本日2022年7月17日(日)10:00~11:30、

第68回の哲学カフェin夙川を開催しました。

 

まあまあの天候で、

みなさん、どこかにレジャーに出かけるだろうし、

ウィルス感染者数も急拡大してますから、

参加者は少ないだろうなと予測していましたが、

10名で哲学カフェが実施できました。

 

ご参加くださった方々には

感謝いたします。

 

今日のテーマは

「あなたがほしいのは、

どんな自由?」

でした。

 

あまり堅苦しくならないように、

自由に関することなら

何でも話題にすることにしました。

 

途中ちょっとしたハプニングもありましたが、

(冷静に対処してくださったみなさんに感謝いたします)

次々に挙手して発言してくださって、

話しあいは盛りあがりました。

 

高齢の方が多いこともあって、

身体の自由に関する話しあいが

私にはとても印象に残っています。

 

以前はできたことなのに、

できなくなってしまって

不自由を感じ、

以前のように自由に動く身体がほしい、

という意見です。

 

それに対しては、

鈴木大拙の「不自由の自由」の話

を引きあいに出したりしました。

※「不自由の自由」については

ご自分でお調べください。

 

退職してから今日まで1,700日ほど

自由な生活を送ってきて、

今でも、朝起きたら今日は何をするか

考えないといけない。

それが面倒だ。

以前のように

誰かから今日の計画・予定を与えてもらう

のが、楽でいいなと思うことがある

というお話。

 

このお話をもとに、

わたしたちのなかに

「職に就いている=不自由」

「勤務中=不自由」

「退職後=自由」

「勤務終了後=自由」

という考え方が染みついている可能性

について話題にしました。

 

しかし、

この考え方は、会社等で勤務する男性

を中心にした見方ではないか。

たとえば専業主婦は

うえのようなかたちでは

「自由/不自由」を

考えないのではないか。

 

いわば主婦は

24時間365日

家庭という職場で勤務しているわけで、

自由を感じる時間がないのではないか。

 

そういう意見に対しては

退職後、家事の手伝いをしようとしたら、

どの食器はどこに収納しないといけない、

洗った食器の拭き方はこうでないといけない

などなど、

事細かに奥さんに指示される。

全然自由を感じられない。

家庭は主婦が自分の自由にできる場

なのではないか

という意見が出ました。

 

それに対しては、

主婦は義務感や責任感から

そのような細かな指示を出しているのであって、

主婦自身には自由にしている感覚はない

のではないか、との推測もありました。

 

他にもさまざまな意見が出ました。

 

自由すぎることがもたらす不幸の話や、

生老病死からの自由の話、

権力者が一見自由に、

自分の思うままに支配しているようにみえても、

権力欲などの欲望に取り憑かれているのなら、

とっても不自由な人たちなのではないか

というお話、

透明人間になって

他者の目から自由になりたい

という願望

などなど。

 

書ききれませんので、

残念ですが割愛いたします。

 

次回は9月開催の予定です。

場所は阪急夙川駅前の

いつもの「洋麺亭 さんれも」。

※具体的な日時は未定です。

ウィルス感染の状況等を考慮に入れて、

なるべく早くお知らせするようにします。

 

次回のテーマも未定です。

ただ、哲学カフェ終了後の

食事しながらのおしゃべりの最中に、

「宗教的なことがら」の案が出ましたので、

この線で考えたいと思っています。

※宗派や教義、教団組織といった社会的・文化的側面ではなく、

「生と死と宗教」といった実存的・存在論的側面です。

 

ある時期、

1〜2年ほど以前でしょうか。

 

偶然にも

何人かの映画好きが

別々に、しかも同時期に

ある映画について

紹介してくれました。

 

「『異端の鳥』という映画があって、

最後まで観られない客が続出したらしい。

人間の嫌な面を、

これでもかって感じで描いている

からみたい。」

というふうに、

これもまたほぼ同じような

紹介の仕方でした。

 

やっと観ました。

DVDで。

 

2回観ました。

 

なぜ最後まで観られない客が続出したのか、

不思議に思いました。

 

たしかに

人間の嫌な面を描いています。

 

主人公の少年はかわいそうな被害者ですが、

加害者にもなります。

 

この映画を最後まで観られない人の何割かは、

善意の人なのでしょう。

 

正確に言い換えれば、

自分は善意の人であると

信じたい人。

 

自分には善意しかない

と思いたい人。

 

この映画を途中で観るのをやめることで、

自分が善意の人であることを

確認する。

 

誤解かもしれませんが。

 

映画では

さまざまな悪意のある人が

登場します。

 

実際に身近にいたら、

怖いし、嫌だな

と思います。

 

でももっと怖いのは

善意の人のような気がします。

 

善意の人は

実際には悪をなしているのに、

それを自覚せず

自分は善意の人と

信じ込んでいそうだからです。

 

この映画は

そういう点も描いている

のでしょう。

 

十字を切りながら、

少年を虐待する人びとが

いくらでも登場します。

 

本作のもう一つのポイントは

自分の名前。

 

映画の最後で

主人公の少年は

乗合バスの曇りガラスに

自分の名前をなぞります。

 

このシーンまで

少年は名前を訊ねられても、

けっして答えません。

 

私にはまだこの含意が

キチンと読み取れていません。

 

というわけで

また何度も観たいと

思っています。

 

 

 

先日「イエスの方舟」事件を背景にした小説

『アブラハムの幕舎』

を紹介しました。

 

今日、なにげなく本の片づけをしているとき、

『朝日ワンテーママガジン4 死よ!!』(朝日新聞社、1993)

が目にとまりました。

 

パラパラめくると

千石剛賢の名にぶつかりました。

 

「イエスの方舟」の主宰者です。

 

何かの運命でしょうか。

 

さっそく読みました。

 

内容もおもしろいのですが、

人柄が偲ばれる書き方でして、

そちらを紹介したいのです。

 

1960年に千石さんたちは

大阪から東京都北多摩郡へ移り住み、

「極東キリスト教会」をたちあげ、

聖書の研究をはじめます。

 

そこに40歳くらいの婦人が

やってきます。

 

「なぜキリスト教の教会をたずねようとされたのですか?」

と訊くと

「何度も自殺を試みたけれど、

成功しなかった」

とのこと。

 

延々と自殺未遂の経験について話す婦人に

千石さんは

「話し相手はたくさんいるから、

今晩は教会に泊まっていきなさい」

と言います。

 

でも婦人は何も答えない。

不思議に思っていると、

婦人はこう言ったそうです。

「ここの教会は畳がありませんので、

泊めていただくのはご遠慮します。」

 

その返事に対して

「「なんやこのオバハン。何ぬかしてんのや。

おんどれが生きる死ぬの境目を歩いてるくせに、

よその家の畳のあるなしを気にするとは

あきれたオバハンや」

と心の底でおもったのです。」

 

婦人の夫に電話して

連れて帰ってもろうと

千石さんはします。

 

やってきた夫は、

荷物でも預けるように

無責任な感じで婦人を残して帰ろう

とします。

 

「私は内心ムカッとして

「アホぬかせ。おのれ何様か知んねぇが

テメェのカカァのことは、

ししばばこいてくたばるまで

面倒見たらんかい。

こいつアホとちゃうか」

とおもったのです。」

 

書き方がおもしろすぎて、

千石ファンになってしまいました。

 

「方舟」はつくるつもりありませんが。