしあげたセーターの袖を引っ張って元通りに直してやりながら伸は微笑んだ。

「伸こそ、無理するなよ」

 されるがままに腕を預け、そっぽを向いたままちらりと目だけを向けて遼はぶっきらぼうにつぶやく。

 伸は手を止めて遼の横顔を見た。

 永遠の不老不死を誇る吸血鬼にとって、最も恐れるものは陽光でも十字架でもない。滅びよりも、彼らは飢餓を恐れた。血に飢えた吸血鬼は理性の欠片すら持たない獣になり下がる。自尊心と矜持が許さなくても。

 それゆえ、伸は己を守る術を知っていた。

「大丈夫。毎日少しずつの方が身体にはいいんだ」

 そこで一度言葉を切ってにやりと笑う。

「それとも・・・そんなに僕に襲われたい?」

 伸の口調はひどく挑発的だった。遼は激昂に駆られて手を振りほどこうとする。

 立ち上がりかけてがくんと膝をついた。衝撃の源は手首だった。身体の勢いが嘘のように、手はわずかさえも動かなかった。氷の万力がつかんでいる。

 その白く上品な指を遼はじっと見据えた。掴まれた手首から先の感覚はない。

 伸は膝をそろえて座ったまま、その視線を逆にたどって遼を見上げた。口元に薄く笑みを浮かべ、手首を返す。

 力など少しも入れたようには見えず、しかし遼は伸の膝にあっさりと倒れこんでいた。

「少しはご期待に添えるよう、努力しようか?」

 屈みこんで耳元でささやく。

「伸ッ!」

 手首が自由になった瞬間に遼は跳ね起きた。こたつが背中に当たる。

 かまわず伸は顔を近づけていく。吸血の名残に甘く薫る吐息を間近に嗅いで遼は思わずかたく目を閉じた。

 こたつの木組に背中を押しつけてぎこちなく身をすくませる唇に、薔薇よりもなお赤く濡れたくちづけがそっと触れた。





 霜の降りる音さえ聞こえそうな静寂に、ふと伸は我に返った。

 暖かい布団に包まれてぐっすりと眠っている遼のまつげのやわらかな曲線の先までも、伸にははっきりと見える。

 伸にとって、漆黒の夜は生き生きと活動するのにふさわしい舞台だ。人間の平衡感覚を狂わせるほど深い闇も吸血鬼には真昼に等しい。いまや地方の農村まで不夜城と化した日本のうすら明るい夜空も、陽光さえ浴びなければ永遠の若さと端麗な容姿を保つことができる彼らの活動を妨げることなどできない。所詮人工の昼は古代より続く闇の血族の前にひれ伏すより他にないのだ。

「遼・・・」

 伸はそっと呼んだ。

 返事はない。悪夢さえ忍び寄る隙もない平穏な寝顔におもわず微笑んだ。

 その脳裏に幻の日差しがよぎる。伸は目を閉じてその色彩を追った。

 たっぷりと太陽を吸収して、あざやかにそしてやわらかくビロードのように水滴をすべらせる黄金色の花弁。繊細な短毛にびっしりと被われ光を反射させてきらきらと輝く種子の群れ。

 遠い昔に憧れたような気がする、ひまわりの残像がまぶたの裏で静かに揺れていた。意識の奥でそれは遼の笑顔と重なる。

 夜の時間の中でのみ偽りの生を許される吸血鬼にはどんなに望んでも得られない太陽の花。

 伸はしんしんと降り積もっていく闇をじっと見つめた。

 太陽をこの目で見ることはどんなに長く生きても叶わない。それが永遠の生と引き換えに課せられた不死者の定めだ。

 傍らの遼の眠りを妨げないよう細心の注意を払って立ち上がった。玄関までの襖は繊手に触れられるのを恥じたか独りでに開き、また閉じた。薄氷にさえひびのひとつも入らぬ滑るような足取りで一瞬のうちに伸は玄関に立っていた。

 奥の部屋に眠る遼を襖を見透かして振り返った。その手には鍵がすでに収まっている。質素な合金も伸の手にあれば純銀の光沢に縁どられて輝きを放つ。

 つと手が動くと、古ぼけた玄関のドアはきしみもせず闇へと開いた。合板さえ彼にひざまづくのか、無造作に手を離しても平和な眠りを破るような無様な音を立てることは決してないであろうと思わせる従順さで。





