人の子 (マタイ16章_七巡目) | イエス様の命の言を育てて食す

イエス様の命の言を育てて食す

食べることは喜びです
肉体に食あるように、霊にも食あるのです
イエス様の命の言を繰り返し反芻して存分に味わうブログです

 

 

その人その人によって、食物や
食べ方が少しづつ違ふ

身体に合わんもの食べても何もならん

かえって毒となるぞ

薬、毒となることあると
気つけてあろうが

只歩きまわってゐるだけではならん

ちゃんとめあてつくって、よい道
進んで下されよ

飛行機あるに馬に乗って行くでないぞ

に先づあつめて、ハラでものごとを
処理せねばならんぞ

形ある世界では形の信仰もあるぞ

偶像崇拝ぢゃと一方的に偏して
マコトは判らんぞ。






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どうぞよろしくお願いします






ペテロはイエスをわきへ引き寄せて
いさめはじめ、

主よ、とんでもないことです

そんなことがあるはずはございません

と言った

イエスは振り向いて、ペテロに言われた

サタンよ、引きさがれ

わたしの邪魔をする者だ

あなたは神のことを思わないで
人のことを思っている

それからイエスは弟子たちに言われた

だれでもわたしについてきたいと思うなら
自分を捨て、自分の十字架を負うて
わたしに従ってきなさい

自分の命を救おうと思う者はそれを失い、
わたしのために自分の命を失う者は
それを見いだすであろう















ペテロは、イエス様を愛しています


それは、イエス様が神の子だから愛している
のではなく、人の子としても愛しています


むしろ、人の子としての面に比重が
あるのかもしれません


なぜなら、イエス様が 苦難の果てに
殺されることを告げた時、ペテロは
イエス様をわきへ引き寄せていさめ
はじめたからです



イエス様の身を案じたのです


イエス様は、ペテロに向かって
サタンよ、引き下がれと言われました


ですが、これは本意でしょうか


イエス様の父である神様の立場から
考えれば、我が子であるイエス様の
ことを心配する心は、神のことを思う
心に劣る感情なのでしょうか


たとえサタンだと厳しく言われても
イエス様の身を心配する心は大切なのです


たとえ偶像崇拝だと言われても 人としての
イエス様を拝する心は大切です


であっても、その罪を背負ってでも
人の子イエスを愛することが求めらて
いるのです


イエス様は、親友だからです


ここに、イエス様が肉体をとって
こられた意義があるのです


黄泉の力に勝る力があるのです


霊では遣わされていない 神様の親心が
あるのです


大事は、復活体の初穂だけではないのです



イエス様の御名が崇められますように


本日は以上となります
ありがとうございました