哲学カフェin夙川(哲学カフェin船坂改め) -37ページ目
哲学カフェの後の
食事中の会話。
「食事は
何を食べるかより
誰と食べるかですね。
嫌なヤツとの食事は
どんなおいしいものでも
まずくなる。」
「でも
おいしいものが出てくると
心が和んで、
嫌なヤツと思っていたのが、
そうじゃなくなることも
ありますよ。」
そんな発言をしましたら、
「そういえば
『バベットの晩餐』という映画が
そういうことを描いてたねぇ。」
と教えられ、
やっと観ることができました。
敬虔なキリスト教信者さんたちの集まり。
カリスマ的な牧師さんが死んでから、
集まりがギクシャクしてきます。
彼らは肉体を否定し
精神(魂かも)を重視する立場の代表者です。
牧師さんの二人の娘が
その象徴です。
恋の喜びも
音楽の楽しみも
父親のために放棄する娘たち。
牧師さんの命日に
フランス料理を供するというバベットは
肉体側(感覚側かも)代表です。
いかに舌を喜ばせるか。
それがバベットの目標ですから。
結果として
精神と肉体、
魂と感覚の融和
が、信者さんたちに
訪れます。
バベットによって
感覚や肉体の喜びが回復する信者さんたち。
それとともに
信者さんたちの関係も
回復していきます。
おもしろい映画を紹介してもらえました。
海ガメのスープ
なんて
初めて知りました。
おいしいフランス料理が食べたくなるので
ダイエット中の人は
観るタイミングにご注意を。
次回のテーマ、
「対等とはどういうことか?」
いろんな観点から
話していただけるのではないか
と思います。
よくあるのは
「賃金」の観点。
同一労働同一賃金
の原則を守ることが
男女の対等性を実現することに
なるはずだ、
という論点。
あるいは
もっと卑近な例として
複数の人たちで外食した場合、
割りかんするかしないか。
先輩は後輩におごるのが
あたりまえではないか、
男性が女性にごちそうするのが
あたりまえではないか、
という意見は
相変わらず多いように思います。
おごるのは
対等なのかどうか。
あるいは
コミュニケーションの観点。
どのようなかたちでコミュニケーションすれば
対等なのか。
対等ではないのか。
ため口で話せば
対等なのか?
いずれにしても
さまざまな差があるなかで
その差をどのようにあつかえば
対等となるのか、
が論点になりそうに思います。
もっと根本的な観点として
そもそも対等であることは
なぜ「善」なのか?
を問う立場もありえます。
なぜ対等を目指すべきなのか。
何度も問い続けていきたいテーマです。
以前観た『グリーンマイル』を
もう一度観てみました。
DVDで、ですが。
じつは1回目は
「ふーん」って感じで、
とくに感想もないぐらいでした。
今回観てみたら、
なかなかおもしろいですね。
3時間の長い映画ですが、
死刑囚や看守のさまざまなエピソード、
ネズミのミスター・ジングルズの演技が
飽きさせません。
内容的にも
いろんなモチーフがあるようです。
その一つは
「もし現代にイエスが現れたら
どんなことが起きるか?」
のように思いました。
過去に実行したのと同じく、
ふたたび処刑してしまうのではないか。
しかも
それを実行するのは
キリスト教徒なのかも。
イエスが現代に現れてこまる
キリスト教聖職者は
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
の「大審問官」他、
何度も描かれてきたモチーフ
なのでしょう。
もしかしたら、
あちこちに、
私の隣にも
イエスはいるかも。
でも、
それに気づかない私。
予想もしなかった
そんなことを
考えてしまう映画でした。

