もし穏やかな人が減っているとすれば、
それはどうしてなのか?
この問いを問いはじめたばかり
なのですが、
肝心の
「そもそも、穏やかな人は
減っているのか?」
という問いに
答えていません。
「穏やかな人が減っている
という事実はあるのか?」
という問いです。
この問いに答えるには
調査が必要です。
調査が好きな人や
調査の専門家は
いろんな方法と指標を用いて、
調査結果を出してくれる
ことでしょう。
でも、
調査があまり好きではない私は
「穏やかな人が減っていると感じている人が
現に存在している。
この認識は
どうして生まれてきたのだろう?」
という問いを問う方が
性に合ってます。
できるだけ
いろんな方面から
この問いへの答えを探れれば
と思う質なのです。
サラ・ベイクウェルの
『実存主義者のカフェにて』
によると、
1953年頃、
ジャン=ポール・サルトルと、
政治に関する手紙のやりとりの中で
「いろいろな考えかたがあるほうが
僕は安心だし、
そこに存在の多様性が見て取れる」
とメルロ=ポンティは書いている
らしいです。
この返事は
サルトルをいらだたせた
とも、ベイクウェルさんは
書いています。
メルロ=ポンティの
穏やかさは
物事をいろんな角度からみること
から派生している
ようです。
でも、
この穏やかさに
ボーヴォワールやサルトルらは
いらだってしまう。
もちろん
政治的な考えの違いが
二人のいらだちにつながっている
のですが、
穏やかさが
他者をいらだたせることも
ある。
穏やかな人は
別の穏やかな人を
生み出すこともあるでしょうが、
穏やかでいられない人を
生み出すこともある
ようです。
「これが正解に決まっている!」
と考えたがる人や、
「正解」が早くほしい人を、
穏やかな人は
とりわけいらだたせるように
思います。
ちなみに、私は
メルロ=ポンティさんほど
穏やかな人では
ありません。
1つの「正解」があるなら
手っ取り早く教えてほしいと
思います。
でも、
人が教えてくれる「正解」が
たいてい私には「正解」に思えず、
「これが正解だ」と思った答えも
しばらくすると
全然「正解」ではない気がしてくる、
そんな年月を重ねてくると、
1つの「正解」よりも
いろんな「可能性」を考える方が
性に合ってきた
という感じです。
ベストセラーを書く先生のように
バシッと「これが正解だ!」と
いかにも自信ありげな態度で
頭が良さそうにものが言えたら
カッコイイのでしょうが。
でも、じつは、
その態度も
あまりカッコイイとは
感じなくなってきてはいますが。
いらだたせたら、
すみません。