 遼は物音を感じておぼろげに目を覚ました。浅い眠りに身を委ねたままそれを聞いていたが、不意に小鳥のさえずりだと気付いた。いつ眠ってしまったのか覚えていないが、もう朝だ。

 そう、伸に手首から血を与えているうちに意識を失ってしまうことは珍しくない。

 耳を澄ませば人々が行き交う表の雑踏の音が聞こえた。ぱっと目を開けて、飛び込んでくる見なれた部屋を見るともなく眺める。

 その中に、鮮やかな輝きがあった。

 カーテンを引いた室内には薄明かりしか射してはいないが、ひと際明るくそこだけが輝きを放っている。

 ごそりと布団から抜け出して起き直った。

 すぐ傍らの畳の上に緑色の炭酸飲料の空き瓶があった。その瓶の口から一輪のひまわりが毅然と天を仰いで立っている。

 台所の隅に転がしておいた瓶だ。次の資源ごみの日に出すつもりだった。

 見覚えのない季節外れの花に手を伸ばし、遼は濃い緑の葉に触れた。尖った葉のふちがやや萎れて黄色くなりかかっている。遼の方を向いた花輪もどこか寒々としていた。

 ざらざらした葉の手触りをしばらくもてあそんだ。

 そして、突然伝心に撃たれた。

 青白い稲妻にも似た幻の痛みを感じてとっさに手を引っ込める。

 そうだ。

 この花が萎れているのは、決して凍てつく冬の大気が夏の花に適さなかったからではない。

 のろのろと手を握りしめる。

 間に合わせの空き瓶の緑褐色ガラスの奥で水は静かに凍えていた。だが水分が足りなかった訳ではないのだ。ひまわりは夏の盛りに咲き誇るほどの生命力を湛えた花だ。

 理由なら一つしかなかった。

 「死」に魅入られたからだ。

 脈も打たず、血も流れず、しかし衰えることのない若さと美貌のまま偽りの永遠をさすらう夜の魔物、吸血鬼に生を脅かされたから。

 それを、おそらくは夜の明けるまで見つめていたのだろう伸の面影を、遼は胸の奥に沈めた。深く澄んだ漆黒の瞳にひまわりだけが映っている。

 どこから探してきたのだろう。

 本来冬に咲く花ではない。どこか人工の夏の楽園から入手したことは間違いない。

 その合法性は敢えて考えないことにした。

 伸ならば、あの赤い双眸で見つめるだけでどんな人間でも従わせることができる。吸血鬼の能力の一つ、邪眼と催眠術で。

 伸が少しでも触れればたちどころに萎れ、枯れ果てて砕け散ってしまうはずの生花がまだこれほど生彩を残しているのも、にわか仕立ての従者がいたからこそだろう。伸が通りすがりの人間を操ったと思うと、襲って血を吸ったわけでもないのに胸が痛んだ。

 だめだ。こんなところで、破滅という形で終わりを迎えるなんてできない。

 遼はひまわりの背後の押入れを凝視した。その闇の中に眠る伸を、偽りではない死者の眠りの底にいる耳に届くことはないと知りながら呼ばずにはいられなかった。

 なぜそこまでしてこの花を手に入れたかった?

 うっかりその腕に抱けば、つれなく滅んで醜い残骸となって伸の呪われた宿命を嘲笑っただろうに。伸がその悲しみを味わったのではないかと慮る。

 襖はすでに昇った朝日の日差しに彩られてかたくなに沈黙を守り、その白い反射を受けてひまわりは遼を見上げていた。まるで、それが太陽ででもあるかのように。





 太陽の上端が地平線に沈んだ瞬間に伸は押入れの中で目覚めた。

 偽りの生が真実を押しのけて艶然と輝きを放つ夜が始まる。人間よりもはるかに低い体温を保つ身体が何よりも正確にその到来を告げている。

 一縷の光線も射しこまないように締め切られた押入れの中で伸は小さく欠伸をした。真の闇もその目には真昼と変わらない。

 むしろ意外なことに、伸は外の黄昏の残り陽をおそれるそぶりもなく襖を開いた。

 ひたひたと夕焼けの残照が部屋を浸していく。伸は目を閉じて闇の近づく気配を聞いた。不思議と、太陽の色でありながら夕焼けは好きだった。燃えるような地平線の色は血の色にも似て、心の奥に波のように打ち寄せる。

 ゆっくりと開いた双眸は西の空を映して赤く染まっていた。

 時計を見上げる。

 たちまち瞳は深紅から色褪せた。人間のものと変わらない緑色の瞳が瞬きする。

 唇から吐息が漏れた。

「・・・何にしようかなぁ」

 あと30分もすれば遼が5限目の講義から開放されて帰ってくる。伸は夕食のメニューに頭を悩ませつつも、それを楽しんでいた。遼のために自分にできることは他には何もない。せめて遼の喜ぶ顔が見たい。

 壁際の姿身で服装をチェックし、伸は冷蔵庫のドアを開けた。





 伸はもう一度時計を見た。

 いつもならとっくに帰ってきているはずの時間だった。食卓に並んだ夕餉もそろそろ冷めかかっている。こたつに頬杖をついて伸は首をかしげた。

 その視界の端を黄色いものが横切る。

 ふと顔を上げてそちらを向いた。窓際の本棚の上に緑色のガラス瓶が載っている。

 ひまわりだった。

 昨日、いや正確には今日の早朝、駅の地下街の花屋から買ってきた花だ。深夜は無人の温室に代価はちゃんと残してきた。伸の気配を察して萎れてしまった周囲の花々の弁償分とあわせて、うっかり触れて枯れさせてしまった1本目の代金も。

 枯らすまいと精一杯苦心して持ち帰った一輪のひまわりが、葉もがくも先端から枯れかけて黄色く縮れ、萎れていた。

 できるかぎり近づかないように注意した。この腕に包みたいと思う気持ちを無理に押し殺して、遠くから見つめるだけで決して触れはしなかったのに。

 植物は栽培する人間の感情を察知して成長にその影響が現れるという。吸血鬼に見つめられればその死気を感じて枯渇していくというのだろうか。

 伸は一途にひまわりを見上げ続けた。

「---ただいま」

 玄関の鍵が回る音がし、勢いよく遼がドアを開けた。

「・・・遼」

「ちょっと用事があって遅くなった」

 遼は言い訳がましく告げながらぎこちなく靴を脱ぐ。後ろ手に何か持っているのには気づいていた。

「ご飯、---」

 できてるよ。遼が隠そうとするものには敢えて触れず、伸は微笑んで言いかけた。

 それを遮るように、遼は後ろ手のものを伸に突き出す。

 反射的に伸は受け取っていた。

「あ・・・」

 びくっと伸は手を震わせた。腕から落ちそうになったそれを遼が再び掴む。

 花は萎れず、枯れなかった。

 はちみつ色の花弁がきらきらと伸の腕の中で輝き続けていた。驚きに目を見張り、伸はひまわりの花束を抱きしめた。そっと腕を広げ、まじまじと見つめる。

 花は依然として精彩を放っている。

「---よくできてるだろ?」

 遼は伸の顔を見て微笑んだ。

 ひまわりが、触れても枯れないと分かって喜びに輝いた伸の表情は、何度も繰り返した転生の中でも見たことがないほどまぶしかった。

 合成樹脂でできた造花の葉を撫でた。ざらざらした感触は実物に見紛うほどだ。

「・・・そうだね」

 伸はそっと笑った。

 作り物の花だと知って狂喜は静まっていた。

 でも、と心の中でつぶやく。

 ひまわりを腕にしっかりと抱えてみたいと願ったのだった。たちまち朽ち果てる生花ならばどれほど哀しくなるだろう。遼の思いやりが分かるからこそ、伸はそのひまわりをじっと見つめた。

 決して枯れることのない、生なき造花。人工の花弁と葉をつけて腐りもせずに咲き続ける偽りの命。そう、まるで不死者の象徴のように。

「・・・何だよ」

 遼は照れ臭そうに目を逸らした。

 くすりと伸は笑う。

「ありがとう。・・・折角のディナーが冷たくなっちゃったね。すぐ温め直すから、座っててよ」

 朗らかな伸の言葉に、遼はにっこりとうなずいた。

 その笑顔をしっかり脳裏に刻んで、伸は皿を手に台所へ向かった。

 ひまわりなど、偽物しか手に入らなくてもいい。触れれば枯れてしまう脆弱な花など求めない。

 触れても枯れない輝きが食卓代わりのこたつで伸を待っていた。

 伸にとって、たったひとつの何よりも大切な、太陽を象徴する光。

 忘れもしない、呪われた偽りの生でも伸が生き続ける理由のその人が。




                                                       (第4章につづく)