もしも穏やかな人が減っているとすれば、

「正論」や「正しさ」ばかり重視して、

それ以外のこと、

とりわけ正論の「言い方」や

「言うときの態度のあり方」

を軽視する状況が

あちこちに増えてきているから

ではないか。

 

そんな仮説を

前回たてました。

 

この仮説に関連することがらを

少しつけ足します。

 

われわれは

いろんな状況で

選択に迫られます。

 

哲学カフェで発言するときでも、

どんなことを、どんなふうに述べるか、

さまざまな選択肢があるなかで、

一瞬のうちに

「この選択肢の方が正しいだろう」

と決めて、実行します。

(※そんな面倒くさいことはしてない

という人は除外して

以下話をつづけます。)

 

仮に選択肢Aと選択肢Bがあるとすると、

多くの場合、

AとBどちらの選択肢も

完璧に正しいわけではありません。

 

どちらかが完璧に正しいなら、

迷うことなどないでしょう。

 

その、完璧な選択肢を選べばいいのですから。

 

でも、現実には

完璧に正しい選択肢などなく、

よりマシだと思われる選択肢があるだけですから、

われわれは迷います。

 

迷ったあげく、

Aの方がBよりも「正しい」だろう

と考えAを選びます。

 

でも、そのあと、

Bを選んだ方がよかったのでは

という後悔の念を持ったり、

たしかにBよりはAで正しかった

のだろうが、

なんかスッキリしないなぁ

と感じたり、

割り切れない思いを

持ったりします。

(※持たないひとも

もちろんいるでしょうが。)

 

場合によっては

罪悪感や良心の呵責

を持つことが

あるかもしれません。

 

こういう結果になるのは、

完全に正しい選択肢など、

現実に生活する場面では

ほとんどないからです。

 

でも、選択しないといけないから

です。

 

選択に伴う後悔の念、

割り切れなさ、

スッキリしない感じ、

こういう感覚があれば、

「アイツの言うことは正論だが、

あの言い方にムカつく」

と相手に感じさせる機会が

減るのかもしれません。

 

自戒を込めて

そんなことを思います。

 

ちなみに

このようなことを考えたきっかけは、

ロザリンド・ハーストハウス著

『徳倫理学について』知泉書館、2014

です。

 

アリストテレスの倫理学といえば

「中庸」がキーワードですね。

 

それが私にはつまらなく感じ、

敬して遠ざけてきました。

 

アリストテレスの倫理学は

「徳倫理学」

とも呼ばれます。

 

「徳」とか「美徳」

ということばからは、

偽善の匂いしか感じとれません

でしたので、

『ニコマコス倫理学』は

何度挑戦しても

読み通せませんでした。

 

ところが、

歳を重ねてきたせいか、

だんだんと

ふだん自分が考えていることが

アリストテレスの言うことに

合うようになってきてしまった

のです。

 

それで

徳倫理学について

少し勉強を始め、

ハーストハウスの著書に

出会ったわけです。

 

ハーストハウスによると、

徳倫理学は

選択に伴う割り切れなさや

やりきれなさも考慮に入れる倫理学

だそうで。

 

のんびり勉強していきます。

 

 

 

 

感情や態度にとげとげしいところがなく、

ゆったりとした感じの人、

それが「穏やかな人」だとして、

そういう人が

仮に減っているとすれば

それはどうしてなのか?

 

ちょっと思い出したことがありますので、

それをもとに考えます。

 

以前勤務していた大学では、

教員は

クラブやサークルの顧問を

いくつか持たされます。

 

だいたいは書類仕事なのですが、

ときどき、クラブ内でもめごとが起きまして、

その対応もしないといけないことが

あります。

 

たとえば

写真部の顧問だったときでした。

ある日、部員がやってきました。

相談事があるとのこと。

どうやら、他の部員に対して

不満を感じているようです。

 

不満の内容は忘れましたが、

こう言ったことは

覚えています。

 

「アイツの言っていることは

正論だが、

あの言い方がムカついて

仕方がない」と。

 

写真部だけでなく

いろんなクラブ・サークルの顧問をしてきましたが、

トラブルの原因の多くは

この「言い方」にありました。

 

思い返せば、

学生だけではありません。

大人のトラブルでも

「言い方」や「態度のあり方」

が、問題をこじらせることが

多いと思います。

 

しかも

「正論」を唱える人の

「言い方」や「態度のあり方」

です。

 

「正しいことを述べることが大切なのであって、

それを述べるときの言い方や態度などは

大切ではない」という、

これまた「正論」をもとに

そういう言い方や態度をとっている

ような感じがします。

 

法令順守や

それをカタカナにした

コンプライアンス

が重視されてきています。

 

それはそれで

大事なことでしょう。

 

でも

「法的に正しければそれでよい」

という風潮を作り出している

ような気もします。

 

「正しさ」以外のものの大切さ

が軽視されている

と言いましょうか。

 

「アイツの言うことは

正論だが、

あの言い方がムカつく」

という状況が増えている

のかもしれません。

 

もし「穏やかな人」が減ってきている

としたら、

そういう状況の増加と関係があるのかも

と考えています。

 

 

 

 

哲学カフェが終わった後、

話し合いで話題にした問いが

ずっと心に残り、

その問いを考えつづけることが

多いです。

 

昨日出された

「穏やかな人は

いなくなってしまったのでは?」

という問いが

頭から離れてくれません。

 

穏やかさとは

「安定性」だ

という意見がありました。

 

たしかにそうなのですが、

安定してピリピリしている人

のことを

「穏やかな人」とは

おそらく言わないでしょう。

 

なにか「丸さ」のようなもの、

尖ったものがない状態、

そういうものが

安定して存在するとき、

穏やかさを感じる

ということでしょうか。

 

「今日の海は

波が穏やかだ」

という場合、

波は尖ったもの

なのかもしれません。

 

じっさい、

絵で描く場合、

波の先端が

とげとげしく描かれることも

珍しくないでしょう。

 

また

穏やかさには

動きがあまりない

のではないか

という指摘もありました。

 

動きがないというより

動きがゆっくり

と言った方がいいかも

しれません。

 

態度や感情に

とげとげしさがなく、

ゆったりしたところを感じさせる人、

それが

「穏やかな人」

なのかもしれません。

 

そんな感じの人が

もし減っているとしたら、

どうしてなんでしょうね。