もし穏やかな人が減っているとすれば、

どうして減っているのだろう?

という問いを問うてきました。

 

穏やかな人の一例として

メルロ=ポンティさんにも

触れました。

 

とはいえ、

実存主義者は

穏やかな人を理想としたり、

穏やかになることを

目標にしたりは

しないでしょう。

 

穏やかな人を理想の人とみなしたり、

穏やかな人になることを目標にするのは、

ストア派の哲学者や

(快楽主義などという変な名前を与えられている)

エピクロス派の哲学者

です。

 

実存主義者も

ストア派も

エピクロス派も

人間の「自由」を重視

します。

 

たとえば、

だれかにバカにされたとき、

これまでは悲しんだり激昂したり

してきたとしても、

ふと思いなおして

「別にバカにされたからといって、

悲しむとか激しく怒るとか

しないといけないわけではない。

相手には

こちらをバカにする自由があるのだから、

言わせておけばよい。

こちらにも

今までのように

悲しんだり激昂したりしないで、

相手の発言を聞き流したり

別のことに関心を向けたりする自由はある。」

などと、

これら3つの立場の人たちは

主張することでしょう。

※ちなみに、

この自由については

前回の哲学カフェで

ある参加者がご自分の経験をもとに

話してくれましたね。

 

ストア派やエピクロス派は

このような「精神の自由」を強調して、

自分の自由になることには

気を配るが、

自分の自由にならないことは

放っておく、

そうすることによって

心の平静さ、穏やかさを

維持する

という生き方を目指します。

 

他方の実存主義者も

「精神の自由」を重視しますが、

「責任・選択・自覚」の問題

との関連で自由を問題とします。

 

心が平静であるかどうかや

穏やかであるかどうかを

問題とはしません。

 

たとえば

自分には自由があることを忘れてしまい、

ある行動を選択したことの責任を負わない態度、

つまり「自己欺瞞」や「非本来的な生き方」

を実存主義者は問題にします。

 

穏やかな実存主義者がいたとしても、

それはあくまで

「結果として」穏やかであるにすぎない、

と実存主義者なら

主張するでしょう。

 

ところで

現在、書店には、

ストア派の知恵を活かして、

穏やかな人になるための、

自己啓発的な本が

並んでいます。

 

けっこう売れてもいる

ようです。

 

とすると、

穏やかになりたい人は

少なくない

とは言えそうです。

 

ストア派の本が売れた結果、

穏やかな人が増えたのかどうかは

わかりませんが。

 

少子化を憂う人が

少子化を憂う理由を述べる際、

「働いて税金を払ってくれる人

が、いなくなるではないか!

日本の経済を支えてくれる人

が、いなくなるではないか!」

といった発言をするのを

ときどき耳にします。

 

政治家や評論家、専門家のほか、

日本の現状と将来を憂うお笑い芸人

などが、

この手の発言をするようです。

 

こんな発言によって、

こんな考えによって、

人々が啓発され、

子どもを産むようになると

本気で思っているのか。

少子化が解決されると

本気で思っているのか。

 

不思議な気がします。

 

もし私が

「どうしてぼくは

生まれてきたの?」

と親に尋ねて、

「おまえは

働いて税金を払い、

経済を支えるために

生まれてきたんだよ」

と親に説明されたら、

私は親を怨むことでしょう。

 

働いて税金を納める気も

失せるでしょう。

労働や納税の義務があることを

知りながらも。

 

少子化を

経済成長や税収の問題

として捉える考え方は、

次世代を

家畜であるかのようにみなす考え方

であるように

私には感じられます。

※この考え方の人たちは

「そんなふうには

みなしていない」

とおっしゃるでしょうが。

 

ほとんどの家畜は

人間に喰われるために

生まれてきます。

 

人間に喰われることを否定する家畜は

人間が飼ってくれないので

生きていくことは

できません。

 

そういう生き物になるよう、

人間によって作り替えられたのが

家畜です。

 

少子化が続く理由として

様々な要因が考えられます。

 

その要因の一つとして

家畜化への抵抗

があるのではないか

という仮説を

私はたてています。

 

ヴィーガンが増えるのと

子どもが減るのは

どこかリンクしているような

気がします。

 

本日2025年9月21日、10:00~11:30、

第84回の哲学カフェin夙川を開催しました。

 

参加者は12名。

うち初参加の方が3名

いらっしゃいました。

 

初参加の方に

この会の主旨や進め方

を簡潔に説明してから、

いつものように、ひとりずつ

話し合いのテーマの案を

出していただきました。

 

①最近の若い人のことばづかいが

気になる。

たとえば、

以前なら「食事に行きませんか?」

と誘うような場面で

「ごはん食べに行きませんか?」

と言う。

ある若い政治家が

「ぼくは……」と述べる。

「私は……」と、なぜ言わないのか?

なぜ、こういうふうになっているのだろうか?

 

②「私は自由だったんだな」と気づいたこと。

今までなら、ある人のある言動に対して、

決まった反応をしていた。

でも、別の反応の仕方もできたんだ、

ってことに気づいた。

つまり、自分には自由があったんだ

と気づいた。

この経験から

自由というテーマを出したい

とのことでした。

 

③このブログで問うてきた

「穏やかな人」をテーマにしてはどうか

という意見。

 

④「あたりまえの考え」というものは

あるのか?

たとえば、今日、この哲学カフェに集まっている人たちが

「それは正論だね」と合意してくれるような考えは

あるのか?

という意見。

 

⑤日本は夏と冬があるだけで、

春と秋がなくなったのではないか、

というテーマ。

 

⑥「考えずに感じろ!」

というメッセージを

今朝Youtubeで見た。

これをテーマにしてはどうか?

 

⑦なぜこの、夙川の哲学カフェに

みなさん参加するのか、

その理由について

話し合いたいという案。

 

⑧孤独について。

最近、忙しくて

一人になる時間がないので、

孤独について考えてみたい

とのことでした。

 

⑨過去を振り返ることを

これまで避けてきたが、

ペットと姉が同時期に亡くなったことがきっかけで、

過去を振り返るようになった。

過去を振り返ることの意味について

考えるという案。

 

⑩中学時代に

「親は神様じゃないんだ、

人間だったんだ!」

と気づいたが、

みなさんは、

いつごろ、このことに気づいたのか?

という問い。

 

もう1つ

「頭の回転が速い」とは

どういうことなのか?

という問い。

 

2つの問いを出してくれました。

 

⑪自分の意見を述べることと、

相手の意見をじっくり聞くこととのバランス

を、どうとればいいのか?

という問い。

 

これらの案が出されると、

すぐに

「相手との距離の取り方」が

いろんな人の案に共通するテーマではないか

との指摘があり、

しばらく

他者との距離の取り方

について

いろいろ話し合いました。

 

たとえば

敬語を使うことで

相手とほどよい距離を取る

というような、

われわれが普段

あまり意識せずに使っている

距離の取り方について

です。

 

過去を振り返る意味

については、

それを「くよくよ悩む」ことと

同じ意味に捉えているようだが、

過去の小さな喜びは

何度も思い出すことで

だんだん「大きな喜び」になったり、

過去の大きな悲しみは

何度も思い出すことで

だんだん「小さな悲しみ」になったりする

のではないか、

との指摘もありました。

 

そのあとは、

前回も話題になった

利己と利他のテーマに話題が移り、

この話題が

「他者との距離の取り方」と絡めて、

もっとも盛り上がりました。

 

盛り上がったきっかけの1つが

ある参加者の

「私をこの世に生み出したのは

親のエゴ(利己)だ!」

という発言でした。

 

この「反出生主義」的発言

に刺激されて

(利己か利他かと考えて

行動したことない

という意見を含め)

参加者の方々から

利己と利他に関する

さまざまな意見が聞けました。

 

具体的な内容は

割愛させていただきますが、

初参加の方々が

発言してくださったのが

とても刺激になった

ように思います。

 

ありがとうございました。

 

私からは

「中途半端な利己」と

「徹底した利己」を

区別すべきではないか?

「徹底した利己」は

利他につながる可能性がある

のではないか?

という問いかけを

しました。

 

どういうことか、

いつものように

意味不明で

すみません。

 

あくまでも

記録ですので。

 

次回は2025年10月19日(日)

10:00~11:30、

場所はいつもの

阪急夙川駅前「洋麵亭さんれも」

で開催予定です